ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

母親のことも書いておこうか、と思う

2007-08-01 23:33:43 | Weblog
「父と子」(1)~(5)を書いたので、母のことも書いておくのが筋だろう、と思う。父に関しては、読み返してみてもかなり同じ男としての感情移入が大きくて、美化し過ぎた感もある。しかし、総じて父は、僕の頭の中ではあくまで「父と子」のように整理されていることは否定しない。
さて、母のことだ。母は4人の男兄弟の真ん中、上から3人目のたった一人の女として、僕にとっては申し分のない祖父母に育てられた我が儘娘である。当然親には甘やかされて育った一人娘だったし、男兄弟の中で育ったわけだから、みなさんも大体の想像はつくだろう。姿形は女だが、性格は男そのもので、女に間違って生まれてきたような女、それが僕の母である。僕の思春期からの深い疑問は、何故父はこんな母と結婚したのだろう? というものだった。僕なら絶対に嫌だ、と思っていたからである。しかし、父の性格や半世紀以上も前の淡路島の環境を思い合わせると、何故父と母が結婚するハメ(僕にはいまだにこういう言葉でしか表現出来ない)になったのかは想像に難くない。
半世紀以上も前の淡路島は寂れた漁師町だった、と思う。当時の若者たちにとっては都会とは対岸にある明石の街であり、少し足を延ばして神戸の新開地が憧れの地であったのである。母の父、僕の祖父だが、その祖父の家業はサルベージだった。港湾を造るときの基礎工事を請け負っていたのである。宇宙人のような鉄の帽子を被り、体は頑丈なゴム製の服に身を包んで、海の中に潜ってひたすら湾の土台になるように海底で石を積み上げる仕事だったのである。一般には「モグリ」と言われていたように記憶する。ポンポン船に乗って、作業場になる海上に船を止めて置き、そこから空気を手押しポンプで送りながら、宇宙人さながらの作業主はその小さな船から海底に飛び込んでいくのである。作業員たちの手伝いに淡路島に来ていたのが、当時20歳の母だったのである。神戸からやって来た娘である。それに母は半世紀以上も前に身長が160センチ以上あったし、たぶん漁師町にいる女性と比べると断然垢抜けていたはずである。
当時はダンスホールが寂れた漁師町にもあるくらいダンスが流行った時代である。父と母は、そのダンスホールで出会った、というか出会ってしまったのである。後で聞いた話だが、父には結婚を誓い合った女性がすでにいたらしい。人生の失敗は小さなほころびからその傷口を広げていく、というが、父と母の出会いこそ、まさに父の都会信仰のような性格が、結婚を誓い合った女性を捨てさせ、母と意気投合し、まさに「出来ちゃった結婚」の始まりであり、その結果この世界に投げ出されたのが、僕という存在なのである。母は男に生まれていたら、結構スッパリとした性格の男になったと思う。何故そういえるかと言えば、僕の母方の祖父の血をそのまま受け継いだような女性、いや女性もどき、が母だったからである。祖父のことは好きだった。頭は禿茶瓶で、お腹が突き出ている大男であり、見かけとは違って、僕にはあくまで優しかった。苦労人だったので勉強はまるでしていなかったから、僕が自慢の孫だった様子で、俺の目の黒い内はお前を必ず大学までやってやるんだ、というのが口癖だった。ただ、大好きな祖父は僕が小学校3年生になった頃、心筋梗塞であえなくこの世を去った。
祖父は新しい物好きで、当時はかなり高級だった8ミリカメラをぶら下げて旅行に行くのが趣味だった。祖父が禿げた頭をタオルで拭きながら、左手に当時めずらしかった8ミリカメラをぶら下げている姿を新聞社のカメラマンに撮られて、その写真が第1席をとって、当時の神戸新聞に載ったこともある。もう一つ僕の印象に深く刻まれていることは、僕が45歳になった頃に、「パペポテレビ」という深夜番組で、上岡龍太郎と笑福亭つるべの、台本なしの楽屋話で、何十年ぶりかで祖父のことを上岡が話題に出したことであった。あれは不思議な体験で、何十年という年月が一瞬にしてピタリと重なる一瞬だった。それは僕が小学校の低学年の頃、奈良にドリームランドが開園された日に、町内会でバスで出向いた時のことだ。当時は凄い賑わいで、芸能人もゲストで来ていて、歌手の神戸(かんべ)一郎やマンガトリオも来ていて、上岡龍太郎は横山パンチであり、その横山パンチに、僕の祖父が例の8ミリカメラを向けながら、「あんたらもたいへんやなあ。ワシはサルベージいうてなあ・・・」と長々と話かけていたのを僕は側で見ていた
のである。そして、「パペポテレビ」でドリームランドが閉園されるという話題にたまたまなって、上岡はそういえば、禿げ頭のおじいさんが、サルベージをやっているといっていたなあ、と続け、上岡はサルベージという仕事の内容までちゃんと覚えていて説明し、祖父のことをテレビで喋り出した時、時間がワープするとはこういう体験のことを言うのか? と体感した。
母のことを書こうとするが、どうしても話がそれる。父の淡路島の家が傾いて、神戸に出て来て、父にはサラリーマンが勤まらず、結局、母の実家の仕事を10年くらいはやっていたか? 「父と子」では生来の遊び人と書いたが、実は、父もポンポン船を祖父から貰い受けて、サルベージをやっていた。現ナマは当時のサラリーマンには考えられないほどに入ってきていた、と思う。父も母も家というものにまるで興味のない似た者どうしだったので、もし、二人にその気があれば、立派な家が3軒くらいは建っていた、と思う。要するに母も使い倒しの人間で、僕らの家庭はかなり刹那的に金を使い放題に遊興していた、と思う。
父と母のあの不幸な事件は、父が追われるようにして去った淡路島で、大きな現場を請け負い、親方として、港湾事業を一手に引き受けて、採算が取れずに、僕が中学生の当時に何千万かの借金をつくり、それを返せなくて母の実家を抵当に入れて、大揉めした結果の出来事だったのだ。父の胸を包丁で抉ってから、母とは何度か和解しようとしたが、その度にヒステリックな母に嫌気がさして何度も連絡が途絶えた。今年の正月、母が間接的にでも父の死の原因をつくったのだ、そのことにあんたはなぜ気がつかない !、あるいは気づかないふりをしているのだ !、とあの事件以来初めてぶちまけて、母とは絶縁した。母は今年75歳になる。もう会うことはないだろう。たぶん彼女の葬儀にも僕は出ない。

○推薦図書「女たち」中村真一郎著。中公文庫。中村の描く女性像には中学の頃から憧れていました。また、主人公の男の奔放な生きざまに胸打たれながら、本来父はこんなふうに生きればよかったのに、と思いながら読みました。時代は変わりましたが、いまだに中村の描く女性像は、僕を捉えて離しません。それにくらべて、渡辺淳一の描く女性像はいただけません。まさに「鈍感力」あるゆえに書けた作品群なのではないでしょうか、渡辺淳一の場合は。