たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

仏教講演会その2

2013年08月11日 | お寺参り

南無の結論は「何だっていい」と、分ることだと ひろさちや 仏教講演会を聞きました。
先生がこどもの頃、明治27年(1894)生まれの祖母から聞いたこと。
仏様へお参りするときはお願い事をするな。ありがとうございます、と感謝とお礼のお参りをすることだと教えられた。
祖母は昔の人なので無学であったが、親から教えられたのだろう仏教の基礎はきちんとわきまえていて孫の私に教えた。お願い事のお祈りは請求書の祈りだ。お礼のお祈りは領収書の祈り。そうあるべき。
南無して、お任せして入試に不合格になっても、よかったことか、悪かったことか、は今は分らない。将来落ちたから一浪してよかったといえることも起きるかも知れない。今は分らない。
「分らないことは、分らないとだと、分ること」が仏教の悟りだ。これは大事なことなのでいつも言っている。
何だっていいと分ることが大事。万が一のときは泣けばいい。
大学で20年間哲学を教えた。哲学専攻だと学生から人生相談を持ちかけられることが多かった。よく訴えを聞いてみると考えても仕方がないことを相談された。分らないから迷う。悩む。よく考えるとどっちでもいいことに悩んでいる。
考えるな、とアドバイスした。禅の言葉で「莫妄想(ばくもうそう)」という。
過去を振り返るな⇒反省するなということ。未来を求めるな⇒希望を持つなということ。今を一生懸命生きる⇒今(今日)できることをやる、ということだ。

キリストも「明日のことを想い煩うな」といっている。今日一日を楽しく生きる工夫をせよ。
パキスタンへ旅行した時、タクシーに明日の朝、ホテルへ迎えに来てと・・、時間指定した。大幅に遅刻してきたので叱った。運転手はあっけからんと「インシャラー」と言った。インシャ・アッラーは「若しも神様がお望みならば」、「神様の思し召しのままに」という意味で、イスラム教徒の常用句である。遅刻したのは目覚まし時計をセットして寝たのに、鳴らなかったのは神様がお望みでなかったからだと平然と弁解する。それがイスラム教徒だ。
南無してお任せした以上文句は言わない。インシャ・アミダーでよい。他人のことにもどうだっていいと想うこと。
現代は何でも一つの物差しで差配し、学校教育も同じ。リンゴが4個ある。3人で分けると1人はいくつ?と問題を出される。ある優秀な小学生は1個だと答えて×を先生から貰った。この子は残った一個は仏さまに上げると答えた。それが正解だ。残った1個を仏様にとの優しい心。1と1/3と答えさせる日本の現代教育は間違っている。

珍しく ひろさちや 講演会の正面近くに、母親に連れられた小学生の女の子が聞いていて、しきりにうなずいて聞いていた。
先生の祖母は昔芸者だったと話され、私は3歳の時から芸者遊びしていると笑わせた。先生は大阪の浄土系お寺の跡継ぎだったが戦争で寺が焼け学者になったとも。東大印度哲学の大学院を出られた。この寂光院山主は名大印度哲学出なので、インド等へ誘い合わせ一緒に旅行など、2人は相性がいいのだろう。山主は松平氏で徳川さんの系統と聞いている。31歳でこの寺へ赴任し今67歳だと紹介された。
浄土系はお参りにお願い事はしない。アもスもない一瞬の“一念“で信に任せれば、後の念仏は感謝の念仏、”報恩念仏“だと教える。観音様はお願い事をする仏教。ブツブツ願い事をつぶやいてお参りせよと言われる。観音様が聞いておられると山主は言われる。