*掃部山の井伊直弼像*
掃部山は明治の頃、鉄道技師の官舎が建てられていたこと、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから「鉄道山」と呼ばれていました。その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有になり、大正3年に横浜市に寄付され掃部山公園と呼ばれるようになりました。
横浜開港50周年記念の明治42年(1909年)に像の除幕式が行われる予定でしたが、旧攘夷派の流れを汲む人々の圧力によって中止を命じられました。旧彦根藩の士族たちがそれを無視して除幕式を断行したところ、一夜のうちに井伊直弼の銅像の首は切り落とされてしまったそうです!
さらに第二次大戦中の昭和18年(1934年)には政府の金属回収指示によって銅像は取り去られてしまいました。井伊直弼さんは生前も銅像になってからも波乱万丈です。現在の銅像は1954年(昭和29年)に再建されたものなので、店主が幼い頃は銅像の台座しかなく、公園も手入れされず雑草が生え荒れた空き地でしたが、桜の木だけは今と同じように華やかに咲いていました。
※初代の祖母、二代目の父、三代目の店主(幼児の頃)
ちょうどその頃の店の写真です。祖母は水戸藩士の娘でした、桜田門外の変で井伊大老を襲撃したのが水戸藩の浪士でしたのでちょっと因縁めいています。
*掃部山横浜能楽堂*
こちらは、掃部山公園の裏にある横浜能楽堂です。公演のない日には2階の無料スペース(展示廊、ビデオコーナー)、本舞台も見学できます。1階ロビーある喫茶スペースは、横浜散歩の休憩にオススメです。
※2階席から見た本舞台
この能舞台は、もとは東京上根岸の旧加賀藩主・前田斉泰の所有でしたので(加賀・前田家の家紋にちなみ)舞台の鏡板には通常の松・竹に加えて「梅」があしらわれています。木の香りに包まれて静かな能舞台を見ていると、心が安らぎます。
今年の桜は、“冷蔵庫に入っていた”ため、とても長持ちし入学式まで持ちました。しかも咲いてからは暖かく風もないお花見日和が続きましたので、おだやかな春を満喫できました~♪
掃部山は明治の頃、鉄道技師の官舎が建てられていたこと、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから「鉄道山」と呼ばれていました。その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有になり、大正3年に横浜市に寄付され掃部山公園と呼ばれるようになりました。
横浜開港50周年記念の明治42年(1909年)に像の除幕式が行われる予定でしたが、旧攘夷派の流れを汲む人々の圧力によって中止を命じられました。旧彦根藩の士族たちがそれを無視して除幕式を断行したところ、一夜のうちに井伊直弼の銅像の首は切り落とされてしまったそうです!
さらに第二次大戦中の昭和18年(1934年)には政府の金属回収指示によって銅像は取り去られてしまいました。井伊直弼さんは生前も銅像になってからも波乱万丈です。現在の銅像は1954年(昭和29年)に再建されたものなので、店主が幼い頃は銅像の台座しかなく、公園も手入れされず雑草が生え荒れた空き地でしたが、桜の木だけは今と同じように華やかに咲いていました。
※初代の祖母、二代目の父、三代目の店主(幼児の頃)
ちょうどその頃の店の写真です。祖母は水戸藩士の娘でした、桜田門外の変で井伊大老を襲撃したのが水戸藩の浪士でしたのでちょっと因縁めいています。
*掃部山横浜能楽堂*
こちらは、掃部山公園の裏にある横浜能楽堂です。公演のない日には2階の無料スペース(展示廊、ビデオコーナー)、本舞台も見学できます。1階ロビーある喫茶スペースは、横浜散歩の休憩にオススメです。
※2階席から見た本舞台
この能舞台は、もとは東京上根岸の旧加賀藩主・前田斉泰の所有でしたので(加賀・前田家の家紋にちなみ)舞台の鏡板には通常の松・竹に加えて「梅」があしらわれています。木の香りに包まれて静かな能舞台を見ていると、心が安らぎます。
今年の桜は、“冷蔵庫に入っていた”ため、とても長持ちし入学式まで持ちました。しかも咲いてからは暖かく風もないお花見日和が続きましたので、おだやかな春を満喫できました~♪