○孤独と孤立について
言わずもがなのことだが、人間は誰一人として同じ生を生きることなど出来はしない。人間の生とはあくまで固有のものであり、同じ様相の生など存在し得ない。だからこそ、孤独という概念が存在すると言って過言ではない。どのような濃密な人間関係があるとしても、一個の人間にとって、どうしても自由になれない負の要素、それが孤独という存在である。孤独の中からこそ、人は深い思索ができ、その結果思想が形成される、というのは本当だが、あくまで結果論である。深く思索して己れの思想を編み出すのは別に孤独の中に浸る必然性など特にない。こういう考え方はあくまで孤独の擁護に過ぎない。人間はどこまで行っても自己正当化する存在だからだ。
孤独とは、控えめに見ても苦く、ささくれだった精神のありようではないか、と僕は思う。孤独の中でしか深遠な思索が出来ないという人は、たぶん孤独の中にも時として光輝く瞬時があるわけで、思索の閃きや、深さが感じられるのは、孤独の中に予期せず訪れる光明のためである。孤独を合理化してはならない。もし孤独という存在を擁護する面があるとすれば、それはあくまで、生の歓喜をより高めるスパイスのようなものとしての捉え方でしかない。生の価値とは、命ある限りどれだけ歓喜の瞬時が多く訪れたか、という尺度で測れるものではないか? と思われる。そして人間が生の歓喜を不可避的に感じられる要素こそ、他者性である。もし孤独の瞬時に光輝く時があるとすれば、それは、孤独という時の流れの中に唐突に他者性、他者の存在やイメージが介入してくる一瞬である。だからこそ孤独を孤立と混同してはならないのである。孤立とは他者が入り込む余地のない精神の煉獄である。膚を突き抜けるような厳しい風が吹きすさんでいるはずだ。孤立とは、他者性を排除している、という点で、どのような意味においても意味ある思想は生まれ出ては来ない。
したがって、孤独を擁護しないという前提で敢えてものを言えば、孤独を愛するという言辞にはある程度の意味があるが、孤立を好むという人間には救いがない。人間社会において、他者を排除して生きていくことなど出来はしないからだ。その意味においては<引きこもり>とは、あくまで孤立の状態である。孤独という精神の生産性が、孤立という生きざまの中から生まれることは絶対にない。<引きこもり>とは他者を遮断する精神の構造である。繰り返しになるが、他者性を否定したところから、新たな価値意識が芽生えることはない。それは人生の浪費である。今日は孤立から立ち上がってゆく過程については述べない。別の機会に書く。
翻って考えるなら、愛という概念は、孤独という精神の底を覗き見た人間にしか抱けない感情である。思想が生み出されるのも他者性という概念があってこその営為である。もっと人間臭のする精神の領域で生じる愛という概念は深い孤独を実感した人間にこそ与えられる、日常性の中の最上位に在る世界観である。愛を甘く見ては大きなしっぺ返しを喰らうことになる。言うまでもないが、孤立感によって惹きつけあう愛に似た感情は、愛そのものではないのは当然だが、ここには愛の裏返った憎悪が生じる可能性の方が高い。突きつめて考えれば、この場合、憎悪とは他者性がないところに働く感情ゆえに、己れを憎む感情と同義語である。愛憎という言葉があるが、正確に言えば、愛とは孤独という精神の深みから生み出されてきた感情であり、憎悪とは他者性を排除した孤立感から生じてきたそれである。したがって憎悪を剥き出しにするタイプの人間は、結局自分のことが憎いのである。
孤独は何かを生み出し、孤立は砂漠のようなざらついた非生産の世界である。生きているかぎり、たとえ孤独という地獄を垣間見なければならないとしても、何かを生み出したいではないか。違いますか?
○推薦図書「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著。角川文庫。危険をおかすことを恐れていては、人生は何も変わりません。この物語は主人公の女性が12年ぶりに再会した幼なじみと伴に、愛を媒介にした生の癒しを体感させてくれる書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
言わずもがなのことだが、人間は誰一人として同じ生を生きることなど出来はしない。人間の生とはあくまで固有のものであり、同じ様相の生など存在し得ない。だからこそ、孤独という概念が存在すると言って過言ではない。どのような濃密な人間関係があるとしても、一個の人間にとって、どうしても自由になれない負の要素、それが孤独という存在である。孤独の中からこそ、人は深い思索ができ、その結果思想が形成される、というのは本当だが、あくまで結果論である。深く思索して己れの思想を編み出すのは別に孤独の中に浸る必然性など特にない。こういう考え方はあくまで孤独の擁護に過ぎない。人間はどこまで行っても自己正当化する存在だからだ。
孤独とは、控えめに見ても苦く、ささくれだった精神のありようではないか、と僕は思う。孤独の中でしか深遠な思索が出来ないという人は、たぶん孤独の中にも時として光輝く瞬時があるわけで、思索の閃きや、深さが感じられるのは、孤独の中に予期せず訪れる光明のためである。孤独を合理化してはならない。もし孤独という存在を擁護する面があるとすれば、それはあくまで、生の歓喜をより高めるスパイスのようなものとしての捉え方でしかない。生の価値とは、命ある限りどれだけ歓喜の瞬時が多く訪れたか、という尺度で測れるものではないか? と思われる。そして人間が生の歓喜を不可避的に感じられる要素こそ、他者性である。もし孤独の瞬時に光輝く時があるとすれば、それは、孤独という時の流れの中に唐突に他者性、他者の存在やイメージが介入してくる一瞬である。だからこそ孤独を孤立と混同してはならないのである。孤立とは他者が入り込む余地のない精神の煉獄である。膚を突き抜けるような厳しい風が吹きすさんでいるはずだ。孤立とは、他者性を排除している、という点で、どのような意味においても意味ある思想は生まれ出ては来ない。
したがって、孤独を擁護しないという前提で敢えてものを言えば、孤独を愛するという言辞にはある程度の意味があるが、孤立を好むという人間には救いがない。人間社会において、他者を排除して生きていくことなど出来はしないからだ。その意味においては<引きこもり>とは、あくまで孤立の状態である。孤独という精神の生産性が、孤立という生きざまの中から生まれることは絶対にない。<引きこもり>とは他者を遮断する精神の構造である。繰り返しになるが、他者性を否定したところから、新たな価値意識が芽生えることはない。それは人生の浪費である。今日は孤立から立ち上がってゆく過程については述べない。別の機会に書く。
翻って考えるなら、愛という概念は、孤独という精神の底を覗き見た人間にしか抱けない感情である。思想が生み出されるのも他者性という概念があってこその営為である。もっと人間臭のする精神の領域で生じる愛という概念は深い孤独を実感した人間にこそ与えられる、日常性の中の最上位に在る世界観である。愛を甘く見ては大きなしっぺ返しを喰らうことになる。言うまでもないが、孤立感によって惹きつけあう愛に似た感情は、愛そのものではないのは当然だが、ここには愛の裏返った憎悪が生じる可能性の方が高い。突きつめて考えれば、この場合、憎悪とは他者性がないところに働く感情ゆえに、己れを憎む感情と同義語である。愛憎という言葉があるが、正確に言えば、愛とは孤独という精神の深みから生み出されてきた感情であり、憎悪とは他者性を排除した孤立感から生じてきたそれである。したがって憎悪を剥き出しにするタイプの人間は、結局自分のことが憎いのである。
孤独は何かを生み出し、孤立は砂漠のようなざらついた非生産の世界である。生きているかぎり、たとえ孤独という地獄を垣間見なければならないとしても、何かを生み出したいではないか。違いますか?
○推薦図書「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著。角川文庫。危険をおかすことを恐れていては、人生は何も変わりません。この物語は主人公の女性が12年ぶりに再会した幼なじみと伴に、愛を媒介にした生の癒しを体感させてくれる書です。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃