ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

死ぬまで聞きたくない声

2007-10-24 23:30:25 | 観想
○死ぬまで聞きたくない声

死ぬまで聞きたくない声なんて書くと、とても混乱した言い方になるが、そうとしか表現の仕様がないので、敢えてこういう書き方をした。世の中にマザコンなんていう悲劇も確かにあるし、そんな母子関係に陥ると、その後の息子の人生、自分の母親から受ける愛情の深さと同じ種類の愛情を、年頃になって出会う異性から得ようとしてしまうものだから、たとえ結婚したとしても、その後の結婚生活もままならず、遠からず破綻してしまうというのが、よくある行き過ぎた母子関係における悲劇である。こういう悲劇が起こるのは、たぶん母親の方に非があるのだろう。愛情で支配しようという意思力が無言の圧力になって、子どもはその力に抗えず、あえて母親の支配下に自分の身を無意識のうちに置くことになる。こういう関係性が子どもが一人の大人として成長するまで持続する。こうして、大人になった男の裡に、巨大な母親の幻像が消しがたく居座るようになる。こんなふうだから、結婚しても、妻はたまったものではない。永年に渡って構築されてきた価値観で全ての言動を判断されてしまうのだ。それだけならまだ耐えられる術もあるのかも知れないが、多くのマザコン男性は、自分の妻を力技でねじ伏せようとする。それが言葉の暴力であれ、現実的な暴力であれ、内実は同じことだ。妻には耐えがたい現実が眼前に広がっていることになる。

実に矛盾したことを言うようだが、僕の裡にはマザコン男性に対するある種の憧憬があるのも事実である。母親の愛情の支配下に置かれるというのは、無論その後の自分の人生のかなりの部分を犠牲にする可能性を秘めてはいるのだろうが、同時に母親から受ける愛情に心地良さを感じ続けていることも否定出来ないだろう。あるいはもう少し控えめに考えても、母親の愛情を浴びるほど受けて、ある時期に、母親にとっては酷薄かも知れないが、子どもが自立し、自分の手に負えないところに行き着いてしまうという、恐らくは子どもとしては真っ当な成長の仕方をするにせよ、ある時期多くの子どもは母親の体を張った犠牲的精神とも言える愛を受けた経験が心の底に溜まっているに違いない。だからこそ真っ当に自立し得た人間は、その後の人生においても己れの家庭を構築し、営々と続けていけるのではないだろうか。

告白しておくと、僕には上記のようなまともな自立に至るまでの母親の愛情がどこをどう探してみてもないのである。母性なる愛を実の母親から受けたことがない。だから、僕の自立というのは、無理失理、母性愛というものから突き放された結果としての、子捨てに近い括弧つきの自立である。だからこそ、僕はいつまで経っても大人に成りきれない自分を抱えたままにこの歳まで生きてきたことになる。ある意味、歪曲した人格を持って生き続けてきた人間なのである。居直るつもりでなく、これが正直な自己分析である。僕の耳の底から、自分の母親のヒステリックに叫ぶ声が時折聞こえてくることがある。何気ない生活の中で、唐突に聞こえてくることもあれば、夢の中で母親の叫び声がこだますることもある。耳を覆いたくなるほど、下品な声色だ。父親の胸を包丁で刺し貫いた瞬時も、あの下品な声を発していたのだろうか? 僕はたぶん父親に父性と母性の両方を求めていたのかも知れない。父親に母性を求めること自体が幻想的な要求なのだが、そうでもしなければ僕は世界に立ち向かって行けなかったような気がする。僕の父親に対する評価が甘過ぎるだろうことも十分に分かっている。父親に対する愛の深さは、父親を単に尊敬していたり、好きでたまらなかったりしたからではない。僕は幻像としての母性を父親におっかぶせていたに相違ないからだろう、と思う。

自分の家庭を築いてから息子を二人育てる過程で、何度か母親との関係回復を試みた。が、その度に、何かに彼女は腹を立て、あの下品な声を荒らげて、電話の向こうで怒鳴り散らしたのだった。その後再度一旦は良い関係にもどったが、また何かのきっかけで、母親はぶち切れた。彼女が75歳なった正月に、またあの下品な叫び声を聞かされた。心底母親を憎悪した。僕も初めてぶち切れた。電話に向かって怒鳴っていた。自分の声色が母親のそれに似ているのが、悔しさを増した。それ以降絶縁した。絶縁状も書いた。そう遠くないころに彼女は死ぬだろうが、いや僕の方が案外先なのかも知れないが、お互いに死に顔も見ないと思い合っていることだろう。それが僕における母子関係だ。諦めるしかない。

○推薦図書「スズキさんの休息と遍歴」 矢作俊彦著。新潮文庫。広告会社の副社長のスズキさんが、かつての全共闘同志の仲間から送られた一冊の古本は「ドン・キホーテ」でした。この本がきっかけでスズキさんは20年前への時間旅行へと駆り立てられます。そう、僕も母親にうんざりとさせられていた青年の頃、妙に「ドン・キホーテ」を好んで読みました。すべてが笑いの渦の中に消え去るのです。快感でした。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

淡路島一人ブラブラ旅行

2007-10-24 07:36:49 | Weblog
10月21日の日曜日に思い立って、生まれ故郷の淡路島へ出かけることにした。最低限の持物を小さなバックに詰めての出発だった。本は二冊入れた。京都駅からJR(というか、僕にはいまだに国鉄という認識がJRに切り替わらない)の新快速電車に乗って、神戸の三宮で快速電車に乗り換えた。数年前まで三宮から垂水まで快速で行き、そのホームでローカル電車に乗り換えて、舞子まで行っていたのに、いつの間にか、快速電車は舞子で停まるようになっていた。舞子駅につくと、駅にはいまどきのショッピングモールが出来ていて、明石海峡大橋を渡るバスに乗るのに、エスカレーターまでついていた。以前は三階分のねじれ階段をフーフー言って登った。冬でも額から汗が吹き出した。ねじれ階段のせいで目が回った。数年間の変化に驚きつつも、エスカレーターでバスの乗場まで行った。バスはすでに到着していて、乗り込むだけだった。午後5時を過ぎていた。辺りは真っ暗だ。何となく憂鬱な旅の出だしだった。致し方ない。僕は3歳のときに祖父母も含めて、一家全員が没落して淡路島を去った。小学生の頃は親戚を頼って、夏休みは岩屋の海で一日中泳いで遊んだ。その頃の淡路島の岩屋は本州の明石とをむすぶ中型の連絡船で30分の距離だった。明石海峡は潮の流れが激しく、瀬戸内海であるにも関わらず、いつも船は結構揺れた。そういうスリリングな想いをしてやっと到着出来る島が淡路島だったのである。当時岩屋は人で賑わっていた。季節に関わらずに人が多かった、と思う。夏休み、泳ぎ終わった夜、銭湯で日に焼けすぎてヒリヒリする体を熱い湯ぶねの中に無理やり押し込んだ。路地を少し入れば、子ども相手のお好み焼き屋さんがたくさんあった。大型の鉄板を囲むように座り、僕たち子どもは少ないお小遣いで満腹した。
そんな数年が経ち、僕が小学生の6年生から中学を卒業するまでの4年間、父は母方の生業であるサルベージ(大きな宇宙服のような丈夫なゴム製の服を着て、頭には鉄製の顔の部分だけがガラス張りになっている、やたらと重い密閉製の鉄のかぶりを付けて海の潜り、港湾をつくるための海底での石の基礎づくりを生業にする仕事である)を淡路島の公共事業を請け負って懸命に仕事をした。会社組織ではなかったので、父はあくまで親方だった。20人近くの人間を雇って、飯場を造り、母は土方たちの飯の支度をしていた。その4年間僕は母方の祖父母のもとに居て、土曜になると神戸から淡路島まで船で通って来ては、土方でごった返す飯場で寝泊まりした。だから僕の土・日の勉強部屋は淡路島の飯場だった。部屋のあちこちで、酒をかっくらう人がいて、また別のグループは花札に興じていた。安物のレコードプレーヤーからは尾藤イサオのヒット曲が何度も何度も流れていた。
あの頃、父はたぶん、没落した淡路島でもう一度再起を懸けたのだ、と思う。金も入ってきた頃だ。黒塗りのセドリックという国産車を乗り回していた。毎週淡路島に行くたびに、父が請け負っていた港湾の基礎工事の上に石が積み上げられて新たな湾が段々とその姿を現していた。僕は正直、嬉しかった。父は生き生きとしていたからだろう。たぶん僕が3歳の頃、父が24歳の頃に無理失理捨てざるを得なかった故郷に錦を飾りたかったのだ、と思う。父は素朴にそんな感覚を抱いていた、と思う。しかし父はついていなかった。港湾工事の中止命令が役所から何の前触れもなく出た。大手の請け負い業者の下請けの仕事をしていた父は、すべてをこの仕事に懸けていたわけで、呆気なく破産した。父は全てを失った。親子二代に渡る破産の憂き目に遇ったわけだ。言葉にはならなかったが、当時の僕にも、世の不条理という感覚が漠然とだが身に滲みた。父は役所の心変わりのせいで、いまのお金の価値に換算すれば2、3億の借金を抱えたことになる。父が苦労して造りかけた港湾は途中でポツンと切れたように、中途半端な姿を晒したままに放置された。この事件が僕たち一家の経済を破綻させ、父は母を口説き落として母の実家を抵当に入れ、幾ばくかの借金を返済し、それでも到底払い終えることなく、姿を消した。タクシーから降り立った父を見張っていた母が神戸の福原という歓楽街で、自分の全体重をかけて包丁を父の胸目掛けて突き立てたのは、父が再び腐心のままに淡路島を去ってから数年後に起こった出来事だった。
父の破産とこの事件は僕自身の生き方にモロに影響を与えた。僕のこれまでの人生において、何かに抗い、何かを憎み、何かを掴み取ろうとして、やはりそれでも父とは形を変えた僕の人生の失楽の姿は、これまでずっと僕を縛り続けてきたように思う。前置きが長くなったが、今回の淡路一人ブラブラ旅行の意味は、僕自身の過去を抗い難く縛ってきた記憶を淡路の海に投げ捨てるためだった。そうでなければ、あの無様な巨大な明石海峡大橋など渡るものか! あのバカでかい橋のせいで、一体何人の人々が職を失ったことか。かつての海の男たちはいまは一体どうしているのだろう? 何より、岩屋という町はさびれ果ててしまった。みんな対岸の明石や神戸へ職を求めて出て行くのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僅か7、8分で橋を渡り終え、真っ暗な淡路島の海岸沿いにポツンと建っているホテルの前でバスを降り、部屋をとった。窓を開けると広々とした黒い瀬戸内海が観えた。その日は本を数ページを読んだだけで、眠りに落ちた。
次の日の朝、カーテンを開けるとやはりあくまで広い海が広がっていた。捨てるはずの自分の過去が、海からの潮騒に逆に共鳴していた。やはり海は理屈なく素晴らしい、と思うばかりだった。僕はある一点を眺め続けていた。そこには海ばかりで支配された世界だった。本を床に落として、それを拾おうとして何気なく、僕の視線が横にずれた。その瞬時、体が固くなるのを感じた。何十年も前に見慣れた風景が広がっていたからである。廃湾だった。船など一隻も見当たらなかった。茶色に変色した石垣が不自然に途中で、プツリと切れた光景。何十年前の父との再会だった。ここが父が淡路島というちっぽけな島にこだわった、あの場所だった。僕は何時間も、何時間もプッツリと千切れたように海に洗われ続けている石垣を眺めていた。僕自身の過去も確かにそこに在った。淡路島にこだわるつもりはない。しかし、そこには捨て切れぬ過去が実在したままに存在していた。まだ僕は過去に抗い続けるのか? あるいは共鳴することになるのか? 答は出せなかった。いや、出さずにおいた。2泊3日の短い旅は、濃密な過去との遭遇の連続であった。ちなみに、僕の本籍地は兵庫県津名郡淡路町(現在は市になっているらしい)岩屋1606番地である。しかし、そんな場所はこの世界に存在すらしない。3歳のとき、すでに消失した。はるか昔の夢の名残りである。捨てきれずに僕の運転免許証の本籍地は、不在の象徴としての住所のままである。中途半端な自分に苛立ちを覚える。これが本音である。

○推薦図書「家日和」 奥田英朗著。集英社刊。6つの家庭ドラマです。奥田の筆致の冴えが見事です。読みきれませんでした。この本を床に落としたおかげで、僕の過去との邂逅がありました。柴田練三郎賞作品です。残りは明日から読みます。