たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

仏教講座

2012年02月26日 | お寺参り

20日は仏教講座の日、3ヶ月連続で大学の元・現職の先生が講師となった。12~2月は寒いので新装成った 真宗大谷派 岐阜別院 門徒会館で行われる。岐阜には東・西とも別院がある。

講題「あまねく諸(もろもろ)の衆生と共に」 木越 康 (大谷大準教授) 

事前メッセージは「浄土教は、憎しみ合い争い合う世界を離れ、清浄なる世界へ生まれていくことを信仰の柱とします。天親(てんじん)菩薩の「願生偈 がんしょうげは・・。」と、法然、親鸞の専修念仏(せんじゅねんぶつ)の基になった中国の師、天親菩薩の願生偈の方が仏教理解の助けになるとの講義だった。

普共諸衆生 往生安楽国 ふぐしょしゅじょう おうじょうあんらくこく 

「あまねく もろもろの衆生と共に 安楽国に往生せん」という天親菩薩の願生偈の終章句です。

仏教は回向(えこう)ということを大事にする。意味をもつ。
”回向とはサンスクリット語 パリマーナマ の訳 原義は--進める。熟させる。---自分が積んだ修行の善徳を他者に振り向けること。大乗仏教の教えで「ほかの幸福を願うことは、結果的に自分にも果報がある」とするものだ。そして、回向は追善の場合、死者の冥福を祈ることであるが、それによって、仏の方からも参列者に功徳がもたらされるのである"となっています。
 (今だからら求められる 仏教 早分かりエッセンス辞典 土屋書店 1990.12刊) 

講師はパリマーナマを変更・転換・付け替えと訳された。修行を積んだ善根を他者に振り向けること、めぐらし回す、とは如何なる理由なのかという講話だった。

真宗門徒は親鸞の正信偈(しょういしんげ)というお勤めをする。最後に必ず回向文を中国の師、善導大師の「帰三宝偈(きさんぽうげ)」の終句で締めくくる。

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
がんにしくどく びょうどうせいっさい どうほつぼだいしん おうじょうあんらくこく
願わくは、この功徳をもって、 平等に一切に施して、 同じく菩提心を発(おこ)して、 安楽国に往生せん。(真宗聖典)ということです。

講師は大学の現職先生なので、板書が実に巧みで親切、分りやすくよく理解できるお話しだった。こういう先生だと学生も楽しいだろう。

付録)お葬式でお馴染みのお勤め、正信偈(しょういしんげ)、
これは親鸞の主著、教行信証の行巻の中にある偈である。偈とは仏の功徳を讃える唱のこと。
帰命無量寿如来 南無不可思義光 きみょうむりょうじゅにょらい なむふかしぎこう
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

で始まる、「南無」とは古代インド語(サンスクリット語、梵語)の「ナモー」の音訳である。漢和辞典では梵語の音訳 経文などに対し絶対の帰依を寄せる意とある。また、

” 南無とは頭を下げることである。随順します。阿弥陀仏を敬い、帰依することである。どこまでもついて行く、何から何までお任せしますということである。
「阿弥陀仏」というのは、「アミターブハ・アミターユス・ブットハ」の音訳で、(ハは小文字)「無量の光であり、無量の寿命である仏」ということである。

永遠のいのちである仏ということであり、この仏さまのことを昔は「尽十方無碍光如来 じんじっぽうむげこうにょうらい」といった。無碍、無礙は障り無しの意である。” (私の歎異抄 紀野一義 ちくま文庫)

不可思議光とは、思うことも議(はかる)こともできない、永遠の光の仏ということ。
阿弥陀仏は光の仏さまで、あまねく諸(もろもろ)に光を偏りなく照らす、遍照金剛、へんじょうこんごう、ダイヤモンドのように尊い仏様、仏の中の最高位の仏様である。

浄土系の新興宗派富山の親鸞会の始祖、高森顕徹先生の話を何回か聞いたが、悟りの52位といって、最高位の仏覚(妙覚)まで登った人は釈迦ひとり、菩薩とはそこまで達していない人をいうと解説された。例によってくどいが浅学ながら解説した。

付録)今日は大事な高校の級友が亡くなって急に葬儀のお参りに名古屋へ行く。彼は少し体調を崩していたがこんなに早く突然逝くとは・・。合掌