思いやりとは何なのでしょう。私は「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする心づかいと行い」と考えています。
思いやりは、私たち日本人が昔から持ち続けている心的特性なのではないでしょうか。聖徳太子の「和をもって貴しとす」やこれまた日本独特の宗教観である「山川草木悉有仏性」などに見える思いやり。昔話や民話にも思いやりを示す人物がたくさん登場します。
この相手を思いやる気持ちはどこから、何によって生まれるのでしょうか。
『かさじぞう』(松谷みよ子・作 黒井健・絵 童心社)を読んで考えてみました。
大晦日に貧しいおじいさんが、お餅などを買うためのお金を得ようとスゲで編んだ笠を売りにでかけます。ところが、笠が売れない上に雪まで降ってきてしまいます。途中の「のっぱら」に雪をかぶって立つ六体のお地蔵さま。「さむかろ、つめたかろ」とおじいさんは、お地蔵さまに「うれのこりで もうしわけねえが」と、笠をかぶせてあげます。笠は五つ、お爺さんは自分のかぶっていた手ぬぐいまで取ってお地蔵さまにかぶせて差し上げます。このお爺さんも家で待つお婆さんもとても優しい思いやりの心をもっていました。
お地蔵さまが「さむかろ、つめたかろ」と思って笠をかぶせて差し上げたお爺さんは優しい、思いやりのある人です。つまり、思いやりは、かわいそうだという同情の気持ちから生まれています。もちろんそれは間違いではありません。はたしてそれだけの理由で思いやりの気持ちは生まれるのでしょうか。
お爺さんお婆さんの生活はどのようなものだったのか、もう少しこの絵本を読みこんでみましょう。
貧しい二人は、日の出とともに力を合わせて一生懸命働いていたことでしょう。朝に夕にお地蔵さまの前を通ることが何度もあったでしょう。二人が黙って通り過ぎるわけがありません。「今日も一日、何事もなく働けますように」「いいお天気にしてくださってありがとうございます」「おかげさまで今日も無事に働けました」小さな野の花を手折って捧げたに違いありません。二人はいつもお地蔵さまに手を合わせ、お地蔵様と共に生活していたのでしょう。
お地蔵さまに合掌する理由はほかにもあります。その方がもっと大切な理由なのだと思います。
この絵本の冒頭部です。
「ふたりのあいだに六人、こどもがうまれたけれど、ちゃっこいうちにみな、あのよへいってしまってねえ、ふたりぐらしだった。」
お地蔵さまは子どもの守り神です。お地蔵さまと言えば、赤い頭巾とよだれかけ、これはお地蔵さまが子どもを災厄などから守る菩薩として信仰されていたため、自分の子どもが無事育つようにとの想いを込めて奉納するのだそうです。赤には魔よけの意味があるそうです。還暦を迎えた人も、赤い頭巾とちゃんちゃんこを身に着けてお祝いをします。これはお地蔵さまが赤いものを身に着けるのと同じく、干支が巡って赤子に還るという意味から来ています。
六体のお地蔵さまはなくなった六人の子どもでもあったのではないでしょうか。
二人はお地蔵さまが子どもの守護神であることを知っていたからこそ、毎朝、毎夕、あの世での子どもたちの幸せをお地蔵さまに祈ったのです。お地蔵さまに子どもたちの幸せをお願いし、安心して毎日の生活を送ることができたのでしょう。六体のお地蔵さまは、二人にとっては六人の子どもでもあったのです。
そうであるからこそ、お爺さんはお地蔵さまの雪を払い「うりもの」の笠をかぶせ、手ぬぐいで「ほっかむり」して差し上げたのです。それを知っていたからこそ、お婆さんは帰って来たお爺さんを怒ることなく「そりゃ いいことしなさった」とあたたかく迎えたのです。
お地蔵さまへの感謝、恩返しの気持ちが、単なる同情だけでない思いやりの行動を生んだのです。
思いやり~「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする」ためには、まず相手に対して感謝や恩返しの気持ちを持つことが大切なのです。
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