六月を綺麗な風の吹くことよ 正岡子規
1969年、はしだのりひことシューベルツの発表した「風」という楽曲が印象に残っています。私がすでに働き始めたころに聴いた曲です。「人生につまずい」たり「恋をした切なさに耐え切れ」なかったわけでもないのですが、「そこにはただ風が 吹いているだけ」というフレーズに心惹かれてしまっていたのはなぜなのでしょう。若さにまかせ、懸命に「何かを求めて」生きていたからなのでしょうか。
そこにはただ「風」が吹いているだけでした。
母校の細かい想い出は、齢を重ねるにつれて薄れていきます。逆に、鮮明になってくるのが、当時の仲間たちのざわめきであり、校舎に差し込む光であり、先生の語り口などを含めた母校の雰囲気なのです。私たちを包んで吹いていた「風」なのです。それを「伝統」や「校風」と呼ぶのでしょう。毎時間に指導された教科などの内容~「見えるカリキュラム」ではなく、学校の中の見えない「風」を「隠れたカリキュラム」と言います。その見えない「風」の教育こそがいつまでも記憶に残り、私たちの生き方に影響を与えるのです。
私たちは、その風~「伝統」「雰囲気」「校風」の中で学び、その風をまとって今日まで生きてきたのだと思います。
コロナ禍の今、学校には家庭にはどのような「風」が吹いているのでしょうか。リモート授業の中には風が吹くのでしょうか。子どもたちを包んでいる風は心地よいものでしょうか。その風が子どもたちに影響しているのです。もちろんその風は、目にも見えないし耳にも聞こえません。でも確かにそれは「風」として存在し、「雰囲気」として「環境」として子どもたちを包み込むのです。私たちの眼は単に器官としてあるから見えるわけではない。見ようとする「心」が働いてこそ「まなざし」になり相手が見えてくるのです。その「まなざし」もまた「雰囲気」「風」なのです。「何かを求めて」私たち大人の前にいる子どもたちにとって、私たちはより良き「まなざし」であり「雰囲気」であり「環境」としての「風」として在りたいと思います。
六月を綺麗な風の吹くことよ 正岡子規
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