19 白崎から由良の埼へ
1670 朝開きこぎ出て我は由良の崎釣する海人を見てかへり来む
朝早く漕ぎ出して由良の埼に行って、釣をする海人を見て帰って来る。海人を見たら戻って来たいのだ。
1671 由良の埼潮干にけらし白神の磯の浦みを敢てこぐなり
由良の埼の潮は引いたらしい。白神の辺りを船が難儀しなが漕ぎ過ぎて行く。
1670番かは、釣する海人を見るだけなのに、朝早くから船出したというのですね。次1671の歌は、引き潮に逆らいながらも漕ぎ行くという。繰り返し船が詠まれました。有間皇子は湊に立ち寄りながら船で護送されたというのでしょうか。
紀伊国行幸十三首に詠まれた地名は、吉野川沿いか海岸沿いの土地になっています。そして、風光明媚な景勝地ばかりなのですが、美しい景色とは裏腹に旅の途中で語られた物語はきっと悲しい物語だったことでしょう。太上天皇は文武天皇に話して聞かせたはずです。
成年になり、即位して五年目の文武天皇はどんなことを思ったでしょうね。
母の阿閇皇女からも話を聞いていたでしょう。その10年前(690)の紀伊国行幸の時の阿閇皇女の歌や話も聞かされたことでしょう。
岩内の岩内1号墳が有間皇子の墓だという説があります。7世紀末の方墳で、副葬品を見ると皇族の墓の可能性が高いそうです。(この時代に紀伊国で死亡した皇族は有間皇子ひとりだという)また、紀伊国には文武天皇勅願の道成寺が建立されていますが、岩内1号墳の羨道は道成寺に向いているそうです。岩内1号墳に有間皇子の墓を改装し、道成寺を建立したということでしょうか。
道成寺って、あの道成寺ですか? 安珍と清姫の? わたし「道成寺」と聞いてハッとしました。道ならぬ恋をした若い僧と娘の物語です。まるで、有間皇子の話のようではありませんか。何処までも追いかけた娘とは……誰なのでしょう。
また明日