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知花ときわ会

知花地域の活動と各地の情報を広く紹介し、情報共有することで地域活性化に繋げようと、このブログを開設しました。

戦争前頃の知花村の屋号

2006年03月21日 | ★歴史・伝統・文化
戦争前頃の知花村の屋号
●旧屋号名(  )内は現往者名又は屋号

1.新安田栄(三男後堂)  2.前ヌ城間小  3.前 門  4.仲前門  5.前ヌ城間  6.前ン當  7.上ヌ前門(兼本)  8.安田栄  9.前新里  10.樽安里  11.仲松尾  12.東兼島  13.兼 島  14.後兼(前新里)  15.具婦  16.樽安里小  17.兼久 18.比嘉門  19.西堂(南ヌ城間)  20.西宇嘉栄(三男後堂)  21.後大屋  22.新仲元  23.宜 保  24.前西毛  25.宇嘉栄  26.前ヌ兼島  27.西半田(徳門)28.兼島小(崎山)  29.西樽安里(西前大屋)  30.西安田栄(仲元)  31.新宇嘉栄 32.安ゲ名  33.松 下  34.新屋徳元  35.トッチン  36.西松尾  37.製糖所(津波名古)  38.津波名古  39.金 城  40.後兼久  41.玉那波(金城)  42.新屋(新屋小)  43.西大屋  44.亀殿内門小  45.具婦小(津波名古)  46.上門小 47.石橋(浦崎)  48.西吉門  49.前ヌ東門  50.新屋敷  51.志利兼島  52.前ヌ当小  53.元 部  54.製糖工場(東仲ン当)  55.殿内門小  56.新屋当ン渠  57.大当ン渠  58.後西毛  59.前ヌ上当  60.新徳田  61.徳 田  62.新城間(三男城聞)  63.神 田  64.後神田  65.吉 門  66.当  67.仲ン当 68.上 地  69.蔵ン当  70.前元部  71.玉井小(牛平田) 72.仲池ン根 73.大村渠(島築殿) 74.知花小  75.後ヌ前ン当  76.文  徳  77.山 城  78.西新里小(新具婦)  79.前池原小(西池根小)  80.当  山  81.大城小(当山)  82.○○○    83.前吉門  84.当ン渠  85.二男城間(二男当山)  86.後 堂  87.西前ン当  88.後仲元  89.東大城(二男樽安里)  90.当  小  91.西東門(西池ン根)  92.西徳元(喜納小)  93.東鳩(越来屋  94.前池ン根  95.新里小  96.蔵根小  97.東城間(町田)  98.○○○  99.大城間  100.仲ン渠小  101.後殿内門小(宮里)  102.上 門  103.仲東門  104.東前ン当  105.新屋敷  106.蒲兼久  107.祝女殿内  108.城 間  109.仲ン渠  110.新仲ン当  111.東仲ン当  112.後  鳩  113.東新里小  14.前ヌ仲ン当  115.鳩小(兼元)  116.古 堅  117.下 門  118.二男半田小  119.玉  元  120.東 門  121.○○○  122.半田小  123.大 屋  124.仲大屋  125.東徳元(三男当渠)  126.大城(知花小)  127.東殿内門  128.仲元(島田)  129.村屋(公民館)  130.前徳元  131.東前門  132.前ヌ仲  133.比嘉小  134.前ヌ知花  135.半 田  136.宮城(吉田)  137.島築殿  138.与那佐小  139.比嘉田  140.新 里  141.大名門  142.西仲大屋(安ゲ田)  143.島  袋  144.西兼島  145.上ヌ前門  146.吉 元  147.新兼久  148.西比嘉  149.上松尾  150.前半田  151.カンジャー  152.○○○  153.東カンジャー 154.○○○  155.○○○  156.新上松尾(島野)  157.○○○ 158.○○○ 159.○○○ 160.山当ン渠  161.比嘉小  162.東 仲  163.川ヌ上  164.二男西前仲大屋  165.我謝小  166.仲ヌ比嘉  167.新屋小

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知花の根屋(村の旧家)

2006年03月21日 | ★歴史・伝統・文化
根  屋                                         
には数軒の根屋がある。オホンダカリ、中大屋、島袋、グーフ、前ナーカ、チハナク等である。そのうち「オホンダカリ」、「島袋」、「中大屋」、「前ナーカ」での見聞を出してみることにする。

(1)「オホンダカ リ(大村渠)家」は、の西側後方知花城跡に近い所にある。知花の古島福地原から移動したところは、ヌル殿内あたりかその後方にを形成していたといわれ、このオホンダカリ周辺には大村渠村(現在の松本)があったといわれる。ちょうどあの有名な鬼大城が最期を遂げたころ、知花城の前には七軒の家があって、その家の茅で洞窟内に逃げこんだ鬼大城をいぶし殺したという話がある。その七軒というのが大村渠村であるという。しかしのち、大村渠村は前方へ移転して現在の松本を形成し、そこへ知花が移動して来たたのだそうである。
知花の根屋を図示すると次のようになるというのであるが、他の人たちの中には異論をさしはさむ人も少なくない。

           中大屋

オホンダカリ--- 東ナーカントー
(大ムートウ)  
           メンナーカ

しかしオホンダカリ家が古いことは皆で認めている。オホンダカリには「神ウタナ]があり、香炉が三コある。
拝む者は女性で、この家の血を引いた者である。これを「クディングワ」という。香炉一つにつき二人で拝むようになっているが、一方をウミキイ神(男)、もう一人をウミナイ神(女)という。これを夫婦に見立てミートゥンダ神という。
右側の香炉は、ウヤガニーといって、ウマチーの時は家に残って、拝みに来る子孫と杓のやりとりをし、先祖神との仲介をする。ウヤガ二ーは他のクディングヮよりも格が上である。他の四神人は村の祭祀へ出る。

右・香炉 ウミキイ……本家から(主人の姉)
      ウミナイ‥・‥ 池原知花屋から   ]ウヤガニー
中・香炉 ウミキィ……池原の知花屋から
      ウミナィ……登川から(現在は出ない)
左・香炉 ウミキィ……越来から(1966年出るべきでないと知りやめる)
      ウミナィ……本家系統

クディングヮは、朔日、15日には香炉を拝みに行く。ふだん神衣裳はこの家に保管し、ウマチーの当日はこの家から受取ってヌル殿内で着衣する。クディングヮの下にはニーブトゥイ(柄杓 取り)とウメーイー(お膳持ち)が何名かいる。オホンダカリは、知花・松本・池原・登川に270人ばかりの子孫がいる。

読谷村長浜のたしか知花屋という家には300人以上の子孫がいるという。門中墓があり、アジ墓もあって、読谷あたりからも清明祭には拝みに来る。逆に知花屋へも拝みに行く。石川市伊波の伊波ナカゾーという旧家へ拝みに行く。この家には稲を持って来たという鶴をまつってあるといわれ、米の恩に感謝するためであるが、城跡へは行かない。何年越しかで、「今帰仁上り」、島尻の「東御廻り」もする。8月20日のカーメー(井戸詣)には、主人がトゥヌ(殿-知花城跡裏)へ行って古島福地原ヘ 向って、お通しする。以前はその現場まで行ったが、現在は米軍基地内のため入れないからお通しをする。
 
クディングヮは父系である。オホンダカリは大元であるが、神人は中元からも出る。池原の知花屋は中元である。子孫が拝みに来る時は、神御棚の香炉三つとも拝む。

(2)「島袋」には香炉が三つあるが、一番左の香炉は戦前は別の棚にあったという。この家は松本の「東大屋]という家からの別れともいう。オホンダカリとの関係もなかったもよう。なくなった祖母まで11代だったという。
 ウミキイ神として、戦前まで伊計の人が来たが、この人が死亡して後任がいない。ウミナイ神 としては読谷村長浜の「前ナカゾー」一門から出た。この人は9月のカーメーにもやって来た。
 
現在はクディングヮが居ないので、朔日・15日にはこの家の主婦が代行している。そして5、6 月のウマチーには衣裳をかざるだけである。
「カーメー」には東井戸→ユナガー→フクマガー→カーグヮー→ナーカントーガー→の順で参拝する。石川市へ拝みに行っている。「東御廻り]「今帰仁上り」を以前は7年回りで行っている。浦添・辺土名へも拝みに行くことがある。
 
宇美里の「東マーチュ]という家がこの家から分家した中元である。クディングヮは5、6月のウマチーの他に12月24日にも来た。来る時は「火の神」から拝み、その後で各自の香炉を拝んでいた。

(3)「中大屋」には家の仏壇に香炉が二つあり、神棚に香炉が二つある。その他に香炉が一つ別っこにある。これは、旧暦6月25日にから拝みに来る。池原・登川・美里あたりにも子孫がいて、5月15日、6月15日には拝みに来る。
一つの香炉に二人ずつ(ウミキイとウミナイ)がいて、ウミキイは家に残り、ウミナイはトゥンの部落行事に出るようになっていた。清明には石川の伊波に拝みに行く。

(4)「メンナーカ」には、仏壇に4つの香炉がある。神棚には二つの香炉を置いている。二つのうち右はウミキイ、左はウミナイの香炉といっている。現在はウミキイ神だけいる。ウミナイ神はトゥヌへ出る役目であるが、ここ30年ばかり出ていない。

むかし、福地原からオホンダカリ、中大屋、メンナーカの三人兄弟が知花へ来て炭を焼いた。雨が降り、ワタンジャー(渡地)を渡れなかったので、この地に家をつくり、現はそれから出来たという。9月9日には福地の古泉へお拝みに行ったが、現在は池原の井戸からお通ししている。伊波へは8月、9月頃、5年回りで行く。読谷村へは7年回りで拝みに行く。池原からは拝みに来ていない。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 1987年


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『知 花』名称の由来

2006年03月20日 | ★歴史・伝統・文化

                            
美里村史(1952年発行)によると、知花の始祖は、今から約550年前、北山(今帰仁城)が滅びた時、宇久田(奥田)、大工廻(柵柵)、古謝の始祖と一緒に、戦乱を逃れて国頭から福地原(石川市楚南区の西南方)に移動してきた。福地原には泉があるが、知花区民は現在でもここを知花古島と称して毎年旧8月14日にクボー御拝(川願)をしている。福地原は土地の起伏が多い上にやせていて、水にも多少不便であったので後世のハナ(ハナはグーフのハナ、水のハナ、人の鼻のように高くつきでている所の意)であったので、地鼻(知花は当字だろう)と称せられた。

ところが高い所では風当りが強く、水にも不便であったので、風当たりの弱い、水の便利な現在の所に移住すると、水が豊富な東泉が発見されると、全部が現在地に移るようになって人口が増え、前村渠、仲村渠などの聚落を成すに至った。故伊波普猷氏の説によると、村渠(だかれ)というのは村別れという意味で、今日で言う、前近所、中近所、隣組というのと同意味だとされている。

知花は昔、越来按司大城親方の出身地で、その墓所も知花城跡に現存し、また、沖縄の古代文化を代表する知花焼、知花ムンダー(手軽な芭蕉織)の産地でもあり、また、昔の原始的神職である祝女のいた所でもあり、知花に関するおもろも四つ残っていて、旧所、名跡、伝説に富み、歴史的に由緒ある部落である。知花の元家は仲大屋で、毎年旧6月25日には部落民によって盛大なお祭りがある。

              【池 原 秀 光】

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ニーガンウカー(根神御泉)の伝説

2006年03月20日 | ★歴史・伝統・文化



ニーガンウカー(根神御泉)の伝説                       

知花村以前にあった「オホンダカリ村」のウブガーと言われている。昔(現在60歳代の人たちの祖父の時代の話)御泉が洪水で埋没し、人々にその名が忘れ去られた頃、知花の若者たかが相次いで死去した。それは「御泉の埋没したことに因るものだ」。とユタによって明かされ、村ではさっそく御泉の発掘にかかったが、その所在がどうしてもつかめず、村人たちは困りはてていた。そんな或る日のこと、奥間ミックワー(盲人)という人が真夜中にある家(仲ヌ前ん当)の門まで来ると「前にも後にも行けなくなった」。と言ってその家に、タバコをつけさせてくれと入って来た。

彼の盲人が言うには「どこ、そこの方向に御泉が見えるがどうしたことか、そのために私は行く道進めないんだ」。と、そのことをきいた村人たちは、その晩のうちに彼の案内、彼の指示する場所を掘ったところ、御泉の縁枠が出現し、村の難問題が、無事解決されたという。開発がすすむ中で、問題のユナガーを含め、その原形が消失し、痕跡をとどめるだけのものや完失が予想されるものなどがあり、さりとて、歴史的には、精神文化的所在としての位置づけはあるもののその一部は自然崩壊にも何ら手を打たないままにしている状態である。                                                               (知花区有志)
【参考文献】美里小学校創立100周年記念誌より


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三助じいさんの昔語り ①

2006年03月19日 | ★歴史・伝統・文化

金城山助じいさんは明治14年生まれである。1968年に米寿を祝われ、その後も達者でおられる。ここに少々まとめた話はそのころ聞いたものである。三助じいさんの屋号は「後大屋(クシウフヤ)」である。近所には有名な「知花焼窯」の跡があったといわれ、川沿いからはその破片が出るそうである。その川は嘉手納へ下って比謝川になっている。豪雨の時川から二軒目の三助じいさんの庭先まで水かさが増したこともあったという。梅雨時に訪ねていったときのこと、庭から蛙が跳びこんできたのには驚いたものである。

火打ちの話 
民間にマッチが使用されたしたのは、7、80年ほど前で、それ以前は「竹ブーブー」と呼ぶ竹筒を使って火をおこしていた。竹筒に孔をあけ、それに竹灰のようなやわらかい灰を入れ、火打石と鉄を打って出た火花を煙管のたばこに点火し、たばこに火がつくと、それを竹筒の灰に落しておき、枯松葉などに移して火種とした。家族にたばこを吸う人がおればよいものの、いない家では「火取り」を持って、朝などよく貰い火をした。

釈迦とミルク 
むかし、サーカとミルクという神がいた。両神は土地の領有をはじめた。サーカは「見える土地は自分のもの」といった。ミルクは「見えない土地は自分のもの」とそれぞれ土地を領有した。
 ところが、サーカは目分の領有がやせ地であることを知り、腹を立てて火種を隠してしまった。それを見ていたのがいた。それはセーグヮー(ばった)であった。世の中は暗くなり、いろいろの悪いものが発生し、悪事が続発した時だけに、セーグワ―の知らせはミルクを喜ばせた。火打ち石は川に投げ捨てられていたのである。これを拾って世の中を元の明るさに戻したミルクはセトグヮーに言った。「おまえが死ぬ時は、土の上でなく草の上で死ぬがよい。」こうして徳をさずかったセトグヮーは今でも草の上で死ぬということである。

廃藩のサムレー 
明治のころになると廃藩置県があって、首里、那覇から無禄の士族たちが田舎へ下り、ヤードゥイ(屋取)をつくって住みついた。その頃の歌に次のようなものがある。

あわれつれなさや廃藩のサムレ
今や山原に下がていめさ
  (哀れなのは廃藩のサムレ(士族)である。今は昔の栄華もどこへやら、草深いヤンバル(国頭地方)へ下っておられるよ)

これに対してサムレーたちも次のように答えたものだ。
 
玉や砕けても光あるつもり
  光ある間やサムレあらに
  
(たとえば玉は砕け、元の形を失なおうとも光だけは失なわないものだ。今このようにおちぶれてはいても、士としての節度のあるうちはサムレーであるはずだ)

砂糖キビ 
ウージ(砂糖キビ)を決められた面積より多く作ったら、畑まわりのコーサク(耕作当)がやって来て、根こそぎにして捨てた。そのころの上納は次のようになっていた。
 ちゅういじ………………1丁
 五分………………………1丁の半分
 二分五厘…………………4分の1丁
 1分2厘5毛……………8人で1丁
 
上地マチースーのこと
 内にあまり頭のきかない、働けない人がいた、名前は「上地マチー」といい、ふだん「上地マチースー」といっていた。
 ある年、上納物に苦労した家族は、この男を死亡したことにして葬式を簡単に取行ない、山原地方へ逃がした。
 それから何年もしてほとぼりもさめたころ、この男は帰って来たが、帰って来てからもろくに仕事もせず、葬式の際の龕(がん)の係りとかニンブチャー(鉦打ち、念仏師)などしていた。

地割り直り 
百姓地は3年ごとに所有がかわった。それを「地割り直り」といった。3年目になって「地割り直り」が近づくと、畑にある作物は青物でも取入れを急がねばならなかった。そのままにしておくと他人のものになったからである。それでその頃になると畑は荒れてモウ(荒地)になった。そして食糧難に陥り、蘇鉄を食べることも少なくなかった。
 百姓他の他にシチャキー上納(仕明上納)があった。これは上納は安かったが、労働力を要
することで、特定の家以外に持てるものではなかった。請地の上納は少し高かった。

「はぜまけ」の返し口
「はぜまけ」の返しを時々やっている。自分がやるとすぐ治る。
むかし一人娘が夜遊びに耽り、朝寝坊ばかりしたので、親がせっかんしたところ、それを苦にしてハゼの木に首をくくって死んでしまった。それ以来、この木の下を通ると木の毒気にあたってかぶれたりするが、それはすべてあの不幸な娘のせいだそうな。
 
ハジよ ハジよ ハジよ
 ようりちきよ ようりちきよ ながりちきよ
 この 已相(ミーソー)男の 朝口 夕口や
 おとろしむんど
 
たほう たまじりの
 さあてイんじ かかりよ
 うぬ(その)義理聞かんあれぇ
 唐から下て来ようる大大刀(ウータチ) 小大刀(クータチ)さあに
 たち切りすんど 横切りすんど
 
東大山の木や、根切れぇ 梢や 枯りんど
梢しけぇ 根やむてぃ
うりとぅちゅん 聞かんでぇ
炭窯に ふすみらすんど
あくちん ちかますんど
蟹(ガニ)に食わすんど

ふるみよう(不動明王) ふるみよう
ふうみよう
なみあみだんぶつ (南無阿弥陀仏)
なみあみだんぶつ なみあみだんぶつ
らそうくらみて てらさいよ らそうくらみ
ててらさいよ らそうくらみて てらさいよ

こうしてヤナグチ(嫌口)を言って煙草の煙を吹きつければ治る。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 1987年 より 
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三助じいさんの昔語り ②

2006年03月19日 | ★歴史・伝統・文化

山を巡視した時の話 
「山勝負」のとき、楚南・山城との境界の山めぐりに3名で出かけたことがあった。すると知花区域の山から赤染木(シャリンバイ)の皮を剥いでいる男たちを発見した。相手は山城の者たちで3名だった。ここも3名で、結局1対1で相手を捕え、山城へつき出して一札入れさせた。

あるスーガシラ 
「スーガシラ」とは、いわゆるの会計庶務にあたる者のことで、このようなことがあった。
 ある人がスーガシラになったら村のグムチ(積立て金)を横領し、その金で牛を買って他人に飼分けさせたり、土地を買ったりした。一年たったらグムチの決算期があり、それの埋め合わせに那覇の嘉数という高利貸から金を借りたため、ついには土地はもち論のこと家、屋敷まで取られてしまった。

砂糖運び
 知花からの砂糖積み出しは嘉手納の比謝橋までで、そこからは山原船で那覇へ運んでいた。
 よく砂糖運搬に雇われた。馬の鞍に二丁ゆわえつけて運ぶが、それで16銭だった。1日によく働いて3回は運搬できた。昼食は嘉手納の町から豆腐1丁にタンナハクル一、三枚買ってそれですました。しめて1銭5厘から2銭というところだった。また那覇までは90銭の運賃がもらえた。朝五時ごろから出発し、途中は牧港の励で休憩し、帰りは晩の十時ごろになった。当時の且雇賃が十二銭で、米一升、豚肉で一汗の値段はいつも同じだった。そのころの砂糖の値は1丁3円から4円というところだった。

砂糖樽かつぎ
 当時の製糖はいわゆる「引き車」で、一昼夜に5丁しか製造できなかった。ユンタンジャー(読谷山)とよばれる「島ウージ」だった。1丁の重量が135斤、樽皮の重さが16斤なので、それを差引くと正味は119斤たった。
 樽は泡瀬から買った。その帯につかう竹は知花から出していた。樽を8個かつぐ者からはカナムンと言われた。中には12個(約200斤)持って村人の度肝をぬく者もいた。

砂糖上納 
18才のころである。村の上納砂糖を嘉手納へ運搬して納めて帰ると、村はずれのクビリ(地名)に村中の人が集まって酒肴を準備し、歌三味線で迎えてくれた。迎える者も迎えられる者も皆一緒になって酒を飲み、踊りながらまで帰った。上納の首尾祝いである。

首里から豚を買う 
首里のサンカ(赤田、崎山、鳥小堀)は昔から酒屋が多く、そのモロミで養豚が盛んであった。中頭からも子豚を買いにわざわざ首里まで行く人は、そう珍しくもなかった。1円持って出かけると、子豚は70銭なので10銭は昼食に使い、あとの20銭は残して帰るという時代だった。
ある時、90斤もある豚を買い、棒の先には2、30斤もある石をぶら下げて担いできたこともあった。4、50斤の中豚は買うものも多いが、」90斤ほどの豚を買う者は少なく、そのため安かった。

村の役人 
村()には次の役人がいた
ブジトゥーガシラ  2人
コウサク      4人
スーガシラ     1人
クラテイ      1人
ウヤガシラ     12人
 村の自治はすべて男たちがなすもので、婦人会などはなかった。集りは「村屋」はなかったので、村のアシビナー(遊び庭)か現在の兼本商店の敷地は昔は広場だったので、そこで集りを持った。

ニーセーガシラの活動
 青年会はなかったが、ニーセーガシラ(2才頭)というのがいた。村は前ンダカリと後ンダカリに分れて行事をもっていたので、前に7名、後に7名のニーセーガシラがいた。たいてい35才までで、役につく年限は七年であった。1回とは限らず2回も続ける者もいた。7名のニーセーガシラによって青年たちの活動は運営されていた。その活動の主なものは、村アシビー(村芝居)の計画、綱引き、角力大会の立案からはては他村へ嫁に出る女がいた場合の「馬手間」の請求まであった。婿家及び嫁家の家柄に応じて「馬手間」(シマディマ)の額を取り決めた。もし婿方が払わない時は、嫁の家に請求した。納めた馬手間はそっくり村のグムチ(積立て金)に入れた。
 綱引きやエイサー、角力大会のごときは前ンダカリ、後ンダカリ別々に催した。村アシビだけは一緒であった。知花から石川、伊波、美里あたりへ村芝居を持っていくことがあった。その返札といって、あちらから来ることもあった。そんな時には昼食は迎える側ので準備する慣わしであった。
 ある年、石川へ村芝居を持って行ったが、その時は旗頭持ちをした。旗頭の竿を1人で持つのは相当のカナイムンでなければできないとされていた。
 
村の取締フダ 
村にはフダというのがあった。元来は小さいものであったが、懐中にかくし歩くということから、長さ3~4尺もある角材にかわった。他人の山から山羊の草を刈っただけでもフダを渡された。牛馬による農作物及び山林荒らしは勿論のこと、子供が砂糖きびを食べるのや果物類を食べてもあてられる始末であった。
一日に何厘とか1銭とかのごく安い罰金ではあったが、長期間になるとそれだけ負担になるので、フダをあてられた者は次の違反者を見つけるのにやっきになった。そして3ケ月で他人に渡さねば、村揃いの前で棒で尻を三回打たれて放免ということになった。
 ある時、キビを食べた子供たちを村人が見つけ、村役人の家に引いて行った。すると役人は一方には金を、もう一方には食物を置き、好きなものを取るようにといったところ、子供たちは皆食物の方を選んだので、まだまだ罰するには無邪気すぎるというわけで帰したことがあった。

チンジュ組織 
今の班のようなもので、以前はチンジュ(近所)と呼ばれるものがあった。ウフミチ・チンジュ、チブルシ・チンジュ等と5つ、6つはあったろう。チンジュにはチンジュ頭がいて、チンジュ内の世話をした。葬式の花つくりや棺かつぎなどは、ほとんどチンジュの義務みたいなものであった。他のチンジュヘなら親類でないかぎ妁二人で行くのがふつうだが、チ一ジュ内なら可働者は皆出て世話をしなければならなかった。
 また「モノに持たれる者」(神かくし)が出た場合は、チンジュで1日探し、それでも探しだせないときは全体で捜索する慣わしであった。

16歳は伝達係
15歳の9月には結髪して一人前の大人のかっこうになった。これをカタカシラといい、この祝いのことを「カタカシラスージ祝い」と呼んだ。16歳になったら伝連係になった。そのころの伝達方法は、からへのいわゆる[村つぎ]でなされた。美里から松本へ、松本から知花へ、知花から登川へ、さらに池原、東恩納、石川へという方法だった。
 16歳になったある晩のこと、友人と二人で豊川へ公文を届けに行かされたことがあった。ふだんから魔物の立つ場所として知られるビントー馬場付近まで来たところ黒いかげを見た。2人とも褌をはずしてたたいたところ、水が顔にはねかえって2人とも大笑いだった。水たまりに松のかげが映っていたのである。
 
シカマーのこと 
そのころ一日の日雇賃が男で12銭、女で5銭か6銭だった。シカマーといって、金を2円借りたら毎月1日の割で利子の分働かされるのがいた。ンジャ(下男)はもう姿を消すころだった。これは30円借りて、その利子の分だけ毎日働かされた。自由の身となるには自家からドゥシル(身代金=元金)を支払わねばならなかった。
中島ズリが10銭、辻ずリが20銭のころで、農閑期を利用しては青年たちがズリ買いに行ったものである。

米寿祝いの時の孝行口説
さても んちゃ また
言やりし もっとん(もっとも)
孝ある人の ちみのうめに(君の御前に?)
ちゅしち(忠節)ちくちょて
るしほうめえとん(友人とも)
他人の仲にん 和睦ふくらさ
竹の子のごと 子孫繁盛そて
後世の世まで 百子ふてぇらん
たったまさやに
嬉さふくらさ
サテサテ ウムシルムンサミ

カゾーラーの治し方
「カゾーラー」というのは、ヤーサクリサした入(飢えた者)が死んで、食物を欲しがってかかるのだそうだ。それを治すには、割れた碗にごはんを入れ、火縄を持って道の4辻に投げすて、[おまえは物欲しゃをしてかかるが、これを食べて他へ行け]と言えばよい。

種子取
銀飯を食べるのは、年にせいぜい5回ぐらいのものだった。正月の元旦、盆のお送り、種子取2回、刈入れ直後のミーメー(新米ごはん)がそれだった。
 種子取にはタントゥイグヮーとウフタントゥイがあった。種子を水に浸す日がタントゥイグヮーである。爪に芭蕉の葉を敷いて庭の池に浸した。二日ばかり浸すと取出して、藁をかぶせ発芽させた。稲種子(ムンチャニ)を幡きに行く日が大タントゥイである。苗代の処々には火縄をおき、その晩若者たちは芭蕉の枯葉を丸めて火縄にし、松本のフィーフナトシモー(火振り毛)という所でそれを振ったり、芋を焼いて食べたりした。
 幡きに行く日は帚の使用や豆腐臼を使うことは忌まれた。播いて三回目には「3日ミジ」、「7日ミジ」といい、仏壇にはオーハジューシー(野菜雑炊)を供えた。年明けての雨水の節には田植えである。苗をメーダニと呼び、1束をチュシブイ、3束をチュチカ、30束でチュヌチ、60束でハタチカというふうに計算しておった。植え方には、雑植えをクンマーセーと呼び、三角植え、チョーバン植え(四角)があった。
 
学 校
 自分たちの年配で学校へ通ったのは少なかった。学校は美里と越来の共立で、両間切の頭文字を取って「美越小学校」と言っていた。知花から学校へ通ったのは四名で、そのうち三名は女だった。たいてい役場吏員の子弟であるとか、金持ちの子女であった。
 当時には「ヒラヘーシグミ」というのがあった。鍛冶屋制度といったようなものである。つまり鍛冶屋て道具を作らせて、その代価をすぐに徴収するのてはなく、から米で俸給を支払っていた。ちょうどそのヒラヘーシグミと同じように、これら学校へ通う者たちにから豆や米を手当てとして支給して通わせた。学校は四年制だった。その夜学校がビントー馬場へ移転してからは進学者も多くなった。
 
酒をつつしむ
 村には男8人、女8人の同輩がいたが、今は(1968年年)女2人と男は自分1人だけになった。食事は三度の食事以外の間食をせず、朝、昼の二度ミルクを飲んでいる。煙草は戦後、70才ばかりの時に始めたからまだ17、8年この方である。酒はめったに飲まない。以前の牛オーラシー(闘牛大会)の時は、茶碗酒だったが、相手の目をごまかして懐にこぼしていた。
 ある時など、酔っぱらった友人の肩をかついで帰る途中、若二才たちにからみ田圃に顔をつっこんだ。それを3人の若二才に命じて家まで担いで行かせたこともあった。そのころの人たちの酒入れは椰子の実で作った徳利で、一合五勺入れ、二合五勺入れなどがあった。当時酒を飲みすぎて死んだ人もいた。

私の経歴 
自分は無学であるが、若い頃は村のいろいろな役についた。村の有志を37才から15年間つとめ、農事奨励会の審査員を10カ年、貯蓄組合の組合長を60才でやめるまで8年間つとめた。村の二―セーガシラ、区長にもなった、またずいぶん前のことだが、美里間切から砂糖製造人の5人のうちに選ばれ読谷山(現在の読谷村)へ講習にも行った。嘉手苅、東恩納、阿波根、高原、知花からそれぞれ1人だった。
 

 牛はよく国頭から買って来たが、足を傷めないために草鞋はかせた。サン(山)の高い所の牛は角が尖って高く、闘牛用に向いているといわれた。大宜味牛や伊平屋牛は角が高かった。
サンの低い地方の牛は角が開いて生えていた。

鷹狩り
旧暦9月になると、寒露の節で、「鷹渡り」の季節になる。そのころ川では蟹が下る。アイクバーキという笊をつくり蟹とりをすることもあった。ハルウェンチュ(野鼠)をおとりにして鷹をと取ることがあった。ある年などは十羽もとった。鷹とりは禁止されていたので、早朝暗いうちに準備して出かけた。遠くは泡願方面まで行くことがあった。34、5才のころである。そのように罠を仕掛けて獲った鷹を大きいので20銭、小さいのを10銭で売った寒露もとうに過ぎて冬至のころであった。
 そうして狩りをして自分にも漁師の縁起かつぎがよくわかった。カサギンチュ(妊婦)に出会うともうだめで、逆に葬式に出会ったら成績はよかった。人に出会わないために暗いうちに出かけることが多かった。

シチマジムンの話
 人を迷わせるのはシチマジムンの悪戯だそうである。シチマジムンというのは、豚や家鴨、牛に化け、時には大木みたいにそびえ立ったりするといわれる妖怪である。夜道を歩く時、「くま、くま(こちら、こちら)」と呼ぶのだという。だから、シチマジムンに出会ったら「ヤーヤ、しちドゥヤミ、ワンネー はちドー(おまえは7か、おれは8だぞ)」といえばよいそうだ。

家まで追っかけてきた火の玉
 昔、ある人がビンドー馬場を通って帰ってくる時、ことい牛の形をした黒いものに出会った。そこで禅をはずし、それを振って難を避けて帰ってくると、こんどは道端に火玉があった。それも同様に退散させた。
しかし、フール(豚舎)に行かず、まっすぐ母屋に入ったため、3年目に火災が起きた。火玉がそのまま残ってどこかに住み着いていたのてあろう、とうわさされた。
七回ヤクが入った話ある家でのこと。7回ヤク(厄)が入った。7回目には主人はいい加減いやになり、家族が他へ行ってのち戸棚の中に隠れていた。すると夜通し何者かが6尺棒で戸棚の戸をたたいて、あまりの恐ろしさに主人は恐怖におののいた。その人は3年もまたず死んだ。

雷のこと 
帽のことをカンナイという。カンナイが鳴ると、[桑木の下ドーイ(だぞ)といった。師走の雷が鳴ると、トー豆(そら豆)が実が入らず、鶏の卵やハブの卵が孵化しないといわれた。師走の雷の時は、シムル(孵化しない卵)を防ぐため鶏の巣の下に鉄を置く。鶏は師走に一般にスクム(巣ごもり)をする。

地震のこと
地震のことを「ネー」という。ネーがふると「チョージカ・チョージカ」という。具志川の津嘉山の森はネーがないからだそうだ。

松本の芋皮ビージル
9月は神拝みの月である。だからどこでもむやみに拝んではいけない。そこに神がいついてしまうからである。松本の「芋皮ビージル」という拝所がそうである。
 昔、田打ちをしていた人が雨宿りをしていて、サツマイモを食べながらその皮をそこへほおり捨てて、何事かを祈ったことに始まるという。「芋皮ビージル」の名もこれに由来するという。
子どもの体が弱いと、そこのビージルを拝んだ。

旗頭のこと 
大アシビといって昔は犬掛かりな村芝居を催したものである。その時村のシンボルである旗頭を立ててその前で演じる習わしであった。また他の村へ村の芝居を待って行くことがあったし、あちらから持って来ることもあった。そのような場合、旗頭を先頭に押し立てて往復するのがきまりであった。知花は石川と美里との間でよく交換の公演をしていた。接待は招待した側の負担であった。
 いつのころの話かさだかではないが、石川から旗頭を押し立てて来たことがあった。何の打ち合わせもなく来たことで、知花のアシビガシラ(遊び頭)が受け入れを断った。怒った石川の一行は、旗頭をその家に向けて倒しておいた。遊び頭の家はその怨みによるものか、ついに絶えてしまった。旗頭を人家に向けて横たえることは今でも良くないことだとされている。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 1987年より 
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シーシヤー

2006年03月18日 | ★文化財
仲大屋(ナーカウフヤ)の東隣りに建てられウフデーク(ウスデーク・臼太鼓)の時には旗頭と獅子舞の踊りが奉納され、獅子舞たちは知花公民館(アシビナー跡)へ向かって出発する。(昭和55年6月完成。村神屋の移設分祀(ブンシ)
 


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祝女墓

2006年03月18日 | ★文化財
鬼大城の墓の東側に位置する。村人は「ヌールバカ」と呼んでる。岩陰を利用して前面を石積みにし、墓口をアーチ工法にしている。墓の形式は、名嘉真好史宜勝分類のいわゆる「岩穴囲い込み墓」である。ある葬式の時にヌールバカへ入った村人は、約30基の蔵骨器を見たという。
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鬼大城の墓 【市指定文化財】

2006年03月18日 | ★文化財
知花グスクの南側の丘陵地に位置する。大城賢雄は大柄で武勇にすぐれ、俗に鬼大城と呼ばれた。1458年、首里王府軍の総大将として勝連按司の阿麻和利を討伐し、その功績で越来間切の総地頭に命ぜられた。その後の政変で第一尚氏王統は滅び、鬼大城も知花グ
スクに追われ自害した。墓の形式は、名嘉真宜勝分類のいわゆ「岩穴囲い込み墓」である。【市指定文化財】
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ノロ(祝女)と旧家 ---知花の古い話---

2006年03月18日 | ★歴史・伝統・文化
ヌルの話
知花のヌル(ノロ)は屋号チハナク(仲村姓)という家から出ているが、若いというので祭祀に出ていない。チハナクの話では同家の娘が最初のヌルを拝命したが、若かったのでその兄が道案内をしたことから例になり現在に至っている。その兄の役はミッチュというが、ミッチュとは「道案内」のことであるといっている。

しかし、これには異論がないわけではない。ミッチュは「ニッチュ」すなわち根人である、と。ヌルも他家から出るべきだとの説もある。
 
知花のヌルドゥンチ(ヌル殿内)からヌルが出るべきであるが、先のヌルは数十年前に死亡し、子供がなかったので、当人の夫(婿養子)の血縁者からさらに養嗣子を取っている。その養嗣子はオホンダカリ(屋号)系統から入っている。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 1987年より抜粋

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古島と知花集落について

2006年03月17日 | ★歴史・伝統・文化
グスク時代から近世にかけて形成された「村落発祥地」のことを古島「フルジマ」とか元島「ムトゥジマ」と言う。知花の古島は現在の倉敷ダム管理棟の北側一帯に位置する。

古老の談では、ここから南側約3km離れた知花グシク近辺に農作業を行うため通っていたが、不便を感じてグシク近くに移動したと言う。この村落跡は確認できてなく、その後再び移動を行い現村落が形成されたと推察している。

何時のころか不明であるが、村落創建の時に首里王府からは派遣された風水師が係わっており、村のフンシー(風水)の中心も知花グシク裾野東側にある石灰岩転石「チブルシー(頭石)」だとの謂われもある。村落景観は不井然型村落を形成している。

【沖縄市の遺跡/沖縄市教育委員会より抜粋】
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稲のまつり -知花の祭祀と神職- ①

2006年03月16日 | ★歴史・伝統・文化
はじめに
 知花は、コザ市(現沖縄市)から石川市に通じる道に嘉手納町から具志川市方面への道が交差し、地理的な要衝の地として、また知花焼の古窯跡として、さらにその昔は鬼大城(大城賢雄)の終焉の地として知られている。
 
この部落で、数年前ノロ継承をめぐって一悶着があったとはいえ、それとはうらはらに神事は衰微する一方である。それは各門中から出るクディングヮ(単にクデ・オクデとちいう)の後継者が出なくなっている事実を見てもうなずけることである。
1965年から4年間、この部落の旧5月、6月のウマチ-(稲穂祭と稲大祭)を見学したが、その開に神人をやめた者、死亡した者、登川のように二人のウムイシンカを出さないばかりか、一行を部落へ招待することさえ取りやめた例などがあった。
 ここでは考察ではなく、わずかばかりの見聞をもとにした記録にとどめる。

古い家系

 部落には数軒の古い家がある。門中の宗家でムートヤー(元家)と呼ばれるものである。たとえば、屋号オホンダカリ(大村渠。シマチクドンともいう)、シマブク(島袋)、チハナク(津波古)、仲大屋、東ナーカントー、メンナーカなどである。これらの家には、仏壇以外に神御楯があり、そこには二個ないし三個の香炉かおる。

この神御楯は大ムート、中ムートと呼ばれる特定の家にのみあるもので、一つの香炉には二人のクデがいて、これを通して祖神をまつるのである(一つの香炉に一人のクディングワの場合もある)。クデはすべて女性であるが、二人ののち一人は兄弟役のウミキイ神、一方ぱ姉妹役でウミナイ神といい、これを一組の夫婦に見立ててミートゥンダ神と呼ぶ。それは、「33年忌をすませた祖先が、男女のおのおのの二柱の神となり、それぞれを門柱のウナイオクデの二人がまつる」とする説明に合致している。

 クデはほとんど何らかの起縁でなった者である。若い頃頭痛持ちだったとか、産後病気がちだったとかで軽重の差はあれ「神ダーリ」があったようである。あるいは夢に知らせがあったりなどで元家の香炉を拝むようになった例は多い。
 
 クデが拝むべき対象は祖先神であろうが、比嘉政夫氏のいう「ほとんどの場合、それは〈アジシー〉と呼ばれる古い墓であり、各(クディングヮ)は自己の対象の墓の位置をわきまえ、通常本家の神棚にある香炉を通して拝むのである。いいかえれば、ある<ハラ>において、その祖先の墓の数に応じて、神棚に香炉がおかれ、その香炉の数は<ハラ>の<クディングヮ>の数を反映していると考えられる」(「村落の祭祀組織と<ハラ>の祭祀組織-沖縄南部における事例から-」)『日本民俗学会報』三十九号)。というのは中部以北は首里那覇、島尻一帯に比べ「門中」の組織が稀薄であるということ。それはまた幕制とも関連があって、知花部落には門中幕なるものがあるにはあるが、実際には[袖幕」的存在であること。したがって各元家の香炉の数は、必ずしもその祖先の幕の数に一致していないだろうし、図示できるものではない。

 元家を中心に各門中で行う行事としては、3年越し、7年越しと定期的な島尻の東御廻り、首里上り、今帰仁上りや遠くは辺土名へ拝みに行く家もあれば、石川伊波の旧家を拝みに行く家もある。それに5月、6月のウマチー、8、9月のカーメー(古井泉詣)もまた大きな行事に数えられる。
 
 知花は昔北方の山中、福地原という所に部落があったと言われている。それについて次のような言い伝えがある。大村渠、仲大屋、メンナーカの3家の先祖が知花へ来て炭を焼いていた。雨が降り、ワタンジャーを渡れなかったので、この地に家を建てたのが移動の始まりだと。
現在のノロ殿内の周辺に住んでいたが、松本が南の方へ移動し、その後へ移ったのが現在地であるとの説もある。また、鬼大城の最期を遂げた時の話に、知花城の前には7軒の家があって、その家の芽で鬼大城をいぶした話がある。その七軒というのが大村渠であったといい、屋号大村渠はその頃からの屋敷だとしている。
 
 しかし、「南島風土記」によると、美里間切りが知花等15村を越来間切りから割いてできたのが、寛文六(1966)年であるが、その中に大村渠の名は出てこない。後になって「大村渠、満喜世、渡口古謝、桃原の5村を新設し、その後、大村渠、満喜世、2村を廃して松本を置き」とあるからして、前記の7軒の大村渠云々は、時代に大きなずれがあり疑わしい。

二、三の元家は読谷村長浜あたりに子孫を持ち、ウマチーにはクデがやって来た。池原、登川、松本からもクデが出、共通の祖先を拝むのである。大村渠は元家の中でも一番古いとむいわれ、知花、池原、登川、松本に300人ばかり、読谷にまたそれくらいの氏子を有しているといわれる。クデは直接大モトから出ることもあれば、中モトを介してやって来ることもある。読谷や池原に知花屋と呼ばれる中モトがあるなど、この部落との関係を物語るものであろう。クデの中には、遠く伊計島に嫁いだ者がやって来ることもあった。ふつう朔日、十五日も香炉を拝むべきだとしているが、遠い関係で家の者が代行した。クデが元家の各自の香炉を拝む前に火の神をまず先に拝むべきだとしている点も興味深いことである。

 先程、知花の古島、福す原のことを述べたが、カーメーの時いにしえの二つのンブガー(産井)を拝みに行く。もっとも現在は米軍施設内にあるため、ある門中はトゥヌで、ある門中は池原の井戸からそれぞれお通している。仲松弥秀氏の調査によれば、祭のたびにトゥヌで遥拝があった。これによって大昔の村位置を知ることができるという(『神と村』139頁)。
 
 クデについてすま少し述べることにする。後継ぎのクデの出ることを「生れる」といい、その年を基準に誕生祝、三年七年と三三年までの祝いがある。その祝いは元家の神郷棚の前で門中の人々がやる。クデ死亡の時は、葬式を出す前に使いが来てこの家の火の神を拝み、クデの拝んでいた香炉を拝んで魂がのこらないようにまつる。これを「ヌジファ」という。拝む人は酒と花米を持参し、来る時は門から入るが、帰りはこっそり裏口から出ることになっている。そしてよい年を選んでこのクデの年忌祭を門中で行ない、後継者の出るのを待つのである。
 
 クデはまつりの時の神衣裳を各自の元家にあずける。そしてウミナイ神はまつりに参加するという家が大方である。ところが、大村渠では違う。三個の香炉のうち、右側を拝むウミキイ、ウミナイニ人は家に残り、あとの四人はまつりに出ることになっている。四人のうち二人はウミキイなのである。
家に残る二人のことをウヤガニーと呼び、これは「神拝み」に来る氏子と祖神との仲介をする役目である。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年
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稲のまつり -知花の祭祀と神職- ②

2006年03月15日 | ★歴史・伝統・文化
祭場と神職
「琉球国由来記」を見ると、知花にはカナ森、森山嶽、カナヒヤンノ嶽の3つの御嶽があるが、仲松氏によれば、「森山」は単なる森ではなく、久高島のムーヤマと同様「喪山」、つまり古墳地帯を意味するらしく、知花グシクの西北方にある。ヌンドンチの後方の森の御嶽は、ふつう「ニシムイ」または、「ノロウタキ」といわれるが、由来記でいう「カナ森」にあたるか「カナヒヤンノ嶽」のいずれに当たるか詳かでない。

「おもろそうし巻二」中城越来のおもろに次のような「おもろ」がある。
 ちばな、かなくすく (知花金城)
 ちばな、いしくすく (知花石城)
 ももしま、まじうんいしくすく (百々島共に石城)
又けおのゆかるひに (今日のよき日に)
 けおのきやかるひに (今日の輝く日に)
 ちばな、こしたけに (知花こし岳に)
 あんは、かみ、てずら (我は、神をまつらん)
 かみや、あんまぶれ (神は我を守りたまえ)
又ちばな、にしたけに (知花北岳に)
 
これからすると、「かなくすく、いしくすく」は知花城であり、「こしたけ、にしたけ」はヌンドンチ後方のニシムイてあろうとは想像がつく。由来記で神名を池原の「イ、森」も含めて4ケ所とも「イシの御イベ」で片づけているのがあいまいにした原因である。
 
 この御嶽のほかに知花之殿、石城之殿、登川之殿、池原之殿が由来記に出ている。
 「殿」はこのでは「トゥヌ」と発音し、知花グシクの北方ふもと下の方に知花のトゥヌ、上に松本のトゥヌがおる。これは俗に下のトゥヌ、上のトゥヌと呼ばれることもある。由来記の「知花之殿」が「知花地頭云々」が見えるのに対し、「石城之殿」が「大村渠地頭」「大村渠百姓中」とあるのからして、前者は知花トゥヌ、後者は松本ドゥヌであることが容易にうなずける。5、6月のウマチーの時に、この両トゥヌと登川・池原のトゥヌを拝むのである。松本ドゥヌは石の小祠かおるのに対し、知花ドゥヌは何もない。まつりの度にここに「神サギ屋」をにわかにしつらえる。これは「神アシアゲ」を意味する語であろう。


 ▲知花城下方にある「神アサギ」
 
 美里間切には伊波、東恩納、知花、美里の4ノロがいた。そのうち知花ノロの管轄は知花、登川、池原、松本の4である。その下には各家元から出るクデがいるが、から出るウッチヌアンシー、サンナーアンシー(この方は登川)がおり、男神人としてはチハナクの当主が世襲するニッチュがおり、他に8人のウムイシンカがいる。これは男性だけのウムイを謡う人である。
『美里村史』には任期2年とあるが、現在は必ずしも一定していない。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーの任期は4年である。そのほか、まつりの時だけから臨時に村アンシーというのが2人出る。これは接待係で、理由は知らぬが、結婚して間もない女性をえらぶことになっている。
 
 ノロやミッチュ、ウッチヌアンシーが部落行事-たとえば虫あそびや12月24日の煤払い、タキメー(嶽詣で)等に関与するのに対し、クデはもっぱら門中の行事にのみ関与する。5、6のウマチーは的な規模で行なわれる行事であるが、同時に門中行事としての性格も濃厚である。クデの下で働くウメーイーやニーブ取りなども同様のことが云える。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年

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稲のまつり -知花の祭祀と神職- ③

2006年03月14日 | ★歴史・伝統・文化
まつりの経過

 まつりは13日の午後ウンサク(神酒)の米を浸す時から始まる。その時から堆廏肥のあつかい、針仕事などは忌まれている。
 5月、6月のウマチーは互いにまつりの方法は似ている。ただ異なるのは、5月には神に供えるシロマシが出る点である。これはノロ地から採集した稲穂(未熟米)をつついた汁である。この田のことをシロマシ田とも呼んだそうである。5月のウマチーには、各家庭とも稲穂2本、粟穂1本の計3本トゥヌへ出し、後で持ち帰って台所の火の神に供えた。5月ウマチーは稲穂の豊饒祈願であり、物忌みの要素がより濃い。まつりの時、チヂン(小太鼓)もこの時は飾るだけて叩かない。6月はにぎやかに叩き、そのへんが大きな相違点になっている。

 ウンサクをつくるため浸した米は、翌14日石臼でひき、一晩おいて15日に手を加えて仕上げた。現在は13日にご飯を炊き、容器に入れて密閉し、15日に製粉機にかけてつくる。       
 14日の晩は各家庭でウユミ(祖先をまつる)がある。クデは各自の元家へ豆腐もしくはソーメン等を持参し、その家族と夕飯を共にする。
 これより先、午後まだ明るいうちにクデたちは各自の元家で火の神、神御棚の香炉を拝み、ヌンドンチの後のニシムイヘ行き、まつりに頭に披るカーブヤー(三昧線づるでつくる)を取る。さらにススキとアザカ(琉球青木)の葉など三種の草木を取る。その時お嶽の入口でうたうウムイ。
  
  たきがくまむとに (お嶽のふもとに)
  くばの木や植えとて (ビロウの木を植えて)
  しみじみの御めえに (隅々の神様に)
  みおうじ取てええしら (御扇を作ってさし上げましよう)
  たきがくまむとに (御嶽のふもとに)
  松の木や植えとて (松の木を植えて)
  しみじみの御前に (隅々の神様に)
  あかし取てええしら (灯をつくってあげましよう)
 
儀式がすんで帰ると2度と入れない。
 15日の午後、神人は元家へ行き、各自の衣裳を受け取り、ヌンドンチで待機する。ヌンドンチの屋敷外にユナガーという古泉があり、ここで神人は手足をそそぎ、林の中をヌンドンチヘ行った。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーは白衣裳は着ず、紺地の着物でカーブヤーも被らない。ニッチュも紺地である。ヌンドンチは一番座の正面にノロ仏壇かあり、その東側に神御棚がある。神人たちはこの座敷で神衣裳に着がえる。

 下のトゥヌ(知花トゥヌ)には神サギ屋が出来ている。三方の壁と屋根をマーニ(黒つぐ)で葺かれている。この小屋の前で神人たちがアザカ等三種の草木の葉を2枚表合わせに7組ずつまとめ、葉のもとをそろえて結ぶ(名称不詳)。神サギ屋の前やや斜めにニッチュを頭にウムイシンカが坐る。知花、登川、池原、松本の順序である。末席の二人(松本と池原からの2人)はチヂン打ちである。
 
 儀式のはじめは、知花の区長が酒と花米を神人にささげることから始まる。本来ノロがいて取納すべきものだが、ノロ不参加のためウ。チヌアンシーが代行する。ノロのカーブヤーを置き、先程の3種の草木の葉を束ねたものをその前に置いている。知花区長に続き、松本の区長が同様のことをする。その後さらに知花、松本の順でウンサク(神酒)を神人にあげる。ノロ代行のウッチヌアンシーはノロのカーブヤーに竹の葉で2、3滴したたらせ、おはつをあげる。ウムイシンカにもウンサクが配られる。2人のチヂン打ちがウッチヌアンシー(本来はノロ)の前へ進み、チヂンをささげる。ウッチヌアンシーはそれを受け取り、3回廻し、3回叩いて渡す。
 
 神サギ屋の中で正面向きに坐っていた神人はここで円く坐り、合掌してウムイをうたう。

 ヘーヘーイー、ヘーヘーイー
 とのうちんちゅらさ (殿の内も美しい)
 ましうちんちゅらさ (屋敷内も美しい)
 神が道あきり (神の道を開けたまえ)
 ヌルが道あきり (ノロの道を開けたまえ)

曲は前日の曲と同じである。5月も6月もこの2回だけである。これがすんでウムイシンカのウムイがはじまる。その開神女は正面へ向いて合掌する。

 ①イーン イーン イーむーウーキーかー アーンしーヰーン イーン ヰーン。
 ②イーン イーン イーン はーン アーン アーン アーン。
 ③アーン アーン アーンじー フィーン イーン イーン イーン イン
  ヰーン イーン イーン。
 ④まーン アーン アーインりーン ヰーン ヒーン イーン
 ⑤イーン イーン てンイン らイこ ヲーン オーン ヲーン オン オン
    (以下略)
 
 これを済ませて、女神職は神衣裳をふだん着に着替える。松本トゥヌヘ上り右にウムイシンカが坐り、左は女神職の座席である。女神職はふだん着のままである。松本からウンサクが出され、ウムイシンカのウムイだけがうたわれる。ここでオクデは各自の元家へ帰り、香炉を拝む。(ノロ)ウッチヌアンシー、ニッチュ、ウムイシンカ全員は登川、池原へ行く。昔は馬に乗ったが、その後は駕籠に乗ったとも言われ、その際の馬や駕籠かきはこれらのから出した。

 登川や池原のトゥヌでの儀礼は、酒、ウンサクを三種の草木の葉とノロのカーブヤーに捧げることにはじまるなど、先の知花、松本の行事とほぼ同じなのでここでは省略する。知花以外のにも古い家(門中の大兄)かおり、したがってクデもおり、それぞれのトゥヌヘ出るならわしである。

 終りに

 まつりの経過は、大方現在行なわれている通りであるが、音は朝神、夕神があり、知花トゥヌを朝行ない、登用、池原を済ませ、夕神に松本トゥヌであったが、いつの頃か改正されたらようてある。神道もヌンドンチの後方から登川へ通じた道があったが、自動車で神行列する現在では誰も通る者はいない。雨天の時は、ヌンドンチで行なう。登川、池原はウンサク等をここへ持参する。

 知花のウムイシンカ(男声)による「ウムイ」は特異なものらしく、山内盛彬氏はこれを「南洋楽ではないか」と次のように述べておられる(「知花ウムイに南洋楽」1967年9月沖縄タイムス所載)。

 ①音階は現にニューギニヤ、高砂族に見られる三声和音音階。
 ②拍子は東洋民俗にはあまり見られない3拍子。
 ③ウムイは女性に定まっているが、これは男声である。
 ④詞は南洋語らしい。(目下解釈研究中)。
これについてさらにある人は中国系の歌だろうといい、ある人は「イーン」は稲、「アーン」は粟、「マーン」は黍だろうと想像をたくましくする。謡う者も傍で聞く者も意味のわからぬままである。

 ところが、世礼国男氏によると、これは<おもろさうし巻二に-二二>「知念久高行幸之御時おもろ-首里御城打立之御時」のおもろであるという(「久米島おもろに就いて」、『南島』第二輯昭和17年)。
 前記歌詞カタカナ中ひら仮名の部分だけを読むと「むかしはじまり(や)てら(だ)こ……」となる。つまり、
 むかし、はちまりや、てたこ、大ぬしや きよらや、てり、よわれ せのみ、
 はちまりや(巻二十二-22)
ということになる。したがってこれは南洋語でも中国語でもなかったわけである。以上のことを付記して稿を閉じる。                   (1969年)

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年


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カンサヂヤー(神アサギ)

2006年03月02日 | ★文化財
知花グシクの北側に位置する。この広場は旧暦の5月15日と6月15日の行事に知花の古島へ遥拝するために拝まれる。その行事に参加する集落は、池原・登川。知花・松本である。現在の建物になる前は、かやぶきであった。かやぶき以前には建物がなく、祭りの際にクロツグの葉などで仮小屋が造られた。



 
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