18 白崎は幸く在り待て・万葉集・巻九「紀伊国行幸十三首」
1667「妹が為我玉求む…」の次の歌が、白崎の歌です。
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじ貫き またかへり見む
白崎よ、お前はそこにそのままずっと居て、わたしを待っているのだぞ。沢山の真梶を貫き通した大きな船で行くのだから、必ず帰って来る。そしたら、再びお前をみるのだ。(再びお前を見たい)
白崎よ、ずっとそのままでいるのだぞ。わたしは必ず帰って来る。わたしは生きて帰ってくるのだ。
大船に身を委ねて白崎を通りすぎて行く人は、白崎に言いました。万葉集では、「又将顧」と書かれています。顧(かえりみる)という漢字なのです。 詠み手の強い意志が現れた言葉が「かえりみむ」です。
和歌山県の白崎海岸には、この歌の歌碑があります。詠み人知らずとなっていますが、これは天皇行幸時の従駕の者の歌です。身分のある官人が詠んだもので、一般人ではありません。
(白崎の白い石灰岩の岩肌とこの万葉歌碑を見た時、思わず涙腺がゆるみました。一度は誰かと見たい風景ですね)
続いて南部(みなべ)が詠まれています。
1669 三名部の浦しおな満ちそね 鹿島なる釣する海人を見てかへり来む
みなべの海よ、潮は満ちないでいてくれ。すぐそばの鹿島の海人が釣をしているのを見てすぐに帰って来る。
南部の浦から船は南下するのです。海岸沿いに鹿島の海人を見て帰るという。しかし、鹿島より先には牟婁の湯がありました。この歌の詠み手は、事件の顛末を知っています。知りつつも「釣する海人を見てかえり来む」と詠んだのです。
あの方が「還って来る。還って来たい」と云われたが、それはできなかった。あの方が御覧になった南部の浦も鹿島も、空しく今もそこに在るのだ…「見てかへり来む」は生還することでした。
生きて帰りたかったのです。
鹿島の神に皇子は祈りをささげたでしょうか。鹿島神社は海に向かって視線をのばしていました。
紀伊国行幸は、有間皇子の牟婁湯までの護送の経路をたどる旅でした。
また明日