ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人生って、ゴテゴテしているからいいのかも?

2007-08-04 23:45:00 | Weblog
人間、生きるってこと、そのものがご大層なことだ、と思う。だって、人一人生きるのに、まずはどれだけの物が必要だろう? 家の中には、生きるための道具が溢れているではないか。そういう余分な物があるからこそ、人は面倒だという想いを抱きつつも、同時に生の豊かさも感じるのではないか、とも思う。文化や生活の質が、お金がかかっている、という意味合いにおいて、高くなればなるほど無意味な? 必需品が増えることになる。少し乱暴な言い方をすれば、生活の豊かさとは無駄という意味と底で繋がっているのではないだろうか。たとえば、豪邸を建てる。家具や調度品に大枚のお金をかける。車はベンツかポルシェか悪くてワーゲンだ。庭にも凝ろう。芝生を敷きつめて、美しい花を咲かせるか、純日本風に松の巨木などを植えて、その手入れは庭師に任せるとしよう。この程度の生活をしようとすれば、たぶんばらまくようにお金を使うことになるだろう。海外の貴族たちや、戦前の解体される前の日本の財閥や、地方の大地主たちの生活様式は、現代の所謂お金持ちとは比べようもない程に生活の質は豊かだっただろう。またそれだけにゴテゴテしてもいただろう。フランスのルイ14世時代の宮中では、あまりに広すぎる宮殿の隅っこで、豪勢な衣服を身に纏った女性たちが、柱の隅っこで放尿していた、というのは有名な話である。フランス料理を生み出したフランス貴族たちが、無意味なほどの飽食をしつつ、お行儀の悪いところも歴史の事実として残されている生活様式。これもまたゴテゴテだ。
日本では高度経済成長時代に、お金がダブり出した頃、高倉 健がシンプル・ライフ(simple life) という服飾のコマーシャルに出ていたことを覚えておられる中高年の方々もいらっしゃるだろう。世の中はゴテゴテなのに、敢えてシンプル・ライフと高倉 健のイメージでうったえたメーカーはなかなか文化の逆説を使ってうまい戦略に出た、と思う。敢えてここには記さないが、そのメーカーは大売れした、と記憶する。ゴテゴテの言葉上の浄化と実質的なゴテゴテの上塗りだった。これが人間の生活か、と思う。現代は形にならないものを売って、ゴテゴテのイメージを変えているかに見えるが、実態は同じ質のものに違いない、と思う。情報とサービスという無機質な代物が21世紀の主役である。が、これも裏を返せば、情報やサービスを売る側の人間たちの、額に汗しながらの耐えざる労働が生み出した代物である。ゴテゴテが見えにくくなっただけの話である。人間の生活はどこまで行っても労働の総量が生み出したものによって、その時代の文化が支えられているのである。<格差社会>という言葉がいま流行語のようになっているが、人間が生活する限りにおいて、過去も現在も未来も社会というものはすべからく<格差社会>である。社会体制もへったくれもない。酷薄だが、これが現実だ。
こんなことを書いている僕は、こういうゴテゴテの<格差社会>を否定しているのか? とんでもない。出来ることなら、メイドでもいるお屋敷のような家で、うまい物を食らい、糖尿病すれすれの健康を維持し、外車を乗り回し、外では高級イタリアンかフランス料理か、出来過ぎた洗練さを売りにしている高級和食を食らいたいものである。これが人間の欲望の姿か、と思いもする。否定はしない。自分の中にも醜悪な欲望が確かに在る。
ただ、これから残り少ない人生をどのようにゴテゴテしつつ生きるのか? ということは真面目に考えてはいる。欲望に満ち溢れた妄想は確かにあるが、実際にそうしたいのか、と言うと、ここが肝心なところなのだが、不可能な欲望であるから、贅を尽くした生きかたを選ばないのか? というと、どうもそうではないらしい。自分の裡に強欲なほどの欲望が渦巻いているのも認めるが、裏表のないシンプル・ライフを求めているようにも思う。ただ、何かの間違いで大金が転がり込んできたら、どうなるかは保障の限りではない。ひょっとするとシンプル・ライフどころか、ゴテゴテの浪費を楽しんでいないとは決して言えないのが、自分のさもしいところだ。

○推薦図書「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」 ジェイ・マキナニー著。新潮文庫。ニューヨークの一流出版社に勤めながら、毎夜ナイトクラブに通いつめ、コカインに溺れる主人公の青年。記憶は定かではありませんが、マイケル・J・フォックスが主演して映画になっていたように思います。'80年代のアメリカ青春小説の代表的な作品です。