8月9日継鹿尾観音寂光院の九万九千日記念ひろさちや先生講演では、「南無」の意義について話されました。
浄土系の親鸞聖人は“「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじん じゅっぽう むげこうにょらい)ともうすは、帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の勅命にしたがうこころなり。“と「尊号銘文」という文書の中に解説されています。
南無も帰命も同じ意味なのです。正信偈という親鸞の偈では「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と始まります。
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無し奉る」、永遠の寿命の如来に帰命し、思うことも量ることもできない光の仏に南無します。という意味です。手次寺のお盆法会の講師も南無を解説されました。南無も帰命も同じ、どこまでもついて行きます。随順します。お任せします。阿弥陀の阿はサンスクリット語の「無し」という意味、弥陀はミターで量りのこと、如来の如は如実なるもの、真実なるもの、無上なるもの、無碍なるもの、すなわち仏、覚者であると。
「すがれ助けるぞ」という如来の呼びかけ、勅命にただ「お頼み申す」と、お願いすればいいわけだ。
ひろ先生の講話の最後は、傷つきのたうち生きる人生もそれはそれでよい。我々は持っている物差しが1本の価値観で見ている。仏様の物差しで「何だっていい、万がいちのときは、ただ泣けばいい」。物差しは英語でスタンダードという。これもダブルがよい。何だっていいの何と、万がいちの万で、ナンマンダブだと最後は語呂合わせで笑わせ終了しました。
祭壇前に珍しい釈迦苦行像が飾ってあります。多くの方と祭壇にお参りし、写真を撮らせてもらいました。釈迦は出家し6年におよぶ「難行苦行」の末に「独自の中道の思想」に到達し、悟り(最高の真理)を得ます。
その断食修行中の像です。その苦行には片足で一昼夜立ちつづける、あるいはまばたき一つせず太陽を裸眼で見つづける、また釘の上に寝るなどの修行があったが、(釈迦の修行中の名前)ゴータマ沙門が選んだのは、その中でももっとも困難とされる、断食の修行であった。
断食は普通21日を限界とするのだが、沙門はその何倍もの日数に挑戦したという。骨と皮ばかりの体になったその苦行像です。お腹のヘコミがリアルです。
パキスタンのラホール美術館にある有名な苦行像のレプリカです。ネットで検索していただくと、紀元前3世紀頃の発掘された、苦行像の画像がたくさん出てきます。
ゆっくり拝んで階下に下りると、先生は著書のサインに応じたり、聴衆の質問に答えておられました。自殺希望の人をどうサポートすればいいかという質問に答えておいででしたが、終わって周囲の人に握手され、思いがけず自分にも両手で包んでくださったので、「先生と同い年です」といいました。「子年ですか」、「そうです、ネズミの昭和11年です。今日はありがとうございました」と、挨拶しました。講演で77歳になったと話されたからです。