ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

さて、これから何をしようか?

2007-08-06 23:38:24 | Weblog
人生の折り返し点を大幅に過ぎてしまって、まあそんなことはないとは思うが、たとえば、自分が日本人の平均寿命まで生きると仮定してみると、どうしようもなく中途半端な時間しか残されていないことに愕然とさせられる。現実的に考えて、自分の場合は、まず平均寿命まで生き永らえるとは思えないが、それにしても癌にでもおかされるか、交通事故に遇って命を落とすかして、あっけなくもこの世を去る、というのが、これまで漠然と自分の終末のあり方として考えてきたことなのだが、人間の生なんてまさに偶然性の象徴みたいなものなのだから、可能性としては平均寿命くらいまでは生き残ることだってあり得るのかも知れない、ということに、アホらしくもハードボイルドな小説を読みながら、コーヒーを啜っているとき、ふと頭の中を掠めて通り過ぎた。何て似合わない組み合わせの中で、自分の中に入り込んで来た感覚なのだろう? そんなことにも多少の苛立ちを覚えてしまう自分がまた情けない。ああ、これは危ない、と思った。
人間って、自分が何のために生まれてきたのか? という答えのない疑問の中で彷徨い出すと、もう地獄(といっても、宗教を信じていないので、僕の裡にあるイメージは小学生の頃に父と映画館で観た、故天知 茂主演の「地獄」という映画のそれしかないのだが)の底を這いずり回っているようなものになってしまう。どう考えても人間には意味を求める性向があるようだ。生きる意味、愛の意味、美の意味、醜の意味、結婚生活の意味、離婚の意味、子どもを育てる意味、死ぬ意味、エトセトラ、エトセトラ。何故か、人はその折々の心境によって、これらの意味を言葉にして表現して、納得しようとする。しかし、食べ物の趣向が変わるように、あるいは読む本の趣味が変わるように、言葉の定義も変化するのは当然のことなのである。逆説的に言えば、言葉の定義が変化するということは、人間のあらゆる営みの意味を定義づけること、そのこと自体が何となく不毛なもののようにも感じてしまう。
一流の哲学者たちが、有や無を言葉でねじ伏せて定義づけようとする姿は、勇ましいし、立派だ、とは思うが、どうもいまの僕の感覚から言うと、これまで過剰なほどにこの手の哲学に溺れてきたのに、最も確かなことは、自分には結局のところ何も分かっていない、ということだ。まあ、考え方次第なのかも知れない。その時々の生のありようによって、生や死の定義など、ころころ変化してよいのか? とも思う。何となくだが、自分が死の瞬間までオタオタしているような気がしている昨今なのである。とは言え、妙な宗教にも嵌まって、生や死の意味を無理失理納得するのもどうか、と思うので、どう転んでも、僕は最期までジタバタしつつ生を閉じるのか? と感じる。凡庸な人間の生や死とは案外こんなものでよいのかも知れない。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながら生きていくか、といま漠然と感じながらそんなに遠くはないだろう自分の死に向かって走っているような気がする。こんなものだろう、人生って。

○推薦図書「無間人間:新宿鮫シリーズ4」 大沢在昌著。光文社文庫。大沢の描く人間像は、主人公の鮫島刑事は勿論ですが、登場人物たちが、ハードボイルド作品にも関わらず、どこかやさしいのが特徴です。大沢の作品は溢れるほど出版されていますが、昨日紹介したような新堂冬樹のような目を覆いたくなるような人間の醜悪な要素はどこにもありません。鮫島刑事はあくまで恰好いいのですが、どこまでも他者に対する優しい眼差しを大沢は鮫島に託すように描きます。直木賞受賞作品です。お薦めします。