感想文というほどのことは書けないので本の紹介です。図書館の本、
・妻を看取る日 垣添忠生 新潮社 2009.12刊 -国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録-
先ず一昼夜で一気に読めた。それほど亡くした妻を想う悲嘆の気持ちがストレートに読者に伝わり共感を呼ぶ本だった。それに文章がいい。わかりやすい表現で著者の言いたいことがスーと入ってくる名文だ。
若い頃東大病院泌尿器科の助手として勤める傍ら、膀胱がん(私も患った)はやたらと再発するので、国立がんセンターの生化学部長だった杉村隆博士を訪ね、膀胱がんの研究をされた。そこで杉村先生に徹底して作文指導も受けたそうだ。エピローグにこの本の出版にあたり、杉村先生に細部まで校閲とアドバイスを頂いたと謝辞を述べておられる。この人にしてこの師ありだ。
つまらん解説をするより、わが市の図書館の意図で表紙の裏に本の帯を切り取って貼ってあって助かる。その宣伝文、
”定年を迎え、妻とののんびり過ごしていこうとした矢先の出来事だった。わずか6ミリの影が、妻を襲った。1年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、妻亡き後に押し寄せてきた絶望感、そして、人生の底から立ち直るまでの道のり--。日本のがん医療の最高峰に立ち続ける著者が、自らの体験を赤裸々に綴った。”
こんなに慕われる妻とはどんな人だったのか。患者であった人妻(別居中にあった)12歳年上の昭子さんの聡明さにいっぺんに好きになる。互いに家も300メートルほど、家族に大反対され、雨が降っていたので傘一本持って家出し、昭子さんの実家に転がり込む。互いの波長がピッタリの夫婦だったそうだ。
彼女は津田塾大で英語を学び、結婚後東京外語大でドイツ語も学ぶ。英語論文や国際会議の交流、社交で氏を助けた。終末医療の4日間を自宅で過ごし大晦日の日、「ありがとう」の一言を最後に昭子さんは逝く。3日間誰にも会わず彼女の顔を見て過ごす。弟夫妻が聞きつけて新年の4日に3人で直葬で送る。故人のたっての希望に沿ったがこれが後で親族の怨嗟になる。享年78、当時の著者は66歳、本の出版時は68歳。こどもはいなかった。
意外だったのは冒頭の生い立ちの記。父が銀行員で両親の故郷が何と飛騨古川、1941年(昭16年)太平洋戦争が始まり、その年の暮れ大阪から父の故郷へ疎開する。
頼った”親戚の農家には米や野菜はたくさんあるのに出し惜しみする。あるとき親戚の茶の間を覗くと親戚の子が銀シャリの山盛りご飯・・”4歳の忠生少年は傷つく。リンゴも兄弟で半分とひもじい思いをする。戦争が終わり作者が6歳になった一家は大阪へ戻るのであるが、”この飢えの呪縛が、疎開先を再訪しようとは思わなかった。これからも、二度と訪れることはないだろう”と、ビックリの記述だった。小学校に上がる前の利発な少年、飢えのトラウマが今にこうなのかと。
おやおや!飛騨古川は私の故郷から20kmくらいの近さ、垣添姓は多くない。先行きの見えぬ戦争時代、転がり込んで疎開してきた叔父一家に親戚は当惑したのであろう。私の亡妻一家も満州から戦後引き上げてきて、同じような境遇にあった。なまじ血が濃い関係であるが故に抜き差しならなくなるのは世の習い。
誰でも好きな藤沢周平の時代小説で厄介叔父という言葉が出てくるが別の意味だ。
昭子さんのがんは甲状腺がん、そして肺がんで再発、悲嘆も経験済み、他人事だと読み過ごせない本だった。(私もこの二つを罹患)(つづく)
「三歳の童子といえども導師たり--藤沢秀行」囲碁棋士(仏教講座 元岐大教授 藤田敬一 氏の講話)