1. 書類選考と適正検査によって合否を判定する自己推薦入試です。(高等学校の推薦書は必要ありません)
2. 専願制ではありません。評定平均値による出願の条件も特にありません。
3. すべての方式を受験出来ます。同一学年・専攻の連続受験や、方式ごとに異なる学科・専攻を受験することも可能です。
4. 同じ方式で、大学と短大の同系列の学科・専攻に同時出願できます。
5. 全国10会場で受験できます。
これが今日の朝日新聞に載っていた僕がかつて勤めていたかの女子学園の大学・短大の入試要項の柱である。僕なら「入ってくれる女性がいたら、誰でも入れてさしあげます。授業料さえ収めてくだされば、いつでもどうぞ!」と書くところだ。これは今朝の朝日新聞の2面ぶち抜きで掲載されたいくつかの女子大学の宣伝シンポジウムの中にあって、特にかつて僕が関係していた女子学園のなりふり構わぬ募集要項が目に飛び込んできたという訳だ。いくつかの女子大の入試募集の中でも上記のような分かりやすい「誰でも入試」の掲載はない。ドラえもんの「どこでもドア」もかなわないくらいのものだ。焦りが募集要項から滲み出て来るようだ。
2面ぶち抜きのテーマは「女性が日本の未来を切り開く」というもので、何人かの教授たちがご自分の意見を述べる形式になっているが、目を皿のようにして読んでも女子大学の存在理由が見えて来ない。そりゃあそうだろう。女子学園というのは、女性の地位がまだ社会的に低く、女性に教育をつけさせるという考え方からはじまった女子の学舎の意味だ。またそこには古めかしい女性に対する躾け教育の観念も含まれていただろう。しかし、現代という時代に、女子教育を特化させる意味をどこをどう探しても見つかるはずがないではないか。要するに時代に取り残されたかつての女子の学舎が絶滅の危機に瀕して叫び声を上げているだけのことだろう。どこまで行っても経営に出遅れた経営者の論理でしかない。こんなシンポジウムに駆り出されている教授たちも気の毒なものである。あるいは馬鹿かのどちらかだ。「未来を切り開く人材」を育成するために女子だけを隔離しておく理屈は絶対にあり得ない。出席の教授たちの発言が全てを物語っている。彼らの主張のどこにも女子だけを隔離して、より良い教育が可能になる必然性を語り得ている人はいない。そんな必然性などもともとないからである。屁理屈にもなっていない。女子大に限らずどこの男女共学制の私立大学も少子化の影響下で、学生を確保するのに躍起になっていることだろう。それは分かる。が、このような環境下において女子教育の意義を語るのはもう居直りでしかない。素直に私たちは出遅れた学校だが、それでも一生懸命だから、どうか女子大が生き残るために誰でもいいから入ってね! と訴える方がどれほど素直で分かりやすいことだろう。
学歴社会の意義すら失われた時代なのである。究極の男女差別の合理化政策である「男女雇用機会均等法案」に反対した女子大学があっただろうか? 女性の総合職が誕生するという、名だけの更なる社会に於ける差別化を女子教育に携わる人々の一体何人が見抜けたのだろう? 女子学園の経営者のみなさん、女子教育に携わる教育者のみなさん、あなた方は時流に乗り遅れたのである。ただそれだけである。教育界における「負け組」なのである。たぶん経営者や教授陣が馬鹿なのだろう、前記した女子学園の募集要項の一つ一つが、そのことを分かりやすく解説しているではないか。正直過ぎるほど馬鹿なのが分からないのが、本物の馬鹿である証左である。見苦しい。
○推薦図書「アンクルトムズ・ケビンの幽霊」 池永 陽著。角川書店刊。今日のブログの内容は見苦しい限りですが、もう出遅れたという悔恨の情を見事に描き切った小説世界で楽しみ直しましょう。体がちぎれるほどに疼く恋情と悔恨。それを取り戻しに行く男の切ない物語です。
2. 専願制ではありません。評定平均値による出願の条件も特にありません。
3. すべての方式を受験出来ます。同一学年・専攻の連続受験や、方式ごとに異なる学科・専攻を受験することも可能です。
4. 同じ方式で、大学と短大の同系列の学科・専攻に同時出願できます。
5. 全国10会場で受験できます。
これが今日の朝日新聞に載っていた僕がかつて勤めていたかの女子学園の大学・短大の入試要項の柱である。僕なら「入ってくれる女性がいたら、誰でも入れてさしあげます。授業料さえ収めてくだされば、いつでもどうぞ!」と書くところだ。これは今朝の朝日新聞の2面ぶち抜きで掲載されたいくつかの女子大学の宣伝シンポジウムの中にあって、特にかつて僕が関係していた女子学園のなりふり構わぬ募集要項が目に飛び込んできたという訳だ。いくつかの女子大の入試募集の中でも上記のような分かりやすい「誰でも入試」の掲載はない。ドラえもんの「どこでもドア」もかなわないくらいのものだ。焦りが募集要項から滲み出て来るようだ。
2面ぶち抜きのテーマは「女性が日本の未来を切り開く」というもので、何人かの教授たちがご自分の意見を述べる形式になっているが、目を皿のようにして読んでも女子大学の存在理由が見えて来ない。そりゃあそうだろう。女子学園というのは、女性の地位がまだ社会的に低く、女性に教育をつけさせるという考え方からはじまった女子の学舎の意味だ。またそこには古めかしい女性に対する躾け教育の観念も含まれていただろう。しかし、現代という時代に、女子教育を特化させる意味をどこをどう探しても見つかるはずがないではないか。要するに時代に取り残されたかつての女子の学舎が絶滅の危機に瀕して叫び声を上げているだけのことだろう。どこまで行っても経営に出遅れた経営者の論理でしかない。こんなシンポジウムに駆り出されている教授たちも気の毒なものである。あるいは馬鹿かのどちらかだ。「未来を切り開く人材」を育成するために女子だけを隔離しておく理屈は絶対にあり得ない。出席の教授たちの発言が全てを物語っている。彼らの主張のどこにも女子だけを隔離して、より良い教育が可能になる必然性を語り得ている人はいない。そんな必然性などもともとないからである。屁理屈にもなっていない。女子大に限らずどこの男女共学制の私立大学も少子化の影響下で、学生を確保するのに躍起になっていることだろう。それは分かる。が、このような環境下において女子教育の意義を語るのはもう居直りでしかない。素直に私たちは出遅れた学校だが、それでも一生懸命だから、どうか女子大が生き残るために誰でもいいから入ってね! と訴える方がどれほど素直で分かりやすいことだろう。
学歴社会の意義すら失われた時代なのである。究極の男女差別の合理化政策である「男女雇用機会均等法案」に反対した女子大学があっただろうか? 女性の総合職が誕生するという、名だけの更なる社会に於ける差別化を女子教育に携わる人々の一体何人が見抜けたのだろう? 女子学園の経営者のみなさん、女子教育に携わる教育者のみなさん、あなた方は時流に乗り遅れたのである。ただそれだけである。教育界における「負け組」なのである。たぶん経営者や教授陣が馬鹿なのだろう、前記した女子学園の募集要項の一つ一つが、そのことを分かりやすく解説しているではないか。正直過ぎるほど馬鹿なのが分からないのが、本物の馬鹿である証左である。見苦しい。
○推薦図書「アンクルトムズ・ケビンの幽霊」 池永 陽著。角川書店刊。今日のブログの内容は見苦しい限りですが、もう出遅れたという悔恨の情を見事に描き切った小説世界で楽しみ直しましょう。体がちぎれるほどに疼く恋情と悔恨。それを取り戻しに行く男の切ない物語です。