ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

アラン・ドロン再考

2007-10-08 23:20:40 | Weblog
いま「SMAP×SMAP」という番組を観るともなしに観ていたら、何と唐突に72歳のアラン・ドロンがゲストとして目の前に現れた。微妙な色合いの紺色のスーツをラフに着こなし、スーツの下には萌えるような赤っぽいピンク色のポロシャツを、これも厭味なく、スーツの下にのぞかせている。アロン・ドロンはもう映画俳優から引退し、引退するずっと前から実業家であり、服飾の世界でもアラン・ドロンブランドを持っていたはずだから、きっと目が飛び出るほどに高価なスーツに決まっているが、それらとて、白髪になった72歳の、いまでも美青年としか言いようのない彼の存在をあくまで引き立たせる役割を静かにこなしている、といった印象か。
彼がこれまで出演し、日本に配給されてことごとくヒットした映画のダイジェストが流れていたが、長く僕の記憶の底に溜まっていたその時々のアラン・ドロンが出演作品が流れる度に鮮明に蘇ってきて、彼の出世作の「太陽がいっぱい」以来、僕はずっとフランス映画と言えば、アラン・ドロンをイメージし続けてきたことをあらためて自覚した。今は舞台で活躍中だと言う。勿論実業家としても成功しているふうだ。所謂「スマスマ」はゲストが注文した料理をスマップが二組に別れて味を競うスタイルだが、これほど能弁に喋り、食べっぷりも決してお行儀がよいとは言えないが、その意図的に(あくまで意図的だ!)くずした食べっぷりは、彼の美的な風貌をさらに際立たせる。
アラン・ドロンの映画のダイジェストを観ていて、僕は一つとして見逃した作品がなかったことに気がついた。僕の青少年の頃外国映画といえば、あくまでフランス映画が主流だったのである。考えてみれば、僕などがなんで学生運動に身を投じつつも、当時小遣いにも事欠いていたのに、わざわざ芦屋まで電車で通いつめ、(神戸界隈ではいまでも語学を勉強する人ならセイドー外国語学院の名を知らない人はいないと思うが)、セイドー外国語学院に高校生の僕が英語ではなくてフランス語を勉強し、フランス文学・哲学の研究者であった丸山圭三郎がNHKのフランス語講座を担当しているような空前のフランス語、フランス文学のブームだったのである。アメリカの粗雑な(僕はあの粗雑さも大好きだが)文化一色に染められたのは、そのずっと後のことである。僕は恵まれていて、フランス語の入門期からフランス・ネイティブのマダムからフランス語を教わったことである。高校でセクトのオルグ用に文案を考えながら受けていた英語の授業などにはまるで興味をそそられなかった。フランス語の、難しいが、物にすると美しい音の連続体としての言
語は、どう考えても下手くそな日本人教師が教える英語とは比べる対象ですらなかった。
学生運動に入れ込み過ぎて、校長の更迭があった。その後にやって来た辣腕家の校長のもとで、運動家の排斥が露骨になった。何人もの仲間たちが学校を去っていくのを、僕自身も出席日数の上では崖っぷちに立ちながらもその光景を見送るしかなかった己れの根性のなさと浅ましさに身を焦がしつつ、大学へは進学しないと決めることだけが僕のおとしまえのつけかただった。そして進路希望調査用紙にはバカロレア(大学入試資格試験)を受験することと、フランス留学、と書いた。そんな経済的見込みなどどこにもなかったので、そう書かせた直接のきっかけはアラン・ドロンだった、と思う。だから僕は無意味にセイドー外国語学院でフランスのマダムからフランス語を習いつづけ、家では丸山圭三郎のNHKのフランス語講座を聞き続けた。何とか両親をだまして、行きだけのフランスへの航空運賃だけをせしめて思い切ってフランスへ行っていれば、と思う。それもアリの当時の僕の心境だったし、いまはすっかり忘れてしまったが、英語はまるで身が入らずダメだったが、フランス語の方は日常会話には不自由しないところまでは到達していたので、飛び出す
べきだった、といまでも悔しさが残る。彼の地で野たれ死んでもよかったはずなのに、僕が辿り着いたのは、何と東京の秋葉原だった。僕の人生そのものが狂い始めた瞬間の出来事である。「フランスへ行きたしと思えど、フランスは遠し」だったのである。あの決断の鈍さが、いまの自分の人生の敗北を招いた。今日のアラン・ドロンはあくまで恰好よく、それを観ている僕はあくまで無様な気がした。長生きしてほしい役者だ。そして死ぬ間際まで女を泣かせてほしい。心からそう願う。
蛇足だが、アラン・ドロンはイタリアの貧しい街の出身である。彼を見出したのは当時フランスでは最も有名なシャンソン歌手だった。彼女は徹底的にアラン・ドロンにフランス語を教え込み、スターダムにのしあげてみせた。たぶんそんな彼女もアラン・ドロンに泣かされた女性の一人だ。男に泣かされて、それを許すことの出来る女性が彼のような一流の男には不思議と集まってくる。何とも羨ましい限りである。

○推薦図書「生命と過剰」 丸山圭三郎著。河出書房新社刊。丸山理論の画期的展開だが、ことばと生命の境界から、意識を無意識の根底を貫いて、「永遠回帰」へと到る思想のラディカリズムとでも評せばよいのでしょうか。この人がNHKのフランス語講座を担当していたなんて何と恵まれた時代だったのだろうか、と思います。