気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

15 朱鳥四年・持統天皇の紀伊国行幸

2017-02-14 23:34:28 | 3持統天皇の紀伊国行幸

15 朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸

日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月天皇紀伊国に幸すという

万葉集には、朱鳥四年(690)と大宝元年(701)の持統天皇の紀伊国行幸時の歌が残されています。

正確には、朱鳥四年一月に持統天皇は即位していますから、この年は天皇としての行幸になりますが、大宝元年は文武天皇に譲位した後ですから、太上天皇ということになります。

朱鳥三年は、持統天皇にとって決断の年でした。夫の天武天皇崩御後に草壁皇子が即位せず、母として持統天皇は称制で政務を取っていました。しかし、草壁皇子は薨去したので中継ぎとして即位し、孫の軽皇子(文武天皇)の成長を待つことにしたのでした。

息子の死を悲しんでばかりいるわけにはいきません。嫁を励まし孫を教育しなければなりません。それがための、朱鳥四年の行幸でした。

 阿閉皇女(あへのひめみこ)が草壁皇子を偲ぶ歌

(阿閇皇女は草壁皇子の妃で、後の元明天皇です)

紀伊國の旅はなんといっても持統天皇の大宝元年(701)の「紀伊國行幸」の時の歌群が内容的にも圧巻です。持統天皇の紀伊国行幸は数度あるようですが、二度は万葉集で誰にも確認できます。

 一度目の朱鳥4年(690)は、草壁皇子を亡くした翌年です。草壁皇子の妃の阿閉皇女を伴っての行幸でした。

  阿閇皇女は夫を失って失意のうちにありました。持統帝はこのとき息子の嫁を元気づけようとしていたのです。皇女には草壁皇子の遺児が三人いて、中でも跡取りの軽皇子の成長を待って皇位継承を成さねばならなかったのです。その為の堅い決心を嫁に促すために、旅にさそった…それが「紀伊國行幸」です。そこで持統帝が見せたもの、それには重大な意味がありました。

 「勢能山を越ゆる時の阿閇皇女の作らす歌」巻一の35

  これやこの倭にしては我が恋ふる紀伊路にありという 名に負う背ノ山

この歌は、単なる土地褒めの歌でしょうか。阿閇皇女は夫の突然の死によって深く傷ついていました。この紀伊國行幸は物見遊山というより、この先どのように生きるのか、何をしなければならないのかを義母から諭された旅であったのです。
「これがそうですか。お母さま、いえ、陛下から常々お聞きしていた勢能山は。紀伊路の紀ノ川(吉野川)を挟んで背ノ山と妹山が向かい合っています。わたくしは織姫と彦星のように離れていても心から慕いあうお話を聞いて、ぜひとも背ノ山を見たいと倭から恋焦がれておりました。今日、とうとう背ノ山を見ました。お別れした我が背の君を思い出させる背ノ山。わたくしは、これから織姫のように我が背の君との逢瀬を待ち続けましょう、ずっと。」

背の山を見た皇女は草壁皇子を思い出して、十分に涙を流したことでしょう。皇女は夫を愛していたし、三人の子どもたちを心から愛しているのです。
やがて、始めて背ノ山を見て涙を流した阿閇皇女が連れていかれたのは、有間皇子が浜松が枝を結んだ岩代だったのです。その地を見せるのが持統帝の目的でしたから。

また明日


14愛し合う二人が求めた紀伊國の真珠

2017-02-14 09:43:41 | 14愛し合う二人が求めた紀伊国の真珠

14紀伊國の真珠懸けた願い

万葉集の巻九の冒頭の三首は、泣けてしまう歌です。一首目は、前日のブログで紹介しました。雄略天皇の歌となっていました。

次の二首は作者名が分かりません。しかし、この二首は相聞になっています。男女が消息(愛)を確かめ合う歌です。

それも岡本天皇の紀伊国行幸の時の歌です。さて、舒明・斉明のどちらの天皇の行幸でしょうか。

1665 愛しい人のために、わたしは玉を拾いたい。沖の深い海の底から玉を持って来てくれ、沖の白波よ。(私はどうしても拾いたいのだ。拾って白玉に懸けたい願いがある)

1666 早朝、貴方はここへ来たけれど、朝霧に濡れてしまった衣を干す間もなく急いで出発して、あなたは独りで山道を越えて行くのだ。(早く、急いで山道を越えてください。どうぞ、ご無事で。わたしは待っています。いつまでも)

上の二首は、愛し合う二人の別れの場面ではありませんか。それも訳アリの二人のようです。どんなわけがあるのか、人麻呂の時代の人は十分に承知していました。

男性が探した白玉は真珠です。瀬戸内の小島の海人が潜水して真珠を得ていたそうです。その白玉は、霊力を持った玉・魂にも通じる玉なのです。「珠だすき」という頭部にのせる神事のアイテムの材料でもありました。海の底の霊力を持つ真珠を手にして願い事をする、男性は差し迫った問題を抱えていました。大事な人の為にもそれを解決しなければならなかったのです。

さあ急いで、貴方に追っ手が来るはず、だから一刻も早く、山道を越えて逃げてください。私は待ちます、貴方の嫌疑が晴れて再びお会いする日まで、私は待ち続けます。女性の悲痛な叫びが、そして強い意志が伝わります。

この歌を詠むと、千年以上の時を越えて泣けるのです。

紀伊国由良の埼・この浜を古代の人も見たのでしょね

この浜に立つと、古の風に触れることができます。晴れた日には海の青が心にしみてきます。

また明日。


13 雄略天皇は木梨軽皇子事件を詠んだ

2017-02-13 10:57:39 | 13雄略天皇は木梨軽皇子事件を詠んだ

13 巻九の冒頭歌は雄略天皇の歌

雄略天皇は陰謀による木梨狩皇子の死を知った

 万葉集・巻九 「雑歌」*雑歌とは、雑でどうでもいい歌ではない。公の歌、儀式歌、皇族に関わる歌などを云う

泊瀬朝倉宮御宇(はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめしし)大泊瀬幼武天皇御製歌

1664 ゆうされば小掠の山に伏す鹿は今夜(こよい)は鳴かずい寝にけらしも

夕闇が迫って来たので小掠の山に伏して隠れている鹿は、今夜は鳴かないで寝てしまったのだろうなあ(「伏す」は、狩人の目を逃れるために身をひくくする意味で使われる事が多い)

 小掠山の鹿は誰かに狙われているので隠れていたが、今夜は寝てしまったのかという、意味深な歌なのです。これは、雄略天皇の歌です。隠れているのは、長兄の皇太子・木梨軽皇子です。同母妹の軽大郎子皇女との密通を疑われて、人臣が離れたというあの事件の最中の歌です。

 今夜は鹿が鳴かなかった! 実は、鹿は既に殺されていたので鳴かなかったのです。

ここには、陰謀で兄を失った時の雄略天皇の喪失感があるのです。

わたしは兄上をお慕いしている。お姿も心映えも素晴らしい方だからだ。それなのに今は、陰謀のために身を隠す事態となってしまわれた。今夜は兄上のご様子が何も伝わってこないが、お体を休めておられるのだろうか。何事もなければいいのだが。

しかし、ついに木梨軽皇子は命を奪われてしまった。

陰謀によって失った高貴な人への思慕を雄略天皇の歌として、人麻呂が巻九の冒頭に置いたのです。

  そして、よく似た歌が巻八の「秋雑歌」の冒頭に置かれています。

「鳴く鹿」と「臥す鹿」が違っているだけで、ほとんど同じです。

 

菟餓野の鹿の物語には、心慰めていたものを突然奪われた人の嘆きと喪失感があふれています。「鹿の声が突然聞けなくなった」話は、当時の人々にかならず「菟餓野の鹿の悲話」を思い出させ、「あの話は、あの事件のことだ」と結びつけさせたのです。

巻八の1511番歌は、なんと岡本天皇の歌です。斉明天皇か、舒明天皇か、どちらでしょう。斉明天皇なら一つの事件が浮かび上がりますね。

初期万葉集は、繰り返し「或る事件」を引き出していますね。

それは、ついに巻九の「紀伊国行幸十三首」に集約されていくのですが…

また明日。

 


12柿本人麻呂が選んだ万葉集3番歌

2017-02-12 18:50:35 | 12柿本人麻呂が選んだ万葉集3番歌

人麻呂編集の謎万葉集巻一と、巻九の共通点

柿本人麻呂は、万葉集の冒頭に雄略天皇・舒明天皇と並べました。次は、臣下の歌ですが、中皇命が献じさせた歌となっています。

舒明天皇の遊猟の時に、中皇命が自分の壬生部である間人(はしひと)連老に献じさせた歌となっています。壬生部とは、皇女や皇子を育てるための財政などを担う氏族です。その氏名(うじな)を皇子や皇女の呼称として用いたので、中皇命も間人皇女と呼ばれていたのでしょうか。更に、間人皇女が最終的に中皇命という皇后より重い立場になったので、万葉集には中皇命と記述されたのでしょう。その事は、別にいいのですが、気になるのは中皇命のこの時の年齢です。

父の天皇に「遊猟の時の歌」を献じさせたとしても、その時の中皇命は幾つなのでしょう。舒明天皇が崩御し、皇極天皇が即位して四年目に「大化改新」です。その時、中大兄皇子が十九歳で中皇命が十七歳くらいですから、舒明天皇の遊猟の時はわずか十歳から十二歳くらいです。やや無理な感じがしますね。

父の天皇について狩場に行って、一人前の女性として歌を捧げた(幼いから臣下に献上させた)としても、無理があると思います。天皇には母がついているわけですから、幼い娘がついて行く必要はないでしょう。

この天皇は本当に舒明天皇でしょうか。そうで無ければ、誰でしょうね。

この疑問は後々まで残しておきます。

今日は、巻一と巻九の共通点でした

巻一は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)・舒明天皇(岡本宮御宇天皇)・舒明天皇に従駕した臣下の歌と、なっていましたね。巻九も雄略天皇、舒明天皇、舒明天皇に従駕した臣下の歌となっています。その後に、持統天皇と文武天皇の紀伊国行幸の歌13首が置かれています。

行幸に従駕した者の歌が13首並ぶのです。

なぜ、このような並びなのか。そこにはどんな意味があるのか。

ちょっと難しそうだけど、ここは踏ん張って人麻呂の編集に身を委ねましょう。

それは、持統天皇の深い願いでもあったのですから。

また、明日

 


11 柿本人麻呂が選んだ万葉集の2番歌

2017-02-11 13:23:31 | 11柿本人麻呂が選んだ万葉集の2番歌

柿本人麻呂が選んだ舒明天皇の歌

舒明天皇は、天智天皇・天武天皇・間人(はしひと)皇后の父となっています。舒明天皇(田村皇子)は、聖徳太子の皇子・山背大兄王と皇位を争って大王になりました。もちろん、何事も無く皇位についたのではありません。

山背大兄王を支持した蘇我馬子の弟の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)は、山背王の弟・泊瀬王を頼り王の家に住みましたが、泊瀬王は突然の死をとげました。自殺か他殺か、突然死と書かれています。摩理勢は絶望し自家に引き籠りましたが、蘇我蝦夷の命令で父子ともに絞殺されました。舒明天皇も内部の粛清を経ての即位だったのです。

高市の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の御代(息長足日広額天皇)「天皇、香具山に登りて国見したまふ時の御製歌」から分かるのは、舒明天皇が国見した山は香具山です。

ここが、舒明天皇の神山、聖なる山なのです。畝傍山でも耳成山でもありません。

香具山から見えるヤマトをほめたたえ「うまし国ぞ蜻蛉島ヤマトのくには」と大王位についたことを喜んだのです。

では、耳成山を神山としたのは誰でしょう。藤原宮の後ろに見える耳成山。

畝傍山を聖なる山としたのは誰でしょう。藤原宮の西に畝傍山。

そうそう、今日は万葉集巻一の2番歌の話でしたね。

人麻呂は、「舒明天皇の歌」を「雄略帝の1番歌」の次に持って来ました。それは、何故か? です。それは、3番歌でわかります。万葉集巻一の三番目の歌に「中皇命」が出て来るのです。

人麻呂は、中皇命をこそ引き出したかったのです。そのわけは、万葉集を読めばおのずからわかってきます。それは、持統天皇の意思でしたから。

では、また明日。

 

 

 


⒑ 人麻呂が持統天皇のために万葉集を編纂した

2017-02-10 15:00:14 | 10人麻呂が持統天皇のために万葉集を編纂した

人麻呂が持統天皇の勅により万葉集を編纂した

世間でもこのように云われていますね。万葉集を読む人は誰もそう感じると思います。

万葉集は、誰のために誰が編纂したのか。気になることですよね。初期万葉集は「持統万葉」とか「元明万葉」とか云われています。それは、各天皇の御代の詩歌の数を見れば明らかです。持統天皇の御代が一番多いのですから。

後期万葉集とも様々な点で編集に違いがあります。

さて、万葉集の冒頭歌、巻一の1番歌は、誰の歌だったか覚えていますか。そう、あの有名な暴虐の天皇・雄略天皇です。なぜ、この人なのだろうと、いつも思っていました。

読んでみて、どう思いますか?

案外やさしい人なのかなあ。自分から名を名乗るってどういうこと? 倭を平らげた王だぞと言いながら、菜を摘む娘に敬語を使っているの! とか、色々でしょう。

菜を摘む行為が神事であり、娘は聖女で神に仕えていたから敬語を使ったとか、娘は高貴な家の生まれであったとか。解釈は様々有りますが、私は、「冒頭歌は雄略天皇でなければならなかった理由」があると思うのです。

それは何か?

雄略天皇が允恭天皇の第五子だったことと、深い関係があるのです。大王(天皇)になるためには、他の皇子に死んでもらわねばなりません、でした。

政権への血みどろの戦いがあったことは、どの時代も同じようなものです。

ですが、あえて雄略天皇の、云ってみればどうでもいいような平和な儀式歌が冒頭に上げられたのは、めでたい歌から掲載して「万葉集の穏便な立場を示そう」としたように見えます。

しかし、そうではありません。万葉集は鎮魂歌集です。

不運にも政変の犠牲になった人の、彷徨える霊魂を鎮めるための歌集として、人麻呂が編纂したのです。後世、冒頭に手が入れられなかったのなら、冒頭がそのまま初期万葉集の姿を留めているのなら、ここには、重要かつ決定的な意味があるのです。

シコメちゃんの一言をよく見直してください。允恭天皇の第一子は、木梨軽皇子です。人麻呂は「木梨軽皇子と軽大郎皇女」の物語(伝承)を十分に頭に置いて、冒頭に雄略天皇を持って来たのです。木梨軽皇子は皇太子でした。

誰がどうしても、皇太子のその地位は奪えません。しかし、ただ一つ、同母妹との姦通がありました。それは、タブーだったから無条件に罰することができました。木梨軽太子はこの事件により皇太子の地位を追われ、弟の穴穂皇子(安康天皇)に皇位を奪われるのです。

この事件は万葉集に取り上げられ、軽大郎皇女の歌が掲載されています。

人麻呂はこの事件を引き出すために、万葉集の冒頭に雄略天皇を持って来たのです。

それは、持統天皇の強い願いであったからです。

また明日


9 有間皇子を愛した間人皇后

2017-02-08 13:41:44 | 9有間皇子を愛した間人皇后

9 有間皇子を愛した間人(はしひと)皇后

なぜ、中皇命は紀伊国に来たのか?・それも有間皇子事件の渦中に!

当然の疑問でしょう。間人皇后は有間皇子の父・孝徳天皇の妻でしたから、その皇后が天皇崩御後に息子が起こした事件のために紀伊国まで追いかけて来るなど考えられません。むしろ、兄の中大兄の命を受けて護送に付き添って来たとも考えられても仕方ありません。愛する兄の為に、有間皇子に「あなたは皇太子(中大兄)に逢うべきです」と。

しかし、紀伊温泉まで来た中皇命の歌は、せつせつと相手を思う思慕の歌です。そして、最後に白玉の歌、白玉こそ拾って願いを懸けたかったという歌ではありませんか。事件の本質を知っている人の必死の思いが溢れているのです。

中皇命・間人皇后は有間皇子を愛していた! ということでしょうか。

更に、有間皇子事件の時(658年)に、中皇命が存在したということは、斉明天皇はまだ即位していないことになります。準天皇からまだ玉璽が渡っていないのですから。皇位のためには玉璽が無ければなりません。前天皇の御璽が。これは、大変な事実です。斉明天皇が即位するのは、有間皇子事件の後に玉璽が渡った後となるからです。

そして、亡き天皇の後宮のトップが、紀伊国に来たという事実です。準天皇として来たという…

間人皇后は、孝徳天皇の病が重篤になった時、兄の中大兄と共に難波宮に戻り天皇を見舞っています。そのまま難波宮に留まったと思われます。孝徳天皇から玉璽を預かったのですから。難波宮の内裏で玉璽を以って大化改新後の律令政治の一翼を担っていたのです。

(前期難波宮が孝徳朝の宮跡とされています。掘立柱の異様なほど立派な「いうべからず」という宮殿だったのです。もちろん、後宮も北側にに在りました。)

では、次の天皇は? 後継者は誰だったのでしょう。皇太子となったのは、みんなを引き連れて飛鳥へ戻った中大兄ではなく、孝徳天皇の息子・有間皇子をおいて他に考えられません

有間皇子が後継者として仕事を始めた矢先の、謀反事件でした。後継者が謀反などありえない話です。中皇命は次の天皇になるべき有間皇子を追いかけてきました。なぜ?

そこが問題です。孝徳天皇崩御後、難波宮の後宮はどうなっていたのでしょう。多くの妃や夫人が居たはずです。彼女たちは全て次の後継者の下に移籍されていた、のではないでしょうか。だから、中皇命は追いかけて来れたのです。他に後宮の夫人もいたかも知れません。

中大兄にすれば、大臣や豪族の承認を得てはいないではないかと、有間皇子の存在を戒めたかも知れません。しかし、有間皇子は律令にある皇室の決まり事をもって後継者となっていた、そう思うのです。

では、中皇命の歌を立場を変えて読みなおしてみましょう。

書紀では「有間皇子は倭の市(いち)経(ぶ)から護送されたとなっています。

しかし、難波宮から、此処から有間皇子が連れ出された可能性は強いと思います。間人皇太后は事の重大さに不安を覚え、皇子を迎えに行きました。しかし、紀伊國に入って、有間皇子に掛けられたその嫌疑に愕然とします。このことは、後日触れます。
皇太后は皇子に語り掛けました。岩代から白浜が見えています。

「殿下、お気持ちをお察しいたします。殿下がこの先々どれほど永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのようにしっかりと命をつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの代の永からんことを祈りましょう」
君が代もわが代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな

皇子も促されて草を結びました。間人皇太后は、白浜に目をやります。
「殿下、白浜が見えております。あす、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜は遠くは有りません。太后はわたくしの母君ではありますが、母を捨てて殿下にお味方したわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。……殿下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。仮廬の草を深く敷かれてくださいませ。草が足りなければ、殿下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず、殿下のお体をお包みしお慰めすることでしょう。」
我が背子は仮廬作らす草なくは 小松が下の草を刈らさね

いよいよ、皇子が一人牟婁の温泉(ゆ)に送られる時が来ました。伴の者も、自ら追いかけて来た中皇命も見送るほかありません。中皇命は去りゆく皇子の姿に問いかけました。
「殿下、今一度お声を聴きとうございます。殿下、わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海女が潜水して白玉を得ているのですね。願いをかける白玉を。でも、殿下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに」
吾欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ

中皇命は間人皇太后以外ありえないでしょう。それでなければ、これほどの歌を読むことはできません。後の人が作った歌物語だったとしても、有間皇子の物語を詳しく知っての作となるでしょう。
中皇命は本気で有間皇子に皇位を伝えるつもりだったのです。

 

また明日


8 有間皇子を追って来た間人皇后

2017-02-07 20:24:14 | 8有間皇子を追って来た間人皇后

8 有間皇子を追いかけて来た間人(はしひと)皇后

 

額田王の歌の次は、「中皇命、紀の温泉に往す時の御歌」
君が代も我が代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな
わが背子は仮廬(かりいお)作らす 草(かや)なくは 小松が下の草を刈らさね
我がほりし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ

中皇命は間人皇后とされ、『有間皇子がこの温泉に護送された時、間人皇后がつきそって行く途中での歌とされる説がある(田中卓)』と岩波の「古典文学大系」に書かれています。私も、そう思います。
間人皇后と兄の中大兄皇子は、同母の兄妹という関係を越えて恋仲だったという説もあります。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。

10 貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。
11 我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。
12 わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。
 

此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。 

岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む

間人皇后が有間皇子を追いかけて来たのは、何故でしょう。

今は亡き孝徳天皇の皇后であった人が、中皇命という立場の女性が、何ゆえに岩代まで来たのか。そこには、万葉集を解く大きな鍵がかかっているのです。

また明日


7 額田王が見た有間皇子事件

2017-02-06 10:21:05 | 7額田王が見た有間皇子事件

7 額田王が見た有間皇子事件

 

有間皇子(ありまのみこ)とは何者か? 有間皇子は36代孝徳天皇の後継者です。

 

孝徳天皇は、大化改新(645)のあと豪族の支持を得て大王(天皇)になった偉大なる天皇でした。しかし、日本書紀によると孝徳天皇の後継者は、皇太子の中大兄皇子となっています。大王にまでなった孝徳天皇の皇子として「有間」しか名が残されていません。それであれば、有間皇子こそが唯一無二の皇太子だった可能性があります。しかし、有間皇子事件により皇子は刑死しました。

その事件を目撃した女性がいました。

 

 

有間皇子が中大兄皇子の許へ連れて来られた時、斉明天皇は牟婁温泉の何処にいたのでしょうか。皇族のしかも最高権力者の旅ですから、警護も厳しかったでしょうから、女帝は自分から甥に逢いに行けなかった。しかし、斉明天皇の傍には額田王が居ました。

 

額田王は、紀伊温泉行幸に従駕していました。万葉集巻一の七・八・九番歌は額田王の作歌となっていますが、八は天皇御製歌とも書かれています。(別の機会に取り上げます)

九番歌の題詞に「紀温泉に幸(いでま)す時、額田王の作れる歌」とありますから、斉明女帝に従駕していたのです。だから、皇子の様子をしっかり見たことでしょう。大事な目撃者の歌なのに、実は一句と二句が読み不明とされています。昔から読み不明のまま今日に至っているのです。

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつ橿が本

  莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 わが背の君はお立ちになったであろう いつ橿(聖なる橿の木)の本に 

意味不明、読みがわからない、わたしはそこに額田王の本音があると思いました。云うに言えない本音が隠れているとしたらどう読みましようか。漢字をそのまま読んでみましょう。

では、「紀伊温泉に幸す時、額田王の作れる歌」です。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつかしが本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣には、読みの定説がありません。読みもいろいろです。
ゆふつきの あふきてとひし
ゆふつきし おほひなせそくも
きのくにの やまこえてゆけ
みもろの やまみつつゆけ
まつちやま みつつこそゆけ
さかどりの おほふなあさゆき
ふけひのうらに しつめにたつ
しづまりし かみななりそね
みよしのの やまみつつゆけ
ゆふつきの かげふみてたつ
しづまりし うらなみさわく
どれもピタリと、意味と読みが合致せず、定説がないのです。云うに言えない心のうちを意味不明の漢字に託して、額田王は読んだのでしょう。

これを漢字の意味だけで 読んでみましょう。
・日暮れ・広い大きい・寂しい→計り知れない寂しさの中
・かまびすしい・うるさい、やかましい→うるさく騒ぐ人や
・まどい・おだやか→穏やかな人も
・となり、集落に家がある→集まった
・漢文に用いられる日本独特の終助詞・強めの助詞
大相・大きな会見→尋問がおこなわれた
・一の中からわずかな変化が斜めに芽を出すこと→些細な事で
・あに・二つのものを比べて、その中ですぐれたほう→年上の人が
.つめ、爪の先でつまむ→あの方は小さな望みを以って
・目上の者に申し上げる→潔白を陳べた
・目に見えない力→あの方は凛としておられた
漢字だけで考えると上記のようになります。

わが瀬子とは、有間皇子のことだとしても良い(当の有間皇子を擬する道がありそうである)と、万葉集釋注で伊藤博は書いています。事件は斉明天皇の紀伊國行幸の時に起こったのですから、額田王が知らずに過ごすことはないでしょう。

 

牟婁温泉での会見ではひとまず許されたかに思えた有間皇子でしたが、中大兄は追っ手を差し向けました。そして、藤白坂での刑の執行となりました。額田王は藤白坂について行くことはできませんでした。

しかし、皇子の最後の様子を聞いたのです。「自分が縊られる樫の木の根元に立った時、皇子は毅然としていて、その様子は傍の人々を圧倒した。そして、家族が泣き叫ぶ中に皇子は家族を諭し、そして最後を迎えた」と。額田王は泣きながら斉明天皇に奏上し、歌を詠んだのです。

有間皇子は額田王の「わが背子」ではありません。斉明天皇の「わが背子」です。女帝に奏上した歌なのでしょう。藤白坂にある藤白神社は斉明天皇の願いで創建されたという伝承があります。

 


6 斉明天皇は幾度も地獄を見た

2017-02-05 16:41:14 | 6斉明天皇は幾度も地獄を見た

6 斉明(皇極)天皇は、幾度も地獄を見た

斉明天皇は美しい人だったのでしょうね。若くして高向王に嫁ぎ漢皇子を生んでいますが、舒明天皇に望まれて妃となり、舒明二年に皇后に立ちました。

一度目は夫・舒明天皇の崩御、その後の皇位継承者が決まらず即位したが、「乙巳の変」に遭遇し、天皇の目の前で入鹿が殺されたこと、です。俗説では、入鹿は皇極女帝の恋人だったとか言いますが、どうでしょうね。

飛鳥寺の西の広場は、公共の場所でした。鎌足と中大兄は蹴鞠をしていて、ここで会いました。地方の、まだ国に取り込まれていない民の服属儀礼をする場所でもありました。

蘇我入鹿の首塚はここにあります。ということは、皇極天皇の大極殿(この頃は、まだ大極殿はない)、儀式の館はここにあったのでしょうか。または、この近くに。

 

日本書紀によると

中大兄は長槍を執って殿の傍に隠れました。鎌足たちは弓ををもって中大兄を守護します。佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を授け「ゆめゆめ油断するな。不意を突いて斬るのだ」と言いました。子麻呂は恐怖のために嘔吐し、鎌足が励まします。蘇我倉山田麻呂(蘇我赤兄の兄妹)も上表文を読み終わろうとしても、古麻呂らが来ないので、声を乱し手を震わせました。鞍作臣(蘇我入鹿)は不審に思って「どうしたのか」と尋ねました。

その時、中大兄は子麻呂が委縮しているので、「やあ」と声をあげ子麻呂を叱咤し、共に入鹿の不意を突いて頭と肩を切り裂きました。

入鹿が驚いて立ち上がったところに、子麻呂が片足を斬りました。

入鹿は転がりながら玉座にたどり着き「皇位に座すべきは天の御子です。わたくしには罪はありません。どうぞ調べてください」入鹿は血だらけだったでしょう。皇極天皇は「こんなことをするなんて、何事があったのか」と驚くばかり。

中大兄が地に伏して「鞍作は天子の宗室をことごとく滅して皇位を傾けようとしました。どうして、天孫を鞍作に代えられましょうか」というと、天皇は殿中にお入りになられました。

 

入鹿は子麻呂と網田に切り殺され、降り出した雨にその遺体は水浸しになりました。遺体には席(むしろ・敷物)、障子(しとみ・屏風)がかけられた、というむごたらしい事件。

皇極天皇は クーデターの現場を見たのです。

二度目は溺愛した孫の死と、その後に起こった有間皇子事件

これほど愛した孫の死でした。この半年後に有間皇子事件は起こりました。

建王の死が有間皇子事件の引き金になったのでしょうか。

三度目は百済救援の戦いへの参加、結果、崩御となるのです。


5 有間皇子は罠にかけられた

2017-02-04 23:46:49 | 5有間皇子は罠にかけられた

5 有間皇子は罠にかけられたと、日本書紀は認めている

有間皇子は、中大兄皇子の策に落ちた。中大兄の命を受けた腹心の部下・蘇我赤兄に騙されたと、誰もが知っています。日本書紀は隠さず、堂々と赤兄の罠とその手口が書いています。事件の真相を、書紀の編者は本当に隠さなかった? 書紀に書かれていることは、本当でしょうか。

謀反は大罪です。死罪です。有間皇子の家臣の塩谷連鯯魚(このしろ)は、捕らえられて紀伊温泉に連行された後、藤白坂で斬刑となりました。皇子について来た舎人新田部連米麻呂も、藤白坂で斬刑となりました。家臣が極刑となっているのです。皇子は絞殺でした。しかし、守君大石(おおいわ)と坂合部連薬は、上野国と尾張国に流刑になりましたが、ほどなく許され天智帝の許に活躍しました。

彼らは、中大兄(天智帝)に内通していたのでしょう。このことは書かれていませんが分かります。赤兄は中大兄皇子の腹心の部下でした。天智天皇の許で左大臣にまで上り詰めています。

有間皇子事件(日本書紀)

斉明四年十一月三日。

留守司(るすのつかさ)として天皇行幸により留守となる皇居や都を守る官となっていた蘇我赤(あか)兄(え)は、有間皇子に語り掛けた。「天皇の政事には三つの失(あやまち)があります。大倉を建て民から税として財を取ったこと。長い渠を掘って公の食料を浪費したこと。船で石を運び積んで丘としたことの三つです」

有間皇子は赤兄が自分に好意を示したことに、欣然として答えた。「この年になって初めて、兵をあげる時が来た」

五日。有間皇子は赤兄の家に行き、謀をめぐらしていると、脇息が自然に折れた。そこで、不吉な兆候だとして、二人は誓って謀を中止した。皇子は家に帰って床に着いた。*脇息とはひじかけのこと

その夜、赤兄は物部朴井連鮪(えいのむらじしび)を派遣し、宮殿造りの丁(よぼろ)を率いて、有間皇子の市経(いちふ)の家を囲ませた。

赤兄は、すぐに駅使を遣わして天皇の許へ奏上した。

まんまと赤兄の罠に捕らえられた有間皇子。

この時、大化改新の功労者は中大兄皇子と藤原鎌足を残して誰もいませんでした。孝徳天皇の重臣は

陰謀や病気で没し、有間皇子を守れる者はいなかったのです。

塩谷連鯯魚(このしろ)は、孝徳天皇の政権下で、大化二年に東国国司の功過で従順と認められ褒賞されている忠臣でした。皇子には忠臣ですから、当然、殺されるでしょう。

岩代の結松の海岸から海を見ました。ここで最後の夜をすごした有間皇子は、牟婁の湯に護送されるのです。

 

この海の左奥に白浜があります。その牟婁の湯に天皇と皇太子の中大兄が待っていました。

皇太子は自ら有間皇子に問います。「何ゆえに謀反するのか

有間皇子は答えました。「天と赤兄と知っているでしょう。わたしは何も知らない。」

果たして、有間皇子は幾つだったのでしょう。三十過ぎの皇太子との会話です。

そして、十一月十一日、中大兄は丹比小沢連国襲を遣わして藤白坂で絞殺したのです。

ここで命を失ったのは、有間皇子ひとりではありませんでした。このことを知った当時の人は、どう思ったでしょう。

有間皇子に家族はいなかったのでしょうか。妻も子供もいなかったのでしょうか。もし家族がいたとしたら、ただでは済まなかったでしょう。忠臣も殺されました。 皇子について来た舎人も殺されました。その無念は明日 書きましょう。

有間皇子の歌は、巻二の挽歌二首のみです。それでも、すべての挽歌の冒頭歌になっています。大事に扱われているのです。

 

皇子に家族がいたのかどうかですが、わたしは、家族がいたと思います。


4 持統天皇の紀伊国行幸は、有間皇子を偲ぶ旅

2017-02-02 12:50:30 | 4持統天皇の紀伊国行幸は有間皇子を偲ぶ旅

4 有間皇子を偲んだ男たちは、持統帝の従者

持統天皇は紀伊国に行幸しています。万葉集には、二度の紀伊国行幸時の歌が掲載されています。一度目は、息子で皇太子だった草壁(くさかべ)皇子を亡くした後。

二度目は、孫の文武天皇に譲位した後です。

持統天皇が即位したのは、息子の草壁(くさかべ)皇子を亡くした後でした。

にもかかわらず、従駕した官人たちは、古の有間皇子を偲ぶ歌を詠じました。亡き草壁皇子を偲んだのは、嫁の阿閇(あへ)皇女でした。

なぜ? 不思議です。息子を亡くして悲しいのは持統天皇ではありませんか?

 

 持統天皇は天智天皇の娘となっています。天智天皇の大津宮で、草壁皇子を生んでいます。母としての徳を持ち、礼を好み、節倹であると。その持統天皇が、即位後の紀伊国行幸で従駕の者に詠ませたのが、有間皇子を偲ぶ歌?

なぜだと思いますか?

 母として一人息子を亡くすことは、痛手であり苦しみであったはずです。しかし、悲しみに浸ってはおれない状況があったと、そうしか思えません。それで、即位したのでしょう。自分が即位しなければ、皇位は他の誰かに遷るのです。

それは阻止したかった、ということです。

 では、即位後の紀伊國行幸時の歌

143 岩代の海岸の松、その枝を結んで願い事をした人は、願い通りに還ってきて再びこの松を見たのだろうか。(松を見ることができたとしても、その後帰らぬ人となってしまったのだ。)

144 岩代の野中に結松は、ずっと立ち続けている。結んだ枝が結ばれたままであるように心も結ばれたまま解けてはいない。古のあの出来事がしきりに思われる。

長忌寸意吉麻呂は、持統天皇の紀伊國行幸に従駕して磐代で歌を詠んでいるのですが、それもひどく悲しんでいます。

従駕の者が勝手に詠んだ歌ではありません。意吉麻呂は主人のために詠んだのです。詠歌を聞いているのは、持統天皇です。女帝は哀咽して詠まれた歌を聞いている。それは、持統天皇の心です。

有間皇子事件から30年ほどたっているのに、まるで、昨日のことのようです。

 

145 (有間皇子の霊魂は)鳥となって何度も何度も通ってきて松を見ているけれど、人はその事を誰も気が付かないでいる。しかし、松は霊魂に気づいて知っているのだ。

山上憶良は「臣」で、官人となっています。意吉真理の歌に追和しました。そこには、松を見に戻って来る有間皇子の霊魂が詠まれています。有間皇子は、何度も何度も松を見に通って来るという……なぜ?

皇子の霊魂が通って来る訳を憶良は知っていたのでしょう。

 

 146は、柿本人麻呂の歌ですが、詠まれたのは先の長忌寸意吉麻呂の歌から11年後、有間皇子事件から40年以上たった時、大宝元年(701)です。

146 後に見ようと、あの方が結ばれた子松の枝、岩代のこの子松の梢を私は再び見ることができるのだろうか。(子松の梢をを見るのも、これが最後かもしれない)

持統天皇が没したのは、大宝二年十二月(702)でした。紀伊国行幸は、ちょうど崩御の一年前になるのです。

人生の最晩年に、孫の文武天皇と一緒に紀伊國へ行幸した持統天皇。

どういうことでしょうね。ここに、持統天皇とは如何なる人かのヒントがあるのです。

特に、大宝元年の紀伊国行幸に、その意味に。

40年経っても、有間皇子を偲んだ歌を詠ませた人です。

 

有間皇子事件から三十年以上も経っているのに、即位後に紀伊国行幸をして臣下に皇子を偲ぶ歌を奏上させているのです。大津皇子の謀反事件から三年と少々、その傷も癒えていないと思うのですが。かなり古い事件を歌に詠む意味は何処にあったのでしょう。

では、また明日。


3・有間皇子謀反事件・自ら傷みて作る歌

2017-02-01 15:03:06 | 3有間皇子謀反事件・自傷歌

3・有間皇子謀反事件・有間皇子自ら傷みて、松枝を結ぶ歌二首

学生の時、古文の時間に暗記させられた歌に「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」がありました。まあ、なんとなく寂しい歌だとは思いましたが、有間皇子には無実ながら刑死するという運命が待ち受けていることや、謀反事件の陰謀にからめとられた人の歌だと、話には聞いてもそれなりに 聞き流していたのです。

今になると、いろいろと思うところがありますね。

紀伊国に出かけました。有間(ありまの)皇子(みこ)の悲劇を辿り、謀反事件を考え直すための旅でした。

有間皇子は、大化の改新の後に即位した36代孝徳(こうとく)天皇の皇子(おうじ)です。母は左大臣・阿倍倉橋麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)でした。

孝徳天皇の皇太子は、大化の改新で蘇我入鹿(そがのいるか)を斬った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)となっています。そうであれば、有間皇子が謀反事件を起こしたのは何故でしょう。

万葉集巻二の「挽歌」の冒頭歌

141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

  岩代の濱松が枝を引き結び真幸きくあらばまた還り見む

142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛

  家に有れば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

141  岩代の松は深く岩の間にも根を下ろしている。その松の枝を結んで、わが命の永からんことを祈ろう。この松のように無事で命があれば、わたしは再び還って松を見る。見たいのだ。

142 本来なら家にいて、きちんとした笥に飯を盛り神に祈るのだが、今は旅の途中でしかも捕らわれの身だから椎の葉に飯を盛るほかはない。それでも、椎の葉に飯を盛って神に命の永からんことを願うのだ。

有間皇子は、書紀によれば19歳の青年とされています。それにしても、堂々とした詠歌です。この皇子が藤白坂で刑死した…藤白神社は斉明天皇の建立とされています。斉明天皇としては、弟の忘れ形見である有間皇子の死が辛かったというのでしょうか。命を奪ったのは、自分の子である中大兄皇子です。

有間皇子謀反事件は、いわば骨肉の争いだったのです。半年前に建王(たけるおう・中大兄皇子の息子・8歳)を亡くして、斉明天皇は嘆き悲しんでいます。いつまでも忘れないようにと、歌を作らせています。

それにしても、有間皇子の歌は「挽歌」の冒頭に置かれているのです。初期万葉集は「雑歌・相聞・挽歌」という大きな部立(ぶたて)が有り、歌が分けられています 。雑歌(くさぐさのうた)は、いろいろな儀式歌を中心にしています。巻一には「挽歌」は有りません。巻二に到って、初めて「挽歌」が掲載されています。その冒頭歌が、有間皇子の「挽歌」です。というより、まだ生きている当事者が自分を傷んで詠んだ歌です。

挽歌のようで、挽歌ではありません。しかし、有間皇子の歌は挽歌として編集されている。万葉集を編纂した人物の意志や意図がそこにはあるのです。

また明日。