季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

視点を変える(7)

2022-02-09 19:52:22 | 視点
 そもそもなぜ「視点を変える」なのかを確認しておきましょう。

 相手を許せない・不寛容による分断は決して好ましいことではありません。国にしても個人にしても、その地域性・個別性・独自性を強く持つとともに、それらを超えた共通性をも持ち合わせることによってよりよい生き方を模索する、それが「共に生きる」の意味なのです。
                    拙論「共に生きる道徳の授業」

 私たち一人一人、また国家と国家においてもものごとの価値観は違います。しかし、世界が平和であり人々が幸せに生きるには、その違いをぶつけあい反発し合うことでなく「それらを超えた共通性」を求めあうことが要求されます。
 磯田道史氏は司馬遼太郎の史観を考察する中で以下のように書いています。

 「現代の世界は、どちらが強いか、どちらの利益を優先するかばかり議論されているように見えます。グローバル化がさらに進めば、異なる価値観や人間どうしが向き合わざるを得ない局面が増えてきます。相手よりいかに優位に立つかに汲々とするより、むしろ、相手の気持ちがわかる、共感性が高いと言った、どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力が重要になるはずです。」             (『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』)

 また門脇厚司氏は「社会に生きる誰もが自分の望む良き人生の実現を保証されるには、まずもって個々人の「能力の比べ合い」や「能力の競い合い」ではなく、「能力の出し合い」。あるいは「能力の寄せ合い」を実現することである。                     (『社会力を育てる』)

 この「どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力」や「能力の出し合い」。あるいは「能力の寄せ合い」とは、私の言葉で言えば「共に生きる力」です。それを身につけるためにはどうすればいいのか。自分の単一視点にこだわらず複数の視点でものごとを見るにはどうすればいいのか。これまでに複数視点を獲得する大切さや身につける方法などについて述べてきました。
 この稿では、「覚悟がなければ視点は変わらない」という点について考えてみます。

 視点を変え、多様性を認めるには覚悟がいるのです。
『あらしの夜に』(きむらゆういち)を読んだことがありますか。その「特別編」に狼のガブとヤギのメイが、違いを認め合うまでの葛藤が描かれています。ぶつかって、吐き出して、がまんして‥‥。不寛容を寛容に変える、この覚悟がもてなければ「共に生きる」ことは出来ません。
 動画「アンパンマン」が好きです。バイキンマン、ドキンちゃん、かばおくん、星の国のドーリー、様々なキャラクターが登場します。
中でもメロンパンナちゃんのお姉さんのロールパンナちゃんが好きです。彼女は二つのハートを持っています。彼女のテーマソングも「二つの心」です。青いハートと赤いハート。善と悪の二つがせめぎ合うのです。時にはバイキンマンにそそのかされ、妹にさえ攻撃の手を加えます。アンパンマンの正義か、バイキンマンの悪か、絶えず悩み葛藤します。私たち人間そのものです。

「共に生きる」~ダイバーシティとインクルージョン、「視点を変える」~言葉の響きはいいのですが、「共に生きる」には大変な覚悟がいるのです。私たちの心の中では絶えず自己中心性、利己心が膨らみます。他人のことはどうでもいい、自分が大事。自分と違う見方考え方があるのは当然のことなのですが、その違いが許せなくなるのです。相手にも正義があることが理解できなくなるのです。

じぶんが他者から強制を受けたくなければ、じぶんも他者に何かを強制してはならない。じぶんと思いはひどく異なっても、たとえそれがじぶんにとって不快なものであっても、その思いをそれとして尊重しなければならない。
                    『大事なものは見えにくい』
 この鷲田清一氏の言明は重要です。

「視点の交流」の場では時として受け入れられないような考えにも遭遇します。それを「知っておくことが大事」と述べるのが台湾デジタル担当政務委員(閣僚)のオードリー・タン氏です。

 たとえ自分は受け入れられないにしても、こうした異なった価値観や考え方があるということを知っておくことが、大事なのです。そういった知識がなければ、どんな考え方でも、それぞれのグループに属する人たちは、自分たちの振る舞いを自然なものだと思い、疑うことをしなくなるからです。それは想像力を閉ざしてしまうことにもつながります。
           『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』

 自分の中にある「単一視点」・自己中心性を見つめるのはつらい。それを「異なった価値観や考え方があるということを知っておくこと」を知り、「それがじぶんにとって不快なものであっても、その思いをそれとして尊重しなければならない」ことを確認する。自らの狭い視点を「複数視点」に変え、「共に生きる」覚悟が持てるでしょうか。

 思えば日本にはもともと「和」の精神があったはずです。聖徳太子をはじめ、日本人は、日本文化は、多様性を認め、包み込み、発展してきたのです。
 時代は先が見えず混沌としています。分断、格差も広がるでしょう。まず、私たち自身が「共に生きる」人間であることを決意しなければなりません。その上で、未来を生きる子どもたちも多様な視点を獲得してほしいのです。「覚悟」をもって違いを認め合いながら、不寛容を乗り越えながら、より良い生き方を模索する、志向し続ける資質を持ってほしいと希望します。


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