横濱・櫻木町コティベーカリーぶろぐ

街のこと店のこと今昔物語

音楽通り今昔

2008年02月03日 19時35分33秒 | 街のこと
             
この写真は、昭和20年代の音楽通りの風景です。店主が3~4歳の頃は、まだ県立音楽堂はなく「音楽通り」という名は付いていませんでした。低い木造の家屋が並んでいるので、空が広く見えます。店の前の道路は交互通行の砂利道でしたので、車が跳ね上げ砂利が店のガラスを割るという事故がよく起こりました。

                   
55年後、現在の「音楽通り」です。建物は高層建築になり、歩道が整備され、車道は一方通行になりました。

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昭和30年代末頃の「音楽通り」の様子が次の文章から偲ばれます。この一文は、
1988年 第32回 岸田國士戯曲賞受賞者・大橋泰彦さんが月刊『すばる』に執筆されたエッセイ「音楽通り」からの抜粋です。
 
             
※昭和30年代の音楽通り                       ※現在の音楽通り
                          …【略】…
沿線に日吉、田園調布、自由が丘、代官山を置く、日本でもハイソサエティーな私鉄、東横線の横浜よりの終点、桜木町に、私の実家がある。線路と平行に、国道県道を間に置いて、一方通行の小さな商店街、花咲町は、「ハナザキチョウ」と読むのが正式らしいが、私はいつも「はなさきちょう」と言う。

一直線に五百メール程続く商店街は、通称「音楽通り」と呼ばれていて、パン屋、お菓子屋、靴屋、薬屋に始まり、油屋、八百屋、お茶屋、ハンコ屋、乾物屋と続く。通りの中ごろにある私の実家は、小さな貸本屋をやっていた。通りの終点は、なだらかな坂道になっていて、登りきると、今度は直角に、紅葉坂という坂がのびていて、その先には、横浜でもかなりの老舗の県立音楽堂がある。

昔は、クラシックの演奏会が盛んで、十二月にもなると、演奏会帰りの人達が、第九や賛美歌を合唱しながら家の前を通りすぎていった。おそらく「音楽どおり」という名前も、そんなとこから付けられたらしい。私が幼い頃、子守唄替わりに聞いた「もろびとー、こぞりてー」が日本語だったという事を知ったのは、ずい分後だったと思う。
                     …【略】…
少年の頃、よく屋根に登り、瓦に腰かけ見下ろした風景は、今、この屋上からは見られない。回りをいくつもの高層ビルやマンションに囲まれて、花咲町「音楽通り」も、時代の波に取り残されまいと、古い家は、五階、六階のビルに建て替えられ、木造の家は、もう、数える程になってしまった。



    集英社『すばる』1988年7月号<フォーラムすばる~町の顔・屋上>より
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 ※文中赤い文字の「パン屋」が当店です。
 (注・本文どおり抜粋しましたが、読みやすくするために区切りを入れました)



                  
       横浜桜木町シベリアのコテイベーカリーHP 

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