季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

視点を変える(3)

2022-01-31 09:53:20 | 視点
(1)で紹介した「われわれの日常生活を直接に支配するのは自我性または自己中心性の原理であって、これによって曇らされた我々の眼は決して世界を世界そのものとして素直に「視る」ことができない」(『教育学的認識論』野田義一)という考えは仏教に由来しているようにも思えます。
『十七条の憲法』の第十条です。

「(前略)人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。(後略)」この現代語訳は以下のようです。
 「人にはそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖者なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。」
            (中村元 著『 聖徳太子 地球志向的視点から 』)

 聖徳太子は仏教を信奉していたのですから、この憲法を制定するにあたっても、その影響は大きいものであったに違いありません。「その心は自分のことを正しいと考える執着がある」―自分は正しい、自分こそが正義である、そう考えるのは「執着」だというのです。自分の狭いものの見方にとらわれているだと。「相手が怒ったら、むしろ自分が過失を犯しているのではないかと反省せよ。自分ひとりが、そのほうが正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、その行うところに従うがよい。」(https://intojapanwaraku.com/culture/10397/)とも書かれています。

 先日他界された寂聴さんは、執着を「煩悩」だと書いています。「もっと本質的なことで言えば、人間は煩悩に縛り付けられています。(中略)人間の心や意志というのは、けっして自由ではない。煩悩に縛られ、がんじがらめにされているのです。それが不幸の根本です。」      (『寂聴仏教塾』)
                                
 この執着は「自我」」から生じるというのがアルホムッレ・スマナサーラ師。「一方、脳がフル回転している大知識人(中村元博士やアインシュタイン博士など)は、ただ軽々と世界を偏見なしに面白がってみています。知ること自体が面白くてたまらないので、得た知識に執着しません。自我に邪魔されないぶん思考はシンプルだから、小学生でもその話を聞いて理解できます。しかもその思考は人類に革命を起こすほど大胆なのです。(『ブッダの贈り物』)

 自我といい煩悩といい執着といい、「視点」を変えることの難しさはこの辺にありそうです。
 ではどのようにして「自我」を離れるのか。一つのヒントがあります。
前に紹介した『10歳からの考える力が育つ20の物語』には「正義の反対は正義である」と書かれています。この点について、私が道徳教育を考える際のベースにある「モラロジー(道徳科学)」の学祖・廣池千九郎は大正11年(1922年)以下のように話しています。
 
「正義も悪くはない。しかし、こちらが正義として主張すれば、向こうも正義として変わったことを主張する。(中略)向こうが正義を譲らなかったら、こちらは慈悲の心になって、至誠をもって、温かい気持ちになって、相手に助かっていただきたいと、粘り強く努力を続けるのです。」(『廣池千九郎エピソード第1集 誠の心を受け継ぐ』)

「慈悲の心」が「自我」を離れる大きな鍵であることがわかります。「人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす」と告示した聖徳太子もまた「慈悲の心」を考えていたのでしょうか。新たな課題が生まれました。


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