ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

孤独死か?

2007-08-23 21:52:12 | Weblog
やはり、お年寄りの人口が圧倒的に多くなったせいか、幸せな老後を過ごしておられる方々も一方にはいらっしゃるし、またその一方では「孤独死」なんていう言葉が新聞から漏れ出てきます。他人の死にざまに関してどうのこうのという気持ちは毛頭ありません。そんなことは個々自由な問題だろうと思いますから。死生観なんて同じだ、なんて思う方がどうかしているようにも感じますから。勝手に書かせてもらっているブログなので、僕の死生観について少し語ろう、と思います。
人生なんて何が起こっても不思議ではない、というのが僕の生の常識です。とりわけアップダウンの激しい人生を送ってきたわけですから、こう思うのも仕方がないでしょう。人生のレールの上を、間違いのないように、慎重に歩いていらっしゃる方には不真面目に聞こえるかも知れませんが、僕なりの人生の閉じ方に関する想像を書いてもよい時期だ、と思われるので敢えて書くことにしました。そんなふうに考えていたら、「孤独死」という言葉がとても自然に僕の心の中に入り込んできたのです。マスコミが対象にする「孤独死」には貧困が伴う場合が殆どです。食べるものもなくなって、餓死する、という死に方などは「孤独死」を彷彿とさせる死に方でしょう。
54歳にもなってしまいましたが、この生活のまま無事に死を迎えるとも思えません。この先、何が待っているか、僕に分かろうはずもありません。が、何故か「孤独死」という言葉は僕にはかなりなインパクトがあるのを否定できません。人間、家族に囲まれて死に際を迎えても、死ぬときは結局はたった一人なのです。死ぬ間際に大病院の贅沢な個室で、体中に数えきれないほどのチューブを付けられて、ちょっとした延命治療を苦しさと引き換えに受けているのも、僕にはどうもしっくりと来ません。まあ、僕の場合はお金には縁がないので、意味のない延命治療を受けさせられる心配もないでしょう。
「孤独死」という言葉にこだわって言えば、たぶん自分の場合は低所得者用の市営住宅はいい方で、より現実的なのは、築30~40年くらいの木造二階建てアパート、風呂なし、共同トイレ、たとえば6畳一間の部屋で、誰にも気づかれず死を受け入れ、恐らくは死後の腐臭でご近所の誰かが警察へ通報して、腐敗しかけた僕を変死者として司法解剖にした後、どこかの大学の医学生たちの解剖の素材としてお役に立てるのかなあ、なんて想像してしまいます。理想としては、サハラ砂漠とかゴビ砂漠、あるいはモンゴルの大平原で息絶えて、カラカラに干からびて自然の中の一部になって、無に帰るというのが僕なりの恰好のつけ方ですが、「孤独死」に貧困がついてまわるのなら、そんなところへ行くだけの旅費もないわけで、結局安アパートで最後は警察のご厄介になるのが落ちか、とも思います。
その一方で派手に散ってみたい、という欲動も消しがたくあり、たぶんそれは若い頃の血が生々しく体中を駆けめぐっているせいなので、何かに命を懸けてもいいか、とも思うこともたまにはあります。まだまだ、そういう気分も消しがたくあるようです。否定できない事実です。
ともあれ、どのような偶然が作用しようと、それが自分の死のありようを決めるのであれば、それに従おう、と思っています。ジタバタと無意味な延命治療だけは避けたいものです。たぶん生と死の境目は、意外にはっきりとしている、と思うので、死の瞬間、ふっと自分の意識が途切れるのが分かるだろうと想像はしているのです。いずれにせよ、そういう瞬間は刻々と近づいて来ているのだろう、とは思うので、覚悟だけはしておきたいと結構真剣に考えています。

○推薦図書「ラディゲの死」 三島 由紀夫著。新潮文庫。作品は自らの死を覚悟しつつ、銃殺される主人公の心の物語ですが、これを書いた三島自身が市ヶ谷駐屯所で古式にのっとった切腹をした、というのも興味深いと思います。華々しい死にざまですね。僕にはたぶん「孤独死」が精一杯でしょうが。