思えば僕は物心ついた頃からアウトロー、といえば聞こえはいいが、はみ出し者だったように思う。小学生の頃、喧嘩に命をかけていた頃だってそうだった。毎日は地獄のように(地獄がどんなところかはまるで想像もつかないが)孤独だった。いつやられるかも知れない、という恐怖は、人を孤独の底に突き落とす。僕は幼い頃に人生の底の姿をすでに見てしまったように思う。中学生の頃、たぶんどこから見ても僕は優等生だっただろう。何をやってもうまくいかないことの方が少なかった。先生からの受けも良かったので、番を張っていた、僕が見上げるような屈強な上級生が、僕に裏番を張らないか、と誘いをかけてきた。もちつもたれつじゃあないか、と番長は大人びた態度で、それでも決して感じの悪くない接し方で僕に近寄ってきた。答えはすぐにその場で出した。オーケーだった。僕だって小学生の頃は喧嘩の真髄には触れた想いもあった。それに中学生が番を張る、ということのつらさに共鳴出来たからだ。僕たちはお互いに表と裏から支え合うことになった。いい男だった、と思う。彼から受け継いだ番を張った同級生も、僕に同じことを頼みにきた。勿論その男のことも心底認められたので、僕は中学生の2、3年は裏番として、はみ出し者の人生を歩み出した。僕は確かに表向きは権力の側にいたが、何とも居心地が悪かったのである。たぶん、その頃から、人生の表舞台を歩く人間に対して少なからぬ敵意を抱いていたように思う。
高校生になってからは、社会が僕の進むべき道を準備してくれていた。1969年という時代に、僕は高校生になった。'70年安保闘争に関わる学生運動は、抗えない魅力を持っていた。のめり込み、多くの仲間を失ない、僕自身も自分の人生の軸を折り曲げてしまったが、逆に、僕のアウトローとしての生きかたにはさらなる磨きがかかったように思う。確かにつらかったが、もうこの路線からはみ出した人生はない、と確信した。僕はあのまま、挫折して、かつての番長に誘ってもらったように、本物の人生の裏道を辿るべきだったのかも知れない。たぶんその選択をしていれば、いま、こんなブログを書いていられるようなことはなかっただろう。かなり前に僕は確実にやくざの世界で殺られていたに違いないからである。負け犬のように神戸にもどった僕をわざわざ決して安くはない店に呼び出してくれた、一つ年上の番長は、かつて世間を騒がせた山口組と一和会との抗争の只なかで命を落とした。彼は若頭だったから、大層な葬儀だったが、たぶん誰よりも僕の悲しみは深かった、と自負している。かつての学生運動仲間の一人が自殺したことも重なった。自分の心の傷に酔っているときではない、とかえって思った。
どこかで闘うために大学生にもどったように思う。たぶんこの社会に対して毒づいてみたかったのだろう、とも思う。誰からの援助もなく、二流の私学に通い続けることの苦しさが、自分の裡の毒をさらに深くしたように思う。学校には殆ど通うことが出来なかったが、それでも3人の男ばかりの連れが出来た。彼らがいなかったら、僕は確実に単位がとれなかったはずだ。彼らのノートが大学に行かなかった割には良い成績として跳ね返ってきた。おまけに教員免許までとってしまった。僕を含めて4人の中で教員免許が取れたのは、皮肉なことに僕だけだった。
卒業の年、1977年は不況の嵐が吹いていた。大手の企業からの採用などは親か親戚のコネクションがなければ、二流の私大生にはちょっと無理な相談だった。当然僕には何らのコネクションもなかった。仲間の一人が親のコネで大手のKDD(現在のKDDI)に就職が内定した。付き合っている頃から幾分ムカつく男だった。親のコネで入った、ということも何か僕の中のささくれだった精神を刺激した。気がついたら、その男の得意げな顔面を殴りつけていた。一発で鼻血が噴き出し、倒れた。残りの仲間のその男に対する説得がなければ僕は確実に傷害罪で警察にしょっぴかれていたはずだ。別に教師という職業に魅力を感じたのではなかった。どこか社会の中にもぐり込む必要がある、と思っていたに過ぎない。たとえ、普通の会社員になっていても問題児だっただろう。世の中うまく出来ている? というか、皮肉というか、僕の個性が最も忌み嫌う大宗教教団が背後に控えている私学の高校の教師におさまった。おさまったが、もう僕の標的は定まっていた。宗教という世界に厳然と存在する世襲制というものが大嫌いだった。そこで育った僧侶たちには、人の優しさが理解できない人間たちばかりだった。ただ育ちだけが良かった。だからこそ僕はムカついた。かの女子学園は、僕が就職した当時、僕の両親の世代が山のようにいたから、僕のムカついた神経をなだめてくれる人さえいた。僕があの女子学園で23年間も教師という仕事を続けられた大半の理由は、両親の世代の良くも悪しくも、永年学園に居すわってくれていたお蔭からだろう、と思う。23年間の教師生活にピリオドを打った要因については何度か書いたので略す。
いま、まるで違う仕事をしつつ生業を立てているが、心の中の炎(ほむら)はまだまだおさまることはない。生涯アウトローだろう。そういう生きかたしか出来ないのだ。将来はまるで見えない。たとえ、それが孤独な死で終わろうとも致し方のないことだ。いまの仕事が続けられる根底には、そういう覚悟が底に在るからだろう、とも思う。壊れることにはもう慣れ切っている。だからこそ、壊れを覚悟で、仕事をしている。僕は死ぬまで負けるわけにはいかないのだ。それが負け戦であろうとそんなことはどうでもよいことだ。信頼に値する人間を不条理な死によって何人も失った。彼らのプライドを傷つけるような弱気な生きかただけはしたくはない。ただ、そう思って生きている。いや、あらためてそういう覚悟を決めて生きなおしつつある。
○推薦図書「生きさせろ !」 雨宮 処凛(かりん)著。太田出版刊。元右翼上がりの著者が、いまはたぶんに左翼的な視点から、「ワーキングプアたちの反乱」について、自己責任の名のもとに若者たちを使い捨てる社会に、企業に毒づいている書です。単に毒づいてはいません。真摯な視点から、社会の暗部にメスを入れている質の高い、敢えていいますが、研究の書です。つまらない学者の説より説得力があります。一読を薦めます。
高校生になってからは、社会が僕の進むべき道を準備してくれていた。1969年という時代に、僕は高校生になった。'70年安保闘争に関わる学生運動は、抗えない魅力を持っていた。のめり込み、多くの仲間を失ない、僕自身も自分の人生の軸を折り曲げてしまったが、逆に、僕のアウトローとしての生きかたにはさらなる磨きがかかったように思う。確かにつらかったが、もうこの路線からはみ出した人生はない、と確信した。僕はあのまま、挫折して、かつての番長に誘ってもらったように、本物の人生の裏道を辿るべきだったのかも知れない。たぶんその選択をしていれば、いま、こんなブログを書いていられるようなことはなかっただろう。かなり前に僕は確実にやくざの世界で殺られていたに違いないからである。負け犬のように神戸にもどった僕をわざわざ決して安くはない店に呼び出してくれた、一つ年上の番長は、かつて世間を騒がせた山口組と一和会との抗争の只なかで命を落とした。彼は若頭だったから、大層な葬儀だったが、たぶん誰よりも僕の悲しみは深かった、と自負している。かつての学生運動仲間の一人が自殺したことも重なった。自分の心の傷に酔っているときではない、とかえって思った。
どこかで闘うために大学生にもどったように思う。たぶんこの社会に対して毒づいてみたかったのだろう、とも思う。誰からの援助もなく、二流の私学に通い続けることの苦しさが、自分の裡の毒をさらに深くしたように思う。学校には殆ど通うことが出来なかったが、それでも3人の男ばかりの連れが出来た。彼らがいなかったら、僕は確実に単位がとれなかったはずだ。彼らのノートが大学に行かなかった割には良い成績として跳ね返ってきた。おまけに教員免許までとってしまった。僕を含めて4人の中で教員免許が取れたのは、皮肉なことに僕だけだった。
卒業の年、1977年は不況の嵐が吹いていた。大手の企業からの採用などは親か親戚のコネクションがなければ、二流の私大生にはちょっと無理な相談だった。当然僕には何らのコネクションもなかった。仲間の一人が親のコネで大手のKDD(現在のKDDI)に就職が内定した。付き合っている頃から幾分ムカつく男だった。親のコネで入った、ということも何か僕の中のささくれだった精神を刺激した。気がついたら、その男の得意げな顔面を殴りつけていた。一発で鼻血が噴き出し、倒れた。残りの仲間のその男に対する説得がなければ僕は確実に傷害罪で警察にしょっぴかれていたはずだ。別に教師という職業に魅力を感じたのではなかった。どこか社会の中にもぐり込む必要がある、と思っていたに過ぎない。たとえ、普通の会社員になっていても問題児だっただろう。世の中うまく出来ている? というか、皮肉というか、僕の個性が最も忌み嫌う大宗教教団が背後に控えている私学の高校の教師におさまった。おさまったが、もう僕の標的は定まっていた。宗教という世界に厳然と存在する世襲制というものが大嫌いだった。そこで育った僧侶たちには、人の優しさが理解できない人間たちばかりだった。ただ育ちだけが良かった。だからこそ僕はムカついた。かの女子学園は、僕が就職した当時、僕の両親の世代が山のようにいたから、僕のムカついた神経をなだめてくれる人さえいた。僕があの女子学園で23年間も教師という仕事を続けられた大半の理由は、両親の世代の良くも悪しくも、永年学園に居すわってくれていたお蔭からだろう、と思う。23年間の教師生活にピリオドを打った要因については何度か書いたので略す。
いま、まるで違う仕事をしつつ生業を立てているが、心の中の炎(ほむら)はまだまだおさまることはない。生涯アウトローだろう。そういう生きかたしか出来ないのだ。将来はまるで見えない。たとえ、それが孤独な死で終わろうとも致し方のないことだ。いまの仕事が続けられる根底には、そういう覚悟が底に在るからだろう、とも思う。壊れることにはもう慣れ切っている。だからこそ、壊れを覚悟で、仕事をしている。僕は死ぬまで負けるわけにはいかないのだ。それが負け戦であろうとそんなことはどうでもよいことだ。信頼に値する人間を不条理な死によって何人も失った。彼らのプライドを傷つけるような弱気な生きかただけはしたくはない。ただ、そう思って生きている。いや、あらためてそういう覚悟を決めて生きなおしつつある。
○推薦図書「生きさせろ !」 雨宮 処凛(かりん)著。太田出版刊。元右翼上がりの著者が、いまはたぶんに左翼的な視点から、「ワーキングプアたちの反乱」について、自己責任の名のもとに若者たちを使い捨てる社会に、企業に毒づいている書です。単に毒づいてはいません。真摯な視点から、社会の暗部にメスを入れている質の高い、敢えていいますが、研究の書です。つまらない学者の説より説得力があります。一読を薦めます。