8 有間皇子を追いかけて来た間人(はしひと)皇后
額田王の歌の次は、「中皇命、紀の温泉に往す時の御歌」
君が代も我が代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな
わが背子は仮廬(かりいお)作らす 草(かや)なくは 小松が下の草を刈らさね
我がほりし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
中皇命は間人皇后とされ、『有間皇子がこの温泉に護送された時、間人皇后がつきそって行く途中での歌とされる説がある(田中卓)』と岩波の「古典文学大系」に書かれています。私も、そう思います。
間人皇后と兄の中大兄皇子は、同母の兄妹という関係を越えて恋仲だったという説もあります。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。
10 貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。
11 我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。
12 わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。
此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。
岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
間人皇后が有間皇子を追いかけて来たのは、何故でしょう。
今は亡き孝徳天皇の皇后であった人が、中皇命という立場の女性が、何ゆえに岩代まで来たのか。そこには、万葉集を解く大きな鍵がかかっているのです。
また明日