○死ぬまで聞きたくない声
死ぬまで聞きたくない声なんて書くと、とても混乱した言い方になるが、そうとしか表現の仕様がないので、敢えてこういう書き方をした。世の中にマザコンなんていう悲劇も確かにあるし、そんな母子関係に陥ると、その後の息子の人生、自分の母親から受ける愛情の深さと同じ種類の愛情を、年頃になって出会う異性から得ようとしてしまうものだから、たとえ結婚したとしても、その後の結婚生活もままならず、遠からず破綻してしまうというのが、よくある行き過ぎた母子関係における悲劇である。こういう悲劇が起こるのは、たぶん母親の方に非があるのだろう。愛情で支配しようという意思力が無言の圧力になって、子どもはその力に抗えず、あえて母親の支配下に自分の身を無意識のうちに置くことになる。こういう関係性が子どもが一人の大人として成長するまで持続する。こうして、大人になった男の裡に、巨大な母親の幻像が消しがたく居座るようになる。こんなふうだから、結婚しても、妻はたまったものではない。永年に渡って構築されてきた価値観で全ての言動を判断されてしまうのだ。それだけならまだ耐えられる術もあるのかも知れないが、多くのマザコン男性は、自分の妻を力技でねじ伏せようとする。それが言葉の暴力であれ、現実的な暴力であれ、内実は同じことだ。妻には耐えがたい現実が眼前に広がっていることになる。
実に矛盾したことを言うようだが、僕の裡にはマザコン男性に対するある種の憧憬があるのも事実である。母親の愛情の支配下に置かれるというのは、無論その後の自分の人生のかなりの部分を犠牲にする可能性を秘めてはいるのだろうが、同時に母親から受ける愛情に心地良さを感じ続けていることも否定出来ないだろう。あるいはもう少し控えめに考えても、母親の愛情を浴びるほど受けて、ある時期に、母親にとっては酷薄かも知れないが、子どもが自立し、自分の手に負えないところに行き着いてしまうという、恐らくは子どもとしては真っ当な成長の仕方をするにせよ、ある時期多くの子どもは母親の体を張った犠牲的精神とも言える愛を受けた経験が心の底に溜まっているに違いない。だからこそ真っ当に自立し得た人間は、その後の人生においても己れの家庭を構築し、営々と続けていけるのではないだろうか。
告白しておくと、僕には上記のようなまともな自立に至るまでの母親の愛情がどこをどう探してみてもないのである。母性なる愛を実の母親から受けたことがない。だから、僕の自立というのは、無理失理、母性愛というものから突き放された結果としての、子捨てに近い括弧つきの自立である。だからこそ、僕はいつまで経っても大人に成りきれない自分を抱えたままにこの歳まで生きてきたことになる。ある意味、歪曲した人格を持って生き続けてきた人間なのである。居直るつもりでなく、これが正直な自己分析である。僕の耳の底から、自分の母親のヒステリックに叫ぶ声が時折聞こえてくることがある。何気ない生活の中で、唐突に聞こえてくることもあれば、夢の中で母親の叫び声がこだますることもある。耳を覆いたくなるほど、下品な声色だ。父親の胸を包丁で刺し貫いた瞬時も、あの下品な声を発していたのだろうか? 僕はたぶん父親に父性と母性の両方を求めていたのかも知れない。父親に母性を求めること自体が幻想的な要求なのだが、そうでもしなければ僕は世界に立ち向かって行けなかったような気がする。僕の父親に対する評価が甘過ぎるだろうことも十分に分かっている。父親に対する愛の深さは、父親を単に尊敬していたり、好きでたまらなかったりしたからではない。僕は幻像としての母性を父親におっかぶせていたに相違ないからだろう、と思う。
自分の家庭を築いてから息子を二人育てる過程で、何度か母親との関係回復を試みた。が、その度に、何かに彼女は腹を立て、あの下品な声を荒らげて、電話の向こうで怒鳴り散らしたのだった。その後再度一旦は良い関係にもどったが、また何かのきっかけで、母親はぶち切れた。彼女が75歳なった正月に、またあの下品な叫び声を聞かされた。心底母親を憎悪した。僕も初めてぶち切れた。電話に向かって怒鳴っていた。自分の声色が母親のそれに似ているのが、悔しさを増した。それ以降絶縁した。絶縁状も書いた。そう遠くないころに彼女は死ぬだろうが、いや僕の方が案外先なのかも知れないが、お互いに死に顔も見ないと思い合っていることだろう。それが僕における母子関係だ。諦めるしかない。
○推薦図書「スズキさんの休息と遍歴」 矢作俊彦著。新潮文庫。広告会社の副社長のスズキさんが、かつての全共闘同志の仲間から送られた一冊の古本は「ドン・キホーテ」でした。この本がきっかけでスズキさんは20年前への時間旅行へと駆り立てられます。そう、僕も母親にうんざりとさせられていた青年の頃、妙に「ドン・キホーテ」を好んで読みました。すべてが笑いの渦の中に消え去るのです。快感でした。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
死ぬまで聞きたくない声なんて書くと、とても混乱した言い方になるが、そうとしか表現の仕様がないので、敢えてこういう書き方をした。世の中にマザコンなんていう悲劇も確かにあるし、そんな母子関係に陥ると、その後の息子の人生、自分の母親から受ける愛情の深さと同じ種類の愛情を、年頃になって出会う異性から得ようとしてしまうものだから、たとえ結婚したとしても、その後の結婚生活もままならず、遠からず破綻してしまうというのが、よくある行き過ぎた母子関係における悲劇である。こういう悲劇が起こるのは、たぶん母親の方に非があるのだろう。愛情で支配しようという意思力が無言の圧力になって、子どもはその力に抗えず、あえて母親の支配下に自分の身を無意識のうちに置くことになる。こういう関係性が子どもが一人の大人として成長するまで持続する。こうして、大人になった男の裡に、巨大な母親の幻像が消しがたく居座るようになる。こんなふうだから、結婚しても、妻はたまったものではない。永年に渡って構築されてきた価値観で全ての言動を判断されてしまうのだ。それだけならまだ耐えられる術もあるのかも知れないが、多くのマザコン男性は、自分の妻を力技でねじ伏せようとする。それが言葉の暴力であれ、現実的な暴力であれ、内実は同じことだ。妻には耐えがたい現実が眼前に広がっていることになる。
実に矛盾したことを言うようだが、僕の裡にはマザコン男性に対するある種の憧憬があるのも事実である。母親の愛情の支配下に置かれるというのは、無論その後の自分の人生のかなりの部分を犠牲にする可能性を秘めてはいるのだろうが、同時に母親から受ける愛情に心地良さを感じ続けていることも否定出来ないだろう。あるいはもう少し控えめに考えても、母親の愛情を浴びるほど受けて、ある時期に、母親にとっては酷薄かも知れないが、子どもが自立し、自分の手に負えないところに行き着いてしまうという、恐らくは子どもとしては真っ当な成長の仕方をするにせよ、ある時期多くの子どもは母親の体を張った犠牲的精神とも言える愛を受けた経験が心の底に溜まっているに違いない。だからこそ真っ当に自立し得た人間は、その後の人生においても己れの家庭を構築し、営々と続けていけるのではないだろうか。
告白しておくと、僕には上記のようなまともな自立に至るまでの母親の愛情がどこをどう探してみてもないのである。母性なる愛を実の母親から受けたことがない。だから、僕の自立というのは、無理失理、母性愛というものから突き放された結果としての、子捨てに近い括弧つきの自立である。だからこそ、僕はいつまで経っても大人に成りきれない自分を抱えたままにこの歳まで生きてきたことになる。ある意味、歪曲した人格を持って生き続けてきた人間なのである。居直るつもりでなく、これが正直な自己分析である。僕の耳の底から、自分の母親のヒステリックに叫ぶ声が時折聞こえてくることがある。何気ない生活の中で、唐突に聞こえてくることもあれば、夢の中で母親の叫び声がこだますることもある。耳を覆いたくなるほど、下品な声色だ。父親の胸を包丁で刺し貫いた瞬時も、あの下品な声を発していたのだろうか? 僕はたぶん父親に父性と母性の両方を求めていたのかも知れない。父親に母性を求めること自体が幻想的な要求なのだが、そうでもしなければ僕は世界に立ち向かって行けなかったような気がする。僕の父親に対する評価が甘過ぎるだろうことも十分に分かっている。父親に対する愛の深さは、父親を単に尊敬していたり、好きでたまらなかったりしたからではない。僕は幻像としての母性を父親におっかぶせていたに相違ないからだろう、と思う。
自分の家庭を築いてから息子を二人育てる過程で、何度か母親との関係回復を試みた。が、その度に、何かに彼女は腹を立て、あの下品な声を荒らげて、電話の向こうで怒鳴り散らしたのだった。その後再度一旦は良い関係にもどったが、また何かのきっかけで、母親はぶち切れた。彼女が75歳なった正月に、またあの下品な叫び声を聞かされた。心底母親を憎悪した。僕も初めてぶち切れた。電話に向かって怒鳴っていた。自分の声色が母親のそれに似ているのが、悔しさを増した。それ以降絶縁した。絶縁状も書いた。そう遠くないころに彼女は死ぬだろうが、いや僕の方が案外先なのかも知れないが、お互いに死に顔も見ないと思い合っていることだろう。それが僕における母子関係だ。諦めるしかない。
○推薦図書「スズキさんの休息と遍歴」 矢作俊彦著。新潮文庫。広告会社の副社長のスズキさんが、かつての全共闘同志の仲間から送られた一冊の古本は「ドン・キホーテ」でした。この本がきっかけでスズキさんは20年前への時間旅行へと駆り立てられます。そう、僕も母親にうんざりとさせられていた青年の頃、妙に「ドン・キホーテ」を好んで読みました。すべてが笑いの渦の中に消え去るのです。快感でした。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃