ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

泣きたいほどの足の痛み!

2018年06月12日 | 介護
真夜中に泣きたいほどの足の痛みで目が覚める。
医者から処方された痛み止の薬など効果は無いに等しい。
あまりの向こう脛の痛みに足を膝から下、切断したい心境にかられる。
痛みは時として動く。
泣きたいほどの痛みを必死に堪えている。
こうなれば家事をするのもままならない。
しかし、私の代わりはいないのだ。
痛い足を押してキッチンに立ち家事をする。
60年間も生きてきて、人生最大の辛さを味わっているようです。
真夜中に痛みで起きてしまい、明け方にようやく寝れたと思ったら目覚ましが鳴り、それでも止めて少し寝たら、とうとう母がお越しに来た。
起こされるのはわかるが、どうにもこうにも左足の向こう脛は痛かった。
痛みを母に訴えるも、聞く耳を持たない様子。
悲しく痛い足を引きずって2階から階段を降りた。
同居の母はいつだって相手の立場に立って物事を考えない。
従って「後で寝れば!」で、ある。
寝ていて痛みが引くようなら病院も医者も要らないと思う。
物事はいつだって相手の立場に立って考えるのだ。
私は自分さえ良ければと言う考えは無いに等しい。
なぜなら子供の頃に両親が入っていた仏教系の新興宗教ではそのような教えはなかった。
いかなる場合でも物事は相手の立場に立って考えるのだ。
自分さえ良ければ捨てるのだ。
そこへいくと私の大好きな芸能人に限ってはそんなことはない。
あの最近お熱をあげている天中軒雲月師匠だって私の今の病気である坐骨神経痛を理解してくれているのだ。
私は時として街中や人混みで困っている人がいたら見て見ぬふりは出来ないのだ。
母は昔入っていた新興宗教で何をまなんだのか?
いささか疑問でもある。
新興宗教を両親がやめてくれたことは良かったがそこから母は何も学ばなかったのだ。
私がそこから学んだことは物事はいかなる場合でも相手の立場に立って考えると言うことだった。
そして、私は自分の幸せより相手の幸せを願うようになってしまったのだ。
これが良いか悪いかは別として、自分を不幸のどん底に押しやるような人間になってしまったのだ。
他人の幸せを思うがばかりに、自分が幸せになることを恐れていたのかも知れない?
もうそろそろ自分の幸せを考えてもいいと思う。
自分さえ良ければと言う人間は嫌いなのだ。
だから、私は美味しいものを目の前にしたら、主人にも食べさせるのだ。
他人の心の痛みのわからない人間にはなりたくないと思う。
自分さえ良ければは捨てるのだ。
そう思って生きてきた。
今にして思えばそれは時として悲しいことかも知れない?

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