人麻呂編集の謎・万葉集巻一と、巻九の共通点
柿本人麻呂は、万葉集の冒頭に雄略天皇・舒明天皇と並べました。次は、臣下の歌ですが、中皇命が献じさせた歌となっています。
舒明天皇の遊猟の時に、中皇命が自分の壬生部である間人(はしひと)連老に献じさせた歌となっています。壬生部とは、皇女や皇子を育てるための財政などを担う氏族です。その氏名(うじな)を皇子や皇女の呼称として用いたので、中皇命も間人皇女と呼ばれていたのでしょうか。更に、間人皇女が最終的に中皇命という皇后より重い立場になったので、万葉集には中皇命と記述されたのでしょう。その事は、別にいいのですが、気になるのは中皇命のこの時の年齢です。
父の天皇に「遊猟の時の歌」を献じさせたとしても、その時の中皇命は幾つなのでしょう。舒明天皇が崩御し、皇極天皇が即位して四年目に「大化改新」です。その時、中大兄皇子が十九歳で中皇命が十七歳くらいですから、舒明天皇の遊猟の時はわずか十歳から十二歳くらいです。やや無理な感じがしますね。
父の天皇について狩場に行って、一人前の女性として歌を捧げた(幼いから臣下に献上させた)としても、無理があると思います。天皇には母がついているわけですから、幼い娘がついて行く必要はないでしょう。
この天皇は本当に舒明天皇でしょうか。そうで無ければ、誰でしょうね。
この疑問は後々まで残しておきます。
今日は、巻一と巻九の共通点でした。
巻一は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)・舒明天皇(岡本宮御宇天皇)・舒明天皇に従駕した臣下の歌と、なっていましたね。巻九も雄略天皇、舒明天皇、舒明天皇に従駕した臣下の歌となっています。その後に、持統天皇と文武天皇の紀伊国行幸の歌13首が置かれています。
行幸に従駕した者の歌が13首並ぶのです。
なぜ、このような並びなのか。そこにはどんな意味があるのか。
ちょっと難しそうだけど、ここは踏ん張って人麻呂の編集に身を委ねましょう。
それは、持統天皇の深い願いでもあったのですから。
また、明日