○心と身体という総体としての<からだ>について語ろう
心あってこその身体、身体あってこその心である。この両者を敢えて切り離すような思想は、開拓者時代からはじまった、アメリカのプロティスタンティズムという悪しき思考のスタイルである。とりわけ、身体がまいっているときにこの悪しき思想は有効である。心、即ち精神性が身体を支配するという考え方であるからだ。確かにある一面の真理はあるだろう。精神が身体を健全にするという表層的な意味合いにおいてはまさにその通りである。しかし、プロティスタンティズムの思想は、体力の限界性を超えても、精神さえ強固であれば持ち堪えられる、というかつて奴隷を縛ったそれである。
こういう発想は現代の日本にも顕著で、特にスピリチャルなものの流行がそれをよく証明している。スピリチャルな要素が勝てば、人間の身体性は無視される。あるいは控えめに言っても軽視されるのである。とりわけ昨今の怪しげな新興宗教の類はそのことをマスコミ報道から性的犯罪がらみの事件としてよく見てとれる。教祖と名乗る人物が信者の女性を信仰というベールをかぶせて性的暴行を平気で犯す。具体的にそういうエセものの宗教の名をここに書き連ねることもないだろう。もう誰もが知っている。
精神と身体という要素を切り離して考えるのは、従って多くの不幸を招きかねない。イスラム原理主義の一部の派閥は、精神性の崇高さを極端に唱えてみせる。彼らの思想からすれば、身体などは単なる血や肉の固まりに過ぎない。自爆テロがそのことの証左である。日本にもかつては、同じ種の原理主義的なものが若者たちの心を捉えて離さなかった。「葉隠」に隠された精神至上主義の、身体を犠牲にした自爆テロ、それはかつての神風特攻隊であり、人間魚雷回天の思想がイスラム原理主義のありようと同根であることをよく物語っているではないか。いや、日本のかつての軍隊が多くの南洋の島々で玉砕したのも、ある種の原理主義の横行である。日本的原理主義の現れであった、と僕は思う。
だからこそ、敢えて言いたい。人間存在とは心と身体との総合体としてこそ、意味あるものである、と。心と身体の総合体のことを僕はかりに<からだ>というひらがなで定義することにする。<からだ>とはどこまでいっても分離不可能な存在である。スピリチャルなある種乾いた存在である精神と、ぐちゃぐちゃとした粘液質の固まりである身体との一体性。いまこそ、こういう<からだ>の思想が根づかねばならない時である。それは、精神性だけが突出することもなければ、身体性だけが突出することもない。人間存在を大切にする思想である。
21世紀を生き抜く思想は<からだ>としての人間存在を認めることだし、<からだ>としての人間存在を底で支えているのは愛である。心と身体を分離する思想性には、愛が決定的に欠落している。だからこそ人間はどこまでも残酷にもなれる。愛は<からだ>としての人間存在の快復に欠かせない最も大きなファクターである。僕はそう思う。
○推薦図書「ヌルイコイ」 井上荒野(アレノ)著。光文社文庫。主人公のなつ恵は死に到る病を宣告されつつも気だるい愛と不安が漂う日常性の中で生きている。そういうある種の恋愛小説なのだが、この書にはもっと本質的な<からだ>として生きようとしている主人公の生と性に対する拘りがあります。何気ない表現の中にそういう要素が散りばめられています。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
心あってこその身体、身体あってこその心である。この両者を敢えて切り離すような思想は、開拓者時代からはじまった、アメリカのプロティスタンティズムという悪しき思考のスタイルである。とりわけ、身体がまいっているときにこの悪しき思想は有効である。心、即ち精神性が身体を支配するという考え方であるからだ。確かにある一面の真理はあるだろう。精神が身体を健全にするという表層的な意味合いにおいてはまさにその通りである。しかし、プロティスタンティズムの思想は、体力の限界性を超えても、精神さえ強固であれば持ち堪えられる、というかつて奴隷を縛ったそれである。
こういう発想は現代の日本にも顕著で、特にスピリチャルなものの流行がそれをよく証明している。スピリチャルな要素が勝てば、人間の身体性は無視される。あるいは控えめに言っても軽視されるのである。とりわけ昨今の怪しげな新興宗教の類はそのことをマスコミ報道から性的犯罪がらみの事件としてよく見てとれる。教祖と名乗る人物が信者の女性を信仰というベールをかぶせて性的暴行を平気で犯す。具体的にそういうエセものの宗教の名をここに書き連ねることもないだろう。もう誰もが知っている。
精神と身体という要素を切り離して考えるのは、従って多くの不幸を招きかねない。イスラム原理主義の一部の派閥は、精神性の崇高さを極端に唱えてみせる。彼らの思想からすれば、身体などは単なる血や肉の固まりに過ぎない。自爆テロがそのことの証左である。日本にもかつては、同じ種の原理主義的なものが若者たちの心を捉えて離さなかった。「葉隠」に隠された精神至上主義の、身体を犠牲にした自爆テロ、それはかつての神風特攻隊であり、人間魚雷回天の思想がイスラム原理主義のありようと同根であることをよく物語っているではないか。いや、日本のかつての軍隊が多くの南洋の島々で玉砕したのも、ある種の原理主義の横行である。日本的原理主義の現れであった、と僕は思う。
だからこそ、敢えて言いたい。人間存在とは心と身体との総合体としてこそ、意味あるものである、と。心と身体の総合体のことを僕はかりに<からだ>というひらがなで定義することにする。<からだ>とはどこまでいっても分離不可能な存在である。スピリチャルなある種乾いた存在である精神と、ぐちゃぐちゃとした粘液質の固まりである身体との一体性。いまこそ、こういう<からだ>の思想が根づかねばならない時である。それは、精神性だけが突出することもなければ、身体性だけが突出することもない。人間存在を大切にする思想である。
21世紀を生き抜く思想は<からだ>としての人間存在を認めることだし、<からだ>としての人間存在を底で支えているのは愛である。心と身体を分離する思想性には、愛が決定的に欠落している。だからこそ人間はどこまでも残酷にもなれる。愛は<からだ>としての人間存在の快復に欠かせない最も大きなファクターである。僕はそう思う。
○推薦図書「ヌルイコイ」 井上荒野(アレノ)著。光文社文庫。主人公のなつ恵は死に到る病を宣告されつつも気だるい愛と不安が漂う日常性の中で生きている。そういうある種の恋愛小説なのだが、この書にはもっと本質的な<からだ>として生きようとしている主人公の生と性に対する拘りがあります。何気ない表現の中にそういう要素が散りばめられています。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃