ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

NOVAという外国語学校がつぶれそうだ、と聞く

2007-10-29 23:53:26 | Weblog
NOVAの問題に入る前に自分のことを少々。語学教師に至るまでの屈折した道のりを簡単に。高校時代に親友と呼べる人間が数人いたが、その中で特に勉強という分野で秀でていた友人が二人いた。彼らとは良き友人でもあり、同時に所謂ライバルだった。全般的な成績で言うと、二人には負けていなかったが、彼らは共に理数系の教科に秀でていて、僕が苦労して解く問題を彼らは難なく解いた。自分の中のコンプレックスはいつも疼いてた。僕が学生運動に足を突っ込んだ後も彼らは変わることなく勉強家で通した。僕が変質していく過程でも彼らは変わりなく僕と付き合ってくれた有り難い友人たちだった。かなりの人間が僕から離れていく渦中で、彼らは僕の学生運動のことなどにはまるで興味がないかのごとく(実際はたぶんかなり彼らなりの気遣いをしてくれていたのだと思う)僕と付き合ってくれた。たぶん僕があの70年代の時代の空気に押し流されないで彼らと一緒に勉強していたら、うまくいけば浪人でもしていれば、京大の哲学科(なぜか僕にはここにしか興味がなかった)に入って、哲学しながらフランス文学に興じていた、将来のまるで見えない大学生として、かなりおもしろい人生を歩んでいたかも知れない。二人は安全に難なく大阪大学の法学部と神戸大学の経済学部へとそれぞれ進んでいった。僕が東京の秋葉原の電気屋の住み込みの小僧になり、人の家の屋根に登ってはテレビのアンテナを取り付けていた頃、彼らは一流大学へきちんと入学していた。このときはさすがにコンプレックスなど微塵も湧かなかった。ただ彼らの辛抱強さとその成功を東京でやさぐれながらも素直に喜んだ。
さてNOVAの問題に入る。僕が英語教師をしてかなり経ってからこの学校は頭角を現してきたと記憶する。教え子の中にもNOVAに通う子どもたちがいて、最初にチケットを購入するのだ、と言う。その値段の高さに驚いた。同時に僕は軽く彼らに嫉妬した。大人が子どもに嫉妬するくらいだから、それなりに恥ずかしい理由がある。前にも書いたが僕が英語をネィティブ並に使いこなせるようになったのは35歳になってからだ。それまでは喋れない英語教師だった。その訳は分かっていた。逆のぼれば僕の中学時代の英語の授業にもどる。何十年も前の英語授業だったから、先生の授業は殆ど日本語であり、たまに発音する英語も日本人英語丸出しで、何の魅力も感じなかった。高校時代も同じようなものだった。ただ僕は英語の成績は良かったと思う。それでもまともにやる気はしなかった。学校教育の英語授業が僕の英語熱に火をつけてはくれなかった。
小学生の頃から父に連れられて洋画(その頃はそう呼んだ)によく連れて行ってもらった。アメリカ物とイギリス物、それにフランス物がほぼ同じくらいの比率で上映されていた時代だ。僕の英語もフランス語も映画を通して耳に入ってきた。映像はその快感に拍車をかけた。中学に入って正直がっかりした。高校に入って受験英語とやらにはさらに絶望した。こんな英語なら縁を切りたかった。学生運動をきっかけに学校英語からとは完全に縁を切った。だから幼い頃に脳髄に染み渡っていたネィティブイングリッシュもネイティブアメリカン(本来イギリス語は英語、アメリカ語は米語と区別すべきだろう。幼い頃の僕の耳にも英語と米語の違いはまるで違う言語の発音のように入ってきたから)にも封印した。だから僕の英語の喋る・聴くという能力はある私立の大学の英文科にもぐり込んで、私立の中学高校に英語教師になっても、本来の僕の語学力は封印されたままだった。それでも仕事にはなったから、当時の英語教育なんてタカが知れている。35歳になって幼い頃の能力を引き出そうと決意したのは、情けない話だが、当時の中曾根首相が海外からどっと若者たちを日本の学校に招き入れるJETプログラムを強行に実行してしまったからだ。自民党の超タカ派の首相が描いたシナリオに乗っかるのは悔しいことこの上なかったが、もう喋れない英語教師では生き残れない、と自分の中で危機感を募らせた。それからの約1年間は時間があれば英語のナチュラルスピードの英語テープを聴き続けた。最初はバラバラにしか聞こえてこなかったが、自分の脳髄の底に溜まった潜在能力が目覚めるのを辛抱強く待った。ある日唐突に英語が繋がって聴こえた。同時にスピーキングの能力もかつての映画の台詞のようにスラスラと口から出てくるようになった。その意味では中曾根には負けなかった、と自負している。喋れない英語教師時代から、幼い頃の映画で聴き覚えた発音だけは自然に口から出てきたから、僕の英語、あるいは米語も喋り分けられるが、ネイティブのそれらに限りなく近い発音だ、と自画自賛できる。別に日本人英語の発音でもコミュニケーションをとる、というレベルであればそれで十分だが、僕の場合は自然にネイティブの発音になってしまっていた。父に感謝すべきだろう。
フランス語は学生運動時代に本格的にやりはじめた。理由は語るのも恥ずかしいが敢えて書くと、フランス文学が単純に好きだったことと、フランス映画を通じてフランスという社会に憧れていたからだ。なぜあれだけお金のない時代に芦屋のセイドー外国語学院に通えたのか忘れてしまった。僕のフランス語との出会いは、英語を捨てた、せいせいした気分もあり、初めからフランスネイティブから教わったことも影響して、進歩は著しかった。東京に出てからもお茶の水にあるアテネ・フランセというフランス語の学校には通い続けていたので、当時は日常会話にはまるで困らなかったし、書き手としてもフランス人の小学生の高学年レベルのことは表現できた。
いまは両言語ともに僕の脳髄の中で眠っている。あるときまったく日本語の通じないある外国語大学のアメリカ人の老教授がカウンセリングに訪れたが、眠ったままの英語力で彼の悩みの正体を発見し、彼も満足げにカウンセリングを終えて帰っていった。たぶんフランス語の方も半年くらい必死になれば、当時の能力は取り戻せるだろう、と思う。人間の脳髄に溜まった泉のような能力が枯れはてることなどない、というのが僕の揺るがぬ思想である。脳髄にある程度の刺激を与えることによって、埋もれた能力は必ず蘇ってくる。幼い頃、映画で鍛えた力はそう易々とは壊死しない。
NOVAは確かにチケット制を採用し、その膨大な資金力で教室をどんどん増やしていった。そこまではよかった、と思う。が、NOVAのワンマン社長が見抜けなかったことがある。これだけ教室を増やせば、ネイティブの数が不足するのは当然だ。休みもロクにとれない状態だった、と聞く。海外の青年たちが、そんな労働条件に耐えられるはずがない。なぜワンマン社長は外国人も日本のサラリーマンのような滅私奉公、それも終身雇用制度がある時代の労働のあり方を前提にしたのだろう? 僕には急速な拡大路線をとった時点から、いまの状態は想像出来たのではないか? と思う。彼には欲に駆られて何も視えなくなっていたのかも知れない。会社更生法の申請をしたと新聞の記事に書いてあった。しかし、肝心の教師が不足している状況、教師たちへの給与も支払えない状況を考えると、どこにも引き取り手はないように思う。NOVAは破産し、姿を消すことになるだろう、と思う。高い授業料の返還を求める裁判があちこちで起こっているようだ。たぶん、これも労多くして得るところは少ないだろう。結果的にはある種の英語熱にうなされた人々の情熱を利用した詐欺行為を起こしたことになる。人の世の無情を感じる。
余談になるが、二人のかつての友人たちはどうしているのだろう? 阪大の法学部を卒業し、その後神戸市の上級職員になった男は、卒業後労務管理をやらされていると言ってブツブツ言っていた。疲れる仕事だ、と。いまごろは部下をたくさん抱える偉いさんになっているだろう。がんばってほしい、と心から望む。神大の経済学部を卒業した男は、東洋信託銀行(いまはもう存在しない)に入行し、部下の女子職員が使いにくいと言って文句と言っていたが、ちゃっかりその一人と早々に結婚し、すぐにイギリスに転勤になった。為替の分野にでも入ったのだろう。その後の度重なる銀行再編で、有利な側で合併していてほしい。そして銀行マンとして最高の地位に昇りつめていてほしい。この二人には世の無情は感じたくはない。あくまで幸せであってほしい、と心底思う。無事でいてほしい。

○推薦図書「「学ぶ」から「使う」外国語へ-慶応義塾藤沢キャンパスの実践」 関口一郎著。集英社新書。いっときこのキャンパスは日吉と三田にある従来の慶応大学とは違って、先鋭的な教育を特化させて有名になりましたが、現在はどうなっているのかは分かりません。この書はある意味において、かなり従来の大学の教育のあり方への反措定のような存在としてのキャンパスの立ち上げでしたので、痛烈な語学教育に対する批判も含まれています。参考にはなります。この分野に興味のある方はどうぞ。