ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

あれはいったい、どういう意味だったのだろう?

2007-10-14 23:50:27 | 観想
○あれはいったい、どういう意味だったのだろう?

この頃20代の青年と話をすると、どういうものか無条件に彼らの主張を認めてしまう。知り合った青年が、人生の只なかで悩み、職につけず、宗教に救いを求めている話を聞けば、うん、それもよい、まだまだ若いのだ。今こそ生の真理を追求すればよいではないか! 生活などその後についてくる、と納得してしまう。別の青年が今の仕事に嫌な同僚がおり、職場に行けなくなったと聞けば、そもそもその嫌な中年野郎が悪い、そんな奴のいるところにこだわる必要などないではないか! 別の仕事も考えてみてはどうか、と口にしている。お堅い仕事の試験に二つも受かり、しかしそれを投げ出して、飲食業に身を投じた青年が、30歳までは一つのことにこだわるつもりはない、可能性をいろいろ試したい、と言えば、理由もなく頼もしく思えてくる。そうだ、そのとおりだから、思い切り自分の可能性を試せばいいんだ、と共感してしまう。大学を卒業して、海外の大学に入り直して、それこそ地球規模で働くんだ、という青年には、それこそが若さというものだ、オレにはそんな真似はできもしなかった。うらやましい限りだ。君の可能性は無限だ、と率直に思う。一流大学に入ってからなぜか大学の講義に出られない青年がいて、その理由を聞くと、自分にはなかった純粋な考え方をしていて、その場で身動きがとれなくなっている。それはそれでいいのではないか? 必ず君の疑問の答が胸に落ちる瞬間がある。それまで悩むだけ悩めばいいではないか。それが考える能力をもった人間の強さに繋がるんだから、と心底思う。

もう取り返しのつかない年齢になって、可能性という言葉が最も似合わなくなった自分から見ると、青年たちの悩みはそれぞれ重いが、それでも一生懸命だ、と感心させられてしまう。そしてその姿が美しくもある。自分が青年の頃、彼らのように純粋に悩みはしなかった。生活が成り立たなかった大学時代を何とか生き延びて、ただただ食えればそれでいいとよく考えもせず、教師という生業についた。結局失敗した。いろいろ理屈をつけてはいるが、結局は、青年の頃にもっと悩み、その果てに行き着いた結論であれば、たぶん私学の教師にはならなかっただろう、といまにして思う。宗教などにあれほど抗う自分の姿が想像できなかった。しかしよく考えて見れば、自分が筋金入りの無神論者でアナーキストである、という根底にある思想性を、食うために一旦ドブに捨てた。ドブに捨てたものだって、筋金が入っていれば、腐りはしない。いつかは泥の底からであっても太陽の光を受けて反射光を放つときが来る。僕の人生の失敗は、己れの思想の本質を裏切ったことだ。人生の失敗は当然の結果だ、と思う。だからこそ青年の苦悩を僕は決してオトナという視点で軽く見たり、割り切らせたりは絶対にしない。青年の頃の苦悩は、そのままに生の養分になる。これは間違いなく後年光輝くものだ。だから苦悩に妙な妥協などするものではない。中途半端に割り切ると手痛いワリを食らう。自分の人生で証明済みなのだ。青年よ、苦悩せよ!納得できない道に迷い込むな!

繰り返しになるが、自分の人生は失敗作だった、と認める。たぶん教師時代の僕であれば、苦悩に身を浸している青年諸氏に対して一々反論し、説得し、論破することだけを考えたことだろう。想えば、僕はそんな厭味な中年だった。人生の真っ盛りに青年の頃に自分の本質を誤魔化した化けの皮が少しずつ剥がれてきた。醜悪な中年だった、と思う。一方で自分の生活を合理化しようとし、その一方で合理化しようとする自分に腹を立てていた。矛盾だらけの中年男がそれなりの理屈を捏ねだしたら、それはそれでなにほどかの力がある。たぶん僕は捏造した生活理論を自分の二人の息子たちに無言の圧力で、押しつけてきたのだろう。説得も説教もした覚えはないが、自分が発する無言の弾圧の空気を二人の息子は敏感に感じとっていたはずである。苦悩する青年たちの向こうに自分の息子たちの姿が視えるような気がする。僕は息子たちの年齢の頃、やはり両親は離婚していたが、父には会っていた。無理なことを言う父だったが、無責任さから来るものなのか、敢えてそうしていたのか分からぬが、ともかく威圧感というものを感じさせない男だった。父と交わす少ない言葉、汲み交わす酒、火をつけあう煙草、お互いの体から吐き出される煙草の煙が空気中で交差する。父から得ていたものは、絶対的な安心感だった、と思う。離婚して二人の息子たちはそれぞれに成人しているはずだ。彼らは、僕がかつて経験したような安堵感を父親に感じることなく、息せき切って生きているような気がする。自分の無能さをつくづく感じる。連絡をとろうとすれば出来るはずなのだ。しかし彼らは僕を見限った。順当な結果だ、と猛省する。

もう家庭崩壊寸前のときに当時高校3年生だった下の息子が、「親父が70歳くらいになったら、そのときはきちんと話をつけに行くからな!」と言った。何の脈絡もなく。あの言葉はいったい何を意味しているのだろうか? 自分が70歳まで生きているとは到底思えない。息子の話は聞けないまま僕はこの世界から消えていくことになるのだろうか? どんな話をつけに来るのか聞いてみたい、と心底思う。父親として。いや、ひとりの死にゆく老人として。

○推薦図書「君たちに明日はない」 垣根涼介著 新潮社刊。リストラ請負人としての主人公の青年とリストラされていく人間たちの哀しくも切ない物語ですが、垣根の持味はやはり人に対する優しい視点です。僕の二人の息子たちもこんな厳しい世の中に生きているのでしょう。生き抜いてほしい、とこの書を読みながら願うばかりでした。

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長野安晃

書ききれなかった告白を一つ

2007-10-13 22:50:16 | 観想
○書ききれなかった告白を一つ

間違いの多い人間である。だからと言って何かに懺悔してすっきりと生き直すなどという虫のよい話もないだろう。真正面から受け止めるしかない。できるだけ自分を許そうとして命を永らえてきたように思う。とは言え、いまだに一つだけ自分を絶対に許せないことがある。これまで何度かそのことを書こうと思いながら、同じエピソードを角度を変えて書き続けてはきた。しかし、一度だけ目立たないように書いたが、書いた内容が、本質的にそれがどのような意味をもつことになるのか? については、触れることはなかった。今日はそのことについて書くことにする。懺悔の意味でなく、自分という人間の卑劣さを再認識するためだ。

神戸の福原という歓楽街で父がタクシーを降り立ったところへ、母がそれを事前に探偵社に調べさせて待ち伏せをし、父に向かって一直線に自分の全体重をかけてぶつかっていった。両の手には包丁が握りしめられていた。狙いは胸だ。スジ者のやくざが、抗争相手の鉄砲玉のチンピラに命を狙われて襲われる場面とそっくりそのままである。鉄砲玉のチンピラも同じように胸を狙うだろう。殺意がある人間なら誰だってそうする。父は刺された胸を押さえ、その場にうずくまった。警察が母を連行し、父は救急車で救急病院へ搬送された。殆どやくざ映画さながらの光景だった、と思う。

その頃、やっと大学に入り、学生運動の影を追い払おうとしていた矢先の出来事だった。父の搬送された病院に急いだ。夜の電車の窓に映る自分の姿が老人のように見えた。父はベッドを大きなビニールに囲われて、肺を刺し貫かれてウンウン唸っていた。医者はちょうど肺に溜まった血を脇の少し下の辺りに穴を空け、そこにスチール製のパイプ、いやビニール製だったかも知れないが、そのときの僕の記憶にあるのは父が、スチール製のパイプを穿たれた穴に差し込まれて、肺に溜まった血を抜かれている最中の光景だった。あれは治療というより拷問に見えた。父の苦痛がますます増大しているのが手にとるように分かった。見ているしかなかった。

夜が明け、昼近くになると警察がやってきた。何人いたか覚えていない。僕の記憶にはドカドカという警察官の足音しか残っていない。たぶん2、3人は来たのだろう。それが何を意味するのか、僕には分かっていた。母は殺人未遂者である。たとえ夫婦の問題であれ、訴えがあれば殺人未遂者として裁かれる。執行猶予はつかないだろうと直観した。僕は父の耳元に行き、様子を伺う振りをして、父に訴えるな! と小さくても強い調子で囁いた。父は二度頷いた。その足で警察の留置所へ母を引き取りに行った。これが僕の大いなる自己欺瞞であり、母に罪の大きさを悟らせなくさせた元凶である。結局、僕は自分のことしか考えていなかった。殺人未遂で実刑を食らった母を持つということの重さ。そのことによる自分の未来に対する暗雲たる想像図。就職もままならず、世界に毒づいている自分の姿。それらが次々に僕の頭の中を駆けめぐった。父に訴える気持ちがなくても、訴えさせるべきだった、といまはつくづく反省している。当時父は母の実家を抵当に入れて、多額の借金の穴埋めをして、家を出た。母にとって憎い対象であったのは容易に想像できる。だが、事件後の母は何事もなかったように振る舞った。母にしてみれば、父は当然の報いを受けた、という心情だった、と思う。自分の犯した罪の大きさは、するりと母の頭の中から滑り出てしまっていた。

この事件が契機で結局両親は離婚するが、父とは音信を絶やしたことはなかった。自分が犯した罪の大きさを自覚出来ない母を憎悪した。母とは音信を絶った。それでも何度か母にはこちらから連絡をし、関係の修復をはかったが、母から漏れ出る言葉は、あくまで父憎し、であった。父が母に与えた傷の大きさは分かる。しかし、だからと言って、やくざまがいの殺人未遂が相殺されるわけではない。その罪の重さを母に分かってほしくて、何度となく音信が途絶えながらも、僕は無駄と知りつつも関係の修復をこちらからしたのだろう、と思う。いや、正確には、自分の父に対する言葉の重さと己れのエゴイズムとを、母に罪の意味を悟らせることによって帳消しにしたかったのだろう。どこまで行っても卑劣な人間だ、と僕は自分のことを嫌悪しつつ、馬鹿な母をそれ以上に憎悪した。

父はこの傷が引き金になって、肺結核を患い、投薬で治すが、常に咳が止まらず、苦しげに58歳でこの世を去った。死因は肝臓癌だったが、遠因を探ればどうしても母の狂気の行為に行き着いてしまう。何度目かの衝突の末、何年か前のの正月、僕は母と縁を切った。母からも連絡はない。互いの葬式にも出ないだろう。父には懺悔したい気持ちが残り、母には、自分の犯した罪の大きさの意味を悟らせることなく、家族は解体した。僕に大いなる責任がある。あのときの父の耳元で囁いた言葉がなかったら、少なくとも母は罪人にはなっただろうが、まともな老人にはなっていただろう、と思う。

僕は自分の罪を背負いながら、生きていくしかない。これがこれまで書けなかった僕の告白である。

○推薦図書「リレキショ」 中村 航著。河出文庫。この物語には不思議な世界が広がっています。他人としての人間どうしが、軽いきっかけで心が繋がっていく様が何となくホッとさせてくれるのです。人間ってこんなふうにも生きていけるのか? という安心感を読者に与えてくれます。人間関係に疲れたときにでもどうぞ。

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長野安晃

奥田英朗の「サウスバウンド」が映画化されるというが・・・

2007-10-12 20:35:34 | Weblog
「サウスバウンド」という奥田英朗の作品に刺激されて僕は「父と子(1)~(5)」というブログを書いた。奥田の作品の中から滲み出てくる元過激派の実力派で、過激派セクトにも収まり切れなかった、孤高の男、それが主人公の子どもである少年の視点からこの物語は語られる。僕の親父には思想のかけらもなかったわけで、奥田の描いた父親像とはまるで比較にもならないのだが、何故か奥田の描く父親には底知れぬ優しさと包容力が感じられ、また僕自身が元過激派の軟弱な運動家であった過去の体験とが意味のないむすびつきをして、僕に「父と子」を5回に渡って書かせたのだろう、と思う。いずれにせよ「サウスバウンド」という作品を読んで僕は間違いなく精神が高揚するのを感じたのであって、奥田の筆力を認めないわけにはいかない。
「サウスバウンド」に登場する元過激派の父親は、同じ運動仲間だった女性と結婚し、東京の中野というごくありふれた街で、家の中で一日中ごろごろして過ごしている。家計はもっぱら妻の経営する喫茶店からの収入に頼っている。だからと言ってこの男は卑屈になることもなく、自分の人並みでない腕力をもて余しつつも、語り手の息子に対して堂々として自分の考えを臆すことなく語る。生きかたにおいても豪腕なのだ。たぶんその底にはこの父親の裡には政治運動では表現出来なかったほどのエネルギーが、当の政治運動の世界から身を引いた時点からもいっときもその炎(ほむら)を絶やすことなく、燃えたぎっていたからだろう。一言で言えば、奥田はこの作品の父親像を通して、現代における自由というものの可能性が表現できるとしたら、どうなるだろうか? という創作的実験をやってのけたのではないか? と思われる。ストーリーはお読みになれば分かるので省略するが、たぶん奥田の試みについての僕の推察は当たっている、と思う。現代における人間に実現可能な自由の表現としての生活はどのようなものだろうか、という問題が奥田にしてはかなりの長編作品として完結している。自由、自由、自由、これを追求して止まない一人の男。そしてこの世界で彼なりになし遂げてしまう男としての豪放磊落な人間、それが奥田の、たぶん心の底に眠っている自由の概念性ではないか、と僕は思う。
ところで「サウスバウンド」が映画化されるという。父親役を演じる主演男優は豊川悦司が抜擢されたらしい。それにしても恐るべきミスキャストではないか! 豊川には影がありすぎるし、この役柄をこなすには繊細過ぎる。元過激派として登場すれば、豊川ならば、陰惨な拷問のイメージが付きまとうし、警察に拘留されて黙秘するにも悲壮感が漂い過ぎるイメージがある。やはり豊川のファンには申し訳ないが、この人は渡辺淳一の映画の中で生きてくる個性だろう。「サウスバウンド」は映画化されて成功するとは思えない。主演を演じる男優がいないからである。敢えて言えば古谷一行か渡瀬恒彦くらいか。ふたりともに元過激派というよりも警察官の役柄の方が似合ってはいるが、少なくとも、自由を求めて抗うくらいの精神の強靱さくらいは映画の中で漂わせてくれそうな気がする。とは言え、まず映画化は失敗作に終わるだろう。豊川悦司ではこの父親は演じきれないし、原作とはかけ離れた作品になってしまうだろう。やはり原作を読まれた方がよい、と僕は思う。僕は分厚過ぎる単行本で読んだが、つい先頃文庫本が上下刊で出版されたので、ねっ転がって読むには単行本よりは肩も凝らないのでこちらがお勧めだ。本が売れれば何でも映画化、という風潮はある意味映画界の怠慢だ、と思うが、みなさんはどう思われるだろう?

○推薦図書「サウスバウンド」(上)(下) 奥田英朗著。角川文庫。以前紹介しましたが、文庫化されたということで再度の推薦をします。楽しんでください。

感傷という装置

2007-10-11 23:29:49 | 観想
○感傷という装置

感傷というと満たされない現在に窮して、かつてはある程度の喜びに恵まれた過去という存在をことさら美化し、現実を忘却の彼方へと押しやる、負のイメージを想起することが多いと思う。勿論こういう考え方を言下に否定するつもりは毛頭ない。何故ならそれは、かなり精度の高い定義ではあるからだ。特に人生の昇り坂にいるような人々にとっては、未来だけを見据えているのであって、過去へのいざないの装置である感傷という概念こそが、未来への加速には不必要な負荷をかけてしまう邪魔ものにしか感じられないのであろう。それはそれでよい、と思う。

ただ、僕くらいの、人生の折り返し点をとっくに越えてしまった人間にとっては、そろそろ過去を見返す時期に来ているのではないか、と思う。そして、そのための心の装置の一つとして在るのが、感傷という思念である。さて、その感傷という心の装置に身を任せてみると、いろいろなことが分かってくる。自分の過去の姿が鮮明に蘇る。自己の過去を美化するでもなく、無闇に切り捨てるでもない過去への身の落とし方、これが僕の云う感傷という装置の意味である。

さて自分の過去を具体的に振り返ってみよう、と思う。小・中・高・大までの生きざまは、ジタバタもあったがまずまずだ。たぶん人によっては、僕と同じような生きざまに晒されたら、ポキリと折れてしまう人もいるだろう、とは思う。だがいまさら、それをどうこう言うつもりはない。ただ苦しくはあった、と総括しておこう。

僕がこだわっているのは、苦悩の只なかにあった自分の生にではなく、むしろ、やっとまともに仕事にもつき、それほど恥ずかしくはない社会的生活を送った教師としての23年間であり、そしてその生活に伴う結婚生活の21年間の顛末についてである。まず教師という仕事についてはどうだったのか? 僕にはたくさんの教え子がおり、素朴にも僕は時折はその教え子たちの心の中に過ぎ去った過去の欠かし得ない人物の一人として登場するもの、といういかにも素朴な感慨を抱いていたのである。そして同僚たちのことだ。確かに切れ切れではあっても仕事を通じて心が繋がり合った、という実感を持っていたのである。結婚生活の21年間もそれほど家庭を無視した覚えはない。むしろ子どもには手をかけた父親だったと思う。ただ、少し昔風の父親像として子どもたちには接してきたのかも知れない。とは言え家庭の運営をかつての妻に任せきりにした覚えはない。今のように紙おむつが普通に使われる時代ではなかった。サラシの生地のおむつを洗うのが僕の仕事の一つだった。哺乳瓶を煮沸消毒するのも同じように僕の仕事であった。そして子どもたちを風呂に入れることも。子どもの具合が悪い時、まだ授乳期にある息子たちのウンチをなめたことも何度もある。色と味で子どもの健康が分かるのだ。そういう父親だった。

僕の宗教的妨害による坊主たちの積年の恨みで仕事がダメになり、教師生活にピリオドを打つことになった。教師には失業手当ての制度がない。辞めたその月から給与が止まり、失業手当てもなく、47歳にして僕はやはりジタバタしていた。妻の態度が豹変した。稼ぎのない夫に早くも愛想が尽きたのだ。彼女は、僕の退職金や貯蓄や不動産を売って、いかに現ナマを多く取るか、日々奔走していた。残り少なくなった現金で急いで車の免許を取った。いまだ、金のあるうちにやってしまえ、という訳だ。彼女の頭にあったのは離婚し、その後の生活に困らないこと、それ一点に目標が絞られたようだった。そういう姿を見て自分の結婚生活は完全な失敗だった、と悟った。人を見る目がなかったのだ。全てが自分の責任だ、と思った。

教師生活はなにがしかの手応えがあった、と思っていた。素朴にも。何人かの同僚と、何人かの教え子の将来を見てみたい、という欲求は強かった。これはメールでやりとりして、それほど見込みのない自分の未来への力にするつもりでいた。ある瞬間からどちらの側からもメールがピタっと来なくなった。中には縁切りを露骨に伝えてきたかつての仲間もいたし、完全に無視された人たちもいた。かつての生徒たちも僕から積極的にメールをする勇気を奪い去るような無視の仕方だった。自分の教師生活の全容を俯瞰した想いがした。自分の教師としての評価もかなり低いところで定まった。これこそが自分の実力なのだ、と思い知らされた。感傷という心の装置が、深く傷ついた自分を何とか慰めてくれた。虚しいが、当時の僕には必要なことだった。それなしにこれからの自分の残された人生の青写真は描けなかった。いま何とか生きていられるのはごく少数の人たちが、僕を見捨てずにいてくれるからである。自分の人生の最も光り輝く時代、人生の只なかで油が乗り切っている時代を僕は無駄に過ごした。大いなる後悔である。とはいえ、失敗の中にも、忘れがたい思い出もある。感傷という装置が多分間違いなく輝かしかったその時々に僕を誘ってくれる。決して自分を甘やかすつもりはない。感傷という心の装置によって生きる勇気を取り出しているのである。感傷の中に身を浸しているわけではない。あくまで、生を、残り少なくなった生を燃焼させるための生きる技術のようなものである。切ないが何とか生きていこう、といまは思っている。

○推薦図書「水の恋」 池永 陽著。角川文庫。生の切なさを描かせたらこの人を抜かす訳にはいかないほどに僕は池永の良き読み手です。この書は人生のさまざまな鬱屈の先にあるたしかな希望と、その再生の物語です。恋愛小説としても一級品です。

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長野安晃

ここまで来たか、と思う

2007-10-10 23:51:43 | Weblog
1. 書類選考と適正検査によって合否を判定する自己推薦入試です。(高等学校の推薦書は必要ありません)
2. 専願制ではありません。評定平均値による出願の条件も特にありません。
3. すべての方式を受験出来ます。同一学年・専攻の連続受験や、方式ごとに異なる学科・専攻を受験することも可能です。
4. 同じ方式で、大学と短大の同系列の学科・専攻に同時出願できます。
5. 全国10会場で受験できます。

これが今日の朝日新聞に載っていた僕がかつて勤めていたかの女子学園の大学・短大の入試要項の柱である。僕なら「入ってくれる女性がいたら、誰でも入れてさしあげます。授業料さえ収めてくだされば、いつでもどうぞ!」と書くところだ。これは今朝の朝日新聞の2面ぶち抜きで掲載されたいくつかの女子大学の宣伝シンポジウムの中にあって、特にかつて僕が関係していた女子学園のなりふり構わぬ募集要項が目に飛び込んできたという訳だ。いくつかの女子大の入試募集の中でも上記のような分かりやすい「誰でも入試」の掲載はない。ドラえもんの「どこでもドア」もかなわないくらいのものだ。焦りが募集要項から滲み出て来るようだ。
2面ぶち抜きのテーマは「女性が日本の未来を切り開く」というもので、何人かの教授たちがご自分の意見を述べる形式になっているが、目を皿のようにして読んでも女子大学の存在理由が見えて来ない。そりゃあそうだろう。女子学園というのは、女性の地位がまだ社会的に低く、女性に教育をつけさせるという考え方からはじまった女子の学舎の意味だ。またそこには古めかしい女性に対する躾け教育の観念も含まれていただろう。しかし、現代という時代に、女子教育を特化させる意味をどこをどう探しても見つかるはずがないではないか。要するに時代に取り残されたかつての女子の学舎が絶滅の危機に瀕して叫び声を上げているだけのことだろう。どこまで行っても経営に出遅れた経営者の論理でしかない。こんなシンポジウムに駆り出されている教授たちも気の毒なものである。あるいは馬鹿かのどちらかだ。「未来を切り開く人材」を育成するために女子だけを隔離しておく理屈は絶対にあり得ない。出席の教授たちの発言が全てを物語っている。彼らの主張のどこにも女子だけを隔離して、より良い教育が可能になる必然性を語り得ている人はいない。そんな必然性などもともとないからである。屁理屈にもなっていない。女子大に限らずどこの男女共学制の私立大学も少子化の影響下で、学生を確保するのに躍起になっていることだろう。それは分かる。が、このような環境下において女子教育の意義を語るのはもう居直りでしかない。素直に私たちは出遅れた学校だが、それでも一生懸命だから、どうか女子大が生き残るために誰でもいいから入ってね! と訴える方がどれほど素直で分かりやすいことだろう。
学歴社会の意義すら失われた時代なのである。究極の男女差別の合理化政策である「男女雇用機会均等法案」に反対した女子大学があっただろうか? 女性の総合職が誕生するという、名だけの更なる社会に於ける差別化を女子教育に携わる人々の一体何人が見抜けたのだろう? 女子学園の経営者のみなさん、女子教育に携わる教育者のみなさん、あなた方は時流に乗り遅れたのである。ただそれだけである。教育界における「負け組」なのである。たぶん経営者や教授陣が馬鹿なのだろう、前記した女子学園の募集要項の一つ一つが、そのことを分かりやすく解説しているではないか。正直過ぎるほど馬鹿なのが分からないのが、本物の馬鹿である証左である。見苦しい。

○推薦図書「アンクルトムズ・ケビンの幽霊」 池永 陽著。角川書店刊。今日のブログの内容は見苦しい限りですが、もう出遅れたという悔恨の情を見事に描き切った小説世界で楽しみ直しましょう。体がちぎれるほどに疼く恋情と悔恨。それを取り戻しに行く男の切ない物語です。

僕たちの多くは時代に取り残されよう、としている !

2007-10-09 23:35:58 | 政治経済・社会
○僕たちの多くは時代に取り残されよう、としている !

かなり前の新聞記事の内容を思い出した。それは確か以下のようなものだった。衝撃的というか、予測どおりというか、そんなアンケート結果が発表されていた。北大の準教授らによる学校の健康診断における精神状態の診断結果(うつ病)が、中学1年生ではパーセンテージにして約4.1%に達しており、大人の有病率が5%であるのと比べても、現代の中学生における精神疾患の発病率は大人とほぼ同じなのだ、と言う。嫌な予感が当たったという想いである。いずれにせよ大人にも青少年にとっても、一歩間違えば危ない世の中であることには違いない。

原因が分からないで、何故なのか? と苦悶しているのならまだそれだけ世の中がまっとうだ、ということである。しかし、もうこのような結果が出るのは現実の社会のシステムが証明している。なるべくしてなった結果がこれである。さらに言うとこの棲みにくい社会システムはどんどんと悪い方向へ向かおうとしている。21世紀という時代は、間違ったら立ち止まって後戻りする、という発想がまるでない。後戻りは時代の逆行だ、という泥沼の進歩?主義に犯されている。それも深く。まるでベトナムのジャングルで、あるいはアジアの密林の泥沼の中で、戦わずして疫病によって次々に倒れて朽ちていく、アメリカ兵や旧日本兵の姿に現代に生きる人々は似ていなくもない。

何度も書くが終身雇用制度という安全弁が脆くも外れた。会社は生涯懸けて働く場所ではなくなった。雇用されている側はいつもリストラや倒産の危険性と隣り合わせである。かと言って会社を渡り歩けば必ずキャリア・ダウンするのが日本という現状だ。安心して働ける足場がもうないのである。残業はあたりまえ。残業手当てが出ないという無慈悲で過酷な現実。消費税も上がる。勿論どのような世の中にも一部の所謂勝ち組の人々がいるから、その人たちにとって消費税が上がることなんてどうってことはないにしても、勝ち組に入れなかった人々はそういう人々を眺めつつ、指をくわえて見ているしかない。

いったい、いま、われわれの前に明るい材料などあるのか? もう絶望して笑うしかないのではないか? それにしても暗い笑い、だ。悲しい時代だ、と思う。だからと云ってはなんだけれど、僕の好きな作家の、ヘンリー・ミラーの作品の「愛と笑いの夜」みたいに、世界を少々突き放して視てみてもいいのかも知れない。

○推薦図書「殺される側の論理」 本多勝一著。朝日新聞社(文庫)。近代戦争を素材にした本多の優れた考察ですが、もはや時代は戦争並です。それが現代という時代なのかもわかりません。「殺される側」からの論理で時代を見返す必要がいまこそある、と僕は感じます。お勧めの書です。

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長野安晃

アラン・ドロン再考

2007-10-08 23:20:40 | Weblog
いま「SMAP×SMAP」という番組を観るともなしに観ていたら、何と唐突に72歳のアラン・ドロンがゲストとして目の前に現れた。微妙な色合いの紺色のスーツをラフに着こなし、スーツの下には萌えるような赤っぽいピンク色のポロシャツを、これも厭味なく、スーツの下にのぞかせている。アロン・ドロンはもう映画俳優から引退し、引退するずっと前から実業家であり、服飾の世界でもアラン・ドロンブランドを持っていたはずだから、きっと目が飛び出るほどに高価なスーツに決まっているが、それらとて、白髪になった72歳の、いまでも美青年としか言いようのない彼の存在をあくまで引き立たせる役割を静かにこなしている、といった印象か。
彼がこれまで出演し、日本に配給されてことごとくヒットした映画のダイジェストが流れていたが、長く僕の記憶の底に溜まっていたその時々のアラン・ドロンが出演作品が流れる度に鮮明に蘇ってきて、彼の出世作の「太陽がいっぱい」以来、僕はずっとフランス映画と言えば、アラン・ドロンをイメージし続けてきたことをあらためて自覚した。今は舞台で活躍中だと言う。勿論実業家としても成功しているふうだ。所謂「スマスマ」はゲストが注文した料理をスマップが二組に別れて味を競うスタイルだが、これほど能弁に喋り、食べっぷりも決してお行儀がよいとは言えないが、その意図的に(あくまで意図的だ!)くずした食べっぷりは、彼の美的な風貌をさらに際立たせる。
アラン・ドロンの映画のダイジェストを観ていて、僕は一つとして見逃した作品がなかったことに気がついた。僕の青少年の頃外国映画といえば、あくまでフランス映画が主流だったのである。考えてみれば、僕などがなんで学生運動に身を投じつつも、当時小遣いにも事欠いていたのに、わざわざ芦屋まで電車で通いつめ、(神戸界隈ではいまでも語学を勉強する人ならセイドー外国語学院の名を知らない人はいないと思うが)、セイドー外国語学院に高校生の僕が英語ではなくてフランス語を勉強し、フランス文学・哲学の研究者であった丸山圭三郎がNHKのフランス語講座を担当しているような空前のフランス語、フランス文学のブームだったのである。アメリカの粗雑な(僕はあの粗雑さも大好きだが)文化一色に染められたのは、そのずっと後のことである。僕は恵まれていて、フランス語の入門期からフランス・ネイティブのマダムからフランス語を教わったことである。高校でセクトのオルグ用に文案を考えながら受けていた英語の授業などにはまるで興味をそそられなかった。フランス語の、難しいが、物にすると美しい音の連続体としての言
語は、どう考えても下手くそな日本人教師が教える英語とは比べる対象ですらなかった。
学生運動に入れ込み過ぎて、校長の更迭があった。その後にやって来た辣腕家の校長のもとで、運動家の排斥が露骨になった。何人もの仲間たちが学校を去っていくのを、僕自身も出席日数の上では崖っぷちに立ちながらもその光景を見送るしかなかった己れの根性のなさと浅ましさに身を焦がしつつ、大学へは進学しないと決めることだけが僕のおとしまえのつけかただった。そして進路希望調査用紙にはバカロレア(大学入試資格試験)を受験することと、フランス留学、と書いた。そんな経済的見込みなどどこにもなかったので、そう書かせた直接のきっかけはアラン・ドロンだった、と思う。だから僕は無意味にセイドー外国語学院でフランスのマダムからフランス語を習いつづけ、家では丸山圭三郎のNHKのフランス語講座を聞き続けた。何とか両親をだまして、行きだけのフランスへの航空運賃だけをせしめて思い切ってフランスへ行っていれば、と思う。それもアリの当時の僕の心境だったし、いまはすっかり忘れてしまったが、英語はまるで身が入らずダメだったが、フランス語の方は日常会話には不自由しないところまでは到達していたので、飛び出す
べきだった、といまでも悔しさが残る。彼の地で野たれ死んでもよかったはずなのに、僕が辿り着いたのは、何と東京の秋葉原だった。僕の人生そのものが狂い始めた瞬間の出来事である。「フランスへ行きたしと思えど、フランスは遠し」だったのである。あの決断の鈍さが、いまの自分の人生の敗北を招いた。今日のアラン・ドロンはあくまで恰好よく、それを観ている僕はあくまで無様な気がした。長生きしてほしい役者だ。そして死ぬ間際まで女を泣かせてほしい。心からそう願う。
蛇足だが、アラン・ドロンはイタリアの貧しい街の出身である。彼を見出したのは当時フランスでは最も有名なシャンソン歌手だった。彼女は徹底的にアラン・ドロンにフランス語を教え込み、スターダムにのしあげてみせた。たぶんそんな彼女もアラン・ドロンに泣かされた女性の一人だ。男に泣かされて、それを許すことの出来る女性が彼のような一流の男には不思議と集まってくる。何とも羨ましい限りである。

○推薦図書「生命と過剰」 丸山圭三郎著。河出書房新社刊。丸山理論の画期的展開だが、ことばと生命の境界から、意識を無意識の根底を貫いて、「永遠回帰」へと到る思想のラディカリズムとでも評せばよいのでしょうか。この人がNHKのフランス語講座を担当していたなんて何と恵まれた時代だったのだろうか、と思います。

こんな学校もあるんです。

2007-10-07 23:02:47 | 観想
○こんな学校もあるんです。

人の心の中は、崇高な愛の概念から忌むべき憎悪の感情まで様々なレベルの想念で埋めつくされているようだ。今日は僕の中でいまだにムカつく感情のいくつか、それはたぶん憎悪という感情に相当するが、そのことについて書こうと思う。不快ならば読み飛ばしてほしい、と思う。思い切り自分本意のブログである。己れの精神の浄化作用のためだけに書いているようなカスのような内容だから。

僕の勤めていた私立の中学高等学校で、なぜか僕は就職してからずっと高等学校に配属されていた。校務分掌の関係で、ある意味評価されていたからだろう、と思う。それ以外に理由を探す方が難しい。39歳の頃だったと思うが、中学からお呼びがかかった。教師たちは総じて中学校へは行きたがらなかった。何かと理由をつけて醜いほどの執着をさらけ出して高校にとどまる算段をしていたように思う。理由は簡単だ。高校生くらいになると、教師の少しくらいの失敗や授業のつまらなさを無視するか、見逃してくれる。そういう年齢だ。しかし中学生となるとそうはいかない。ダメ教師ははっきりとダメ出しをされる。露骨に態度に現してくる。高校で女子生徒たちに甘やかされて人間的にも、人生に甘えるようになってしまった教師たちにとって、中学配属は地獄の決断に相当する。だからみんな嫌がった。いきおい中学配属組の教師たちは新任の教師たちが殆どだ。中学行きを嫌がる教師たちの身代わりだ。その頃、僕の同期の数学の教師が高校の教頭になった。教師に成り立ての頃、しきりに僕に日本共産党に入党するように説得していた男だ。しかし、この男、理事会の偉いさんに取り入るようになった。恥も外聞もなく、というやつだ。よく一緒に飲みに行っては密談するようになっていた。この男の唯一の言い訳としては、日本共産党員が浄土真宗の支配する女子学園の教頭に食い込んだ、という理由だけだろう。しかし、そこにはウソがあるのは誰が見ても丸見え状態だった。奴は単に理事会に丸め込まれ、教頭に成り上がっただけだ。見え見えの一人よがりだ。近い将来は校長も夢ではない、と理事会を牛耳る悪徳坊主から約束された、と本人から直接聞いた。クソあほらしい! 共産党ももう少し党員の質的な向上を考えて、堕落した党員は追放すべきだな。だって共産党はいかにも優れた人材を宮本顕治時代に党からたくさん追放しているではないか。あの野坂参三すら共産党の歴史から葬ったわけだから。たくさんの学者たちも追放された。なのにあんなアホタレが教頭だなんて。いまだに党員だなんて、ほんとにクソあほらしい! 共産党員になんかならなくてホントによかった、と思う。

○こんな学校もあるんです。

39歳で中学に行くことに決めた。英語教師としては腕の見せ所だった。英語で授業をやり通した。当然最近の保護者は教育熱と学歴は高いので、それで大学へ入れるのか? という強烈な批判もあったが、僕は屈しなかった。僕を支持する保護者もたくさんいたからだ。英語熱は高まる一方だったが、僕に反発してくる保護者たちの思考はなぜか同じように屈折していた。時代の変化は感じとっているはずなのに、彼らは一様に、自分たちが何十年か前に受けた古ぼけた英語の授業が、自分たちの考える授業の規範になっていたということだった。まったくどうかしている!

長年中学の教頭をしていた教師が退職し、さて誰を次の教頭にするかが専らの話題になった。50前のまさに教師にしかなれなかったような常識知らずの国語の女性教師を何となく気が進まぬままに組合からも、校長に推薦というより裏交渉して、中学の教頭にしてしまった。これがまた大きな間違いだった。中学に「保護者の会」という自主的組織を立ち上げた。指導者は勿論僕だ。学園にも保護者会があったが、これは理事会のなすがまま、保護者会費も学園の言うがままに使わせるような、暇で金だけがある親たちの集まりだ。話にならない。だから中学から保護者会を実質的に変えてやろう、と密かにもくろんでいた。あるいは少なくとも保護者会を通じて理事会を脅かしてやろう、彼らに大枚の保護者会費を使い放題させてなるものか、という想いで心が疼いていた。「保護者の会」の活動がうまく軌道に乗った頃、生徒に対して授業に対する無記名のアンケート調査をする決議を上げさせた。当然中学の職員会議にも僕が提案した。多くの教師たちは無記名にこだわった。せめて記名アンケートにさせてはどうか? と反論してきた。絶対に譲らなかった。記名させれば自由に物が言えない。何せ生徒は立場が弱いのだ。押し切った。無記名アンケート内容が細かく検討され、実施された。アンケートの集計は「保護者の会」の大きな援助があって結果が出た。教頭になっていた国語教師は、年賀状に長々とその年の自分の国語教師としての活動を詳細に書いて来るような人間だ。自分の授業にも自信があったに違いない。が、結果は見事に裏目に出た。教頭の国語の授業が最も評判が悪かった。それ以来その教頭はことごとく僕に批判的になり、出来の悪い僧侶というだけで校長に成り上がった、これももと国語教師とベタベタとした関係性を築いていった。浄土真宗には地獄という概念があるわけで、この校長が死んだら絶対に地獄に落ちるだろうし、こんなつまらない坊主にへりくだる自己本意の女教頭だって同じように地獄に落ちるに決まっている。浄土真宗とやらがまともな宗派ならそうなって当然ではないか、と思った。そんなことを考えている自分に最も腹が立った。アホらしいことこの上ないからである。

僕が学校を辞めてから、この女性教頭は教頭職を降りて、その後半年も入院した、と風の噂で聞いた。たぶん癌だろう。復帰したらしいが、もう定年退職して生きているやら、死んでいるやら。どちらでもよい。前述の共産党員の数学教員上がりの教頭も、しぶとい坊主校長が生き残っているうちに、中学の教頭に理事会から特別に任命された、どこかの位の高い? 寺の坊主が教頭になった。たぶん理事会の気が変わったのだろう。あの学園で校長になるには、僧侶でなければなれない。あるいは得度するかだが、そんなことをして校長に成り上がっても本物の寺持ちの理事会の坊主たちに苛めぬかれて早死にするだけだろう。ずっと以前「散華した校長」というテーマで書いた校長は僧侶でもないのに得度して成り上がって、坊主たちに苛め抜かれて、53歳で通勤途中のバスの中で心筋梗塞であえなくこの世を去った。よかったではないか! 君は共産党員として、意識的に?少なくとも教頭にまではなれたのだから。風の噂に聞いたが、この数学教師、結局校長には任命されず、約束を反故にされて、位の高い?寺の僧侶が校長になったらしい。どこまでも腐った学園だったと心底思う。もう、こんな経験、思い出すのも止めにしたい。残された人生に暗い影を落としかねないから。

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長野安晃

うたた寝の観想を少し

2007-10-06 23:54:33 | 観想
○うたた寝の観想を少し

僕は本を読みながらよく居眠りをする。とりわけ食事が終わって文庫本などをねっ転がって読んでいると気持ちよく眠りの中に落ちていく。しかし、一方で目覚めの方はいつもひどく悪い。憂鬱で、孤独で、世界から取り残されてしまったようなうんざりとする感覚。いつものことだ、と諦めはするが、今日は何故だか何でなの? という感慨に耽ることになった。結果が出た。たぶん間違いないと思うが、うたた寝の後の憂鬱な気分というのは、僕のごく幼い頃の体験と深く繋がり合っているようだ。

小学校に入る前の、幼いが妙に明確な輪郭を持った記憶。体が覚えてしまった記憶の名残りがいまだに自分を支配しているのか、と思うとかなり居心地が悪くなってしまった。当時、僕は神戸の地区のど真ん中の商店街の片角にひっそりと残っていた古ぼけたアパートに、両親と叔父叔母夫婦と伴に、別々の部屋で暮らしていた。ガラス製の大きな入口のドア、ドアには、廃れた臙脂色のビロードが破れかかったままに張りついている。廊下は広い。いや広すぎるつくり。古びて変色しているが、かなり凝った分厚い絨毯が敷きつめられている。部屋はやたらに多い。紅桜荘(ベニザクラソウ)という時代錯誤の名称。たぶんこの建物が出来てから変わることのなかった名前だろう。部屋の中は仕切りの壁が中途半端に真ん中辺りにあり、丸くくり抜かれている。幼い僕にもこの建物が何か口を閉ざしながら住み続けなければならない場所だ、ということが感じとれた。進駐軍相手の売春宿をアパートに転用した建物に僕たち家族はひっそりと暮らしていたのである。

ある日の夕暮れ時、叔母が何を思ったのか、医者からもらった茶色の水薬の小瓶を僕に見つからないようにミシンの裏に隠して出かけた。僕は、しかし、その様子をしっかりと目の端で捉えていたのである。風邪を引いても同じ色の水薬が普通に処方されていた時代だ。甘くて、舌に残る苦い味が僕の好みだった。ミシンの裏の小瓶は果して、僕の期待した色の水薬の小瓶だった。瓶の下の方に厚くたまった白い層があって、僕は味が落ちるといけないと思って、その小瓶を丁寧に振った。白い粉の層は水薬全体に広がって消えた。少し口をつけると慣れ親しんだ味がしたので、僕は一気に飲み干した。窓から見える夕暮れどきの風景がいまだに頭の中に焼きついている。少しずつ意識が遠のくのがとても気持ちよかった。たぶんそのまま畳の上で眠ってしまったのだろう。これが何度か死にかけた僕の生涯最初の死への極端な接近だったらしい。厚く溜まった白い層の粉は大人用に処方された強い睡眠薬だった、と後で聞いた。当時の睡眠薬はそれだけで死ねた。いまの軟弱な睡眠導入剤とは訳が違う。

うっすらと意識がもどるにつれて、自分が布団の上に寝かされていることや、僕の目の前には白衣の膝頭が見え、視線を移すと両親と叔父叔母が僕を覗き込んでいる。徐々に僕は覚醒していった。白衣の膝頭の上の方で「もうだいじょうぶですよ」という声がした。同時にどうしようもない嘔吐感に襲われ、枕元の小さな金たらいの上に吐いた。胃液だけが喉もとを上がってきたので、喉がやけるように痛かった。頭は割れそうに痛かった。同時に天井がぐるぐる回った。死から生への移行だ。逆も苦しいのだろうが、生き返るというのも苦しいのである。あの時、僕は言葉には勿論できなかったが、いまその感覚を言葉にすれば、それは世界から切り離された隔絶感であり、孤独感であり、憂鬱感であった、と思う。まる4日間の死への彷徨だった。そして同じ感覚が死が迫りつつあるこの歳になっても僕を支配している。だからうたた寝から醒めた僕の心はいつも重い。寂しくて孤独だ。

今度同じような体験をするのは確実に生から死への移行のときだ。もう覚醒の苦しみはないだろう。しかし、死の苦しみはあるだろうから、やはりそのときも世界から隔絶した、孤独感や憂鬱感を味わうのだろうか? たぶんそうなるのだろう。生と死は恐らくは同根だろうから。

○推薦図書「これで おしまい」 永倉萬治著。集英社刊。リストラされて途方に暮れる中年男、欲情と純愛のはざまでうろたえている青年、偏屈だが愛嬌ある老人。死の直前までこの書の出版にこだわり続けた永倉の最期の作品集です。

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長野安晃

心と身体という総体としての<からだ>について語ろう

2007-10-05 23:53:43 | 観想
○心と身体という総体としての<からだ>について語ろう

心あってこその身体、身体あってこその心である。この両者を敢えて切り離すような思想は、開拓者時代からはじまった、アメリカのプロティスタンティズムという悪しき思考のスタイルである。とりわけ、身体がまいっているときにこの悪しき思想は有効である。心、即ち精神性が身体を支配するという考え方であるからだ。確かにある一面の真理はあるだろう。精神が身体を健全にするという表層的な意味合いにおいてはまさにその通りである。しかし、プロティスタンティズムの思想は、体力の限界性を超えても、精神さえ強固であれば持ち堪えられる、というかつて奴隷を縛ったそれである。

こういう発想は現代の日本にも顕著で、特にスピリチャルなものの流行がそれをよく証明している。スピリチャルな要素が勝てば、人間の身体性は無視される。あるいは控えめに言っても軽視されるのである。とりわけ昨今の怪しげな新興宗教の類はそのことをマスコミ報道から性的犯罪がらみの事件としてよく見てとれる。教祖と名乗る人物が信者の女性を信仰というベールをかぶせて性的暴行を平気で犯す。具体的にそういうエセものの宗教の名をここに書き連ねることもないだろう。もう誰もが知っている。

精神と身体という要素を切り離して考えるのは、従って多くの不幸を招きかねない。イスラム原理主義の一部の派閥は、精神性の崇高さを極端に唱えてみせる。彼らの思想からすれば、身体などは単なる血や肉の固まりに過ぎない。自爆テロがそのことの証左である。日本にもかつては、同じ種の原理主義的なものが若者たちの心を捉えて離さなかった。「葉隠」に隠された精神至上主義の、身体を犠牲にした自爆テロ、それはかつての神風特攻隊であり、人間魚雷回天の思想がイスラム原理主義のありようと同根であることをよく物語っているではないか。いや、日本のかつての軍隊が多くの南洋の島々で玉砕したのも、ある種の原理主義の横行である。日本的原理主義の現れであった、と僕は思う。

だからこそ、敢えて言いたい。人間存在とは心と身体との総合体としてこそ、意味あるものである、と。心と身体の総合体のことを僕はかりに<からだ>というひらがなで定義することにする。<からだ>とはどこまでいっても分離不可能な存在である。スピリチャルなある種乾いた存在である精神と、ぐちゃぐちゃとした粘液質の固まりである身体との一体性。いまこそ、こういう<からだ>の思想が根づかねばならない時である。それは、精神性だけが突出することもなければ、身体性だけが突出することもない。人間存在を大切にする思想である。

21世紀を生き抜く思想は<からだ>としての人間存在を認めることだし、<からだ>としての人間存在を底で支えているのは愛である。心と身体を分離する思想性には、愛が決定的に欠落している。だからこそ人間はどこまでも残酷にもなれる。愛は<からだ>としての人間存在の快復に欠かせない最も大きなファクターである。僕はそう思う。

○推薦図書「ヌルイコイ」 井上荒野(アレノ)著。光文社文庫。主人公のなつ恵は死に到る病を宣告されつつも気だるい愛と不安が漂う日常性の中で生きている。そういうある種の恋愛小説なのだが、この書にはもっと本質的な<からだ>として生きようとしている主人公の生と性に対する拘りがあります。何気ない表現の中にそういう要素が散りばめられています。

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長野安晃

青少年よ、騙されてはいけない!

2007-10-04 23:26:43 | 社会・社会通念
○青少年よ、騙されてはいけない!

昔、職場には、「生理休暇」という制度があった。男の僕などに生理のつらさや出産の過酷さなど想像できるはずもないが、何気なく生活しているように見える女性が抱えている身体的な問題がもし男性に同じように振りかかってきたら、たぶん殆どの男性は音を上げるに違いない、と思う。そういう想像だけは出来る。「生理休暇」という制度は性差ということを暗に男の自分に分からせてくれるという意味でも大切な制度だった、と思う。勿論個体差というものもあるから、生理がつらくてたまらない女性もいれば、そうでない女性もいるに違いはないが、子どもをこの世界に生み出すための体の仕組みであってみれば、それは社会的な視野で弱き者を守る法的措置が講じられてしかるべきものだ。女性を大切に出来ないような社会はやはり屋台骨が腐りかけているとしか思えない。

もう遥か前の話になるが、男女雇用機会均等法が法制化されて、男女に社会的平等の社会が確立されたかのような錯覚を多くの人々は抱いただろう。しかし平等という概念は時として、過酷な競争主義を粉飾するための耳障りのよいスローガンとして利用される。これは怖いことなのである。日本の政府はアメリカが好きでたまらないようで、真似事ばかりしている。それどころか、アメリカの軍事基地さえいくつもいまだに存在し続けている。アメリカの核の傘の下に入っているなんて、とても危険なことだ。アメリカ神話なんてベトナム戦争の敗北で化けの皮が剥がれたはずだ。近いところでは、ニューヨークの貿易センタービルの壊滅的な崩壊。難攻不落だったはずのペンタゴンへの攻撃と破壊。それもこれまでアメリカの大国主義が馬鹿にし続けてきた小国の、命をかけたテロリズムに簡単にアメリカ本国が攻撃を受け、揺さぶられる時代だ。それに比べれば、日本の真珠湾攻撃なんてかわいいものだ、と思う。それでも日本はいまだにアメリカという国をお手本にしている。アメリカ自体が自己の存在理由を必死で捜し求めている混迷の時代に、だ。アメリカという国は素敵なところも勿論あるし、全否定などするつもりはないが、根底にはあのアメリカン・ドリームという弱者切り捨ての思想に侵された国だ。成功の機会は皆平等にある。誰にでもチャンスはものに出来る。社会的な不成功を云々するのは負け犬の遠吠えだ、という社会的勝ち組たちの結果論的思想、いや正当化という方が正確か? 日本の男女雇用機会均等法など、矮小化されたアメリカン・ドリームの焼直しではないか。女性という身体的な特徴を無視する弱者切り捨ての怖い法律だ。総合職という地位が会社の中に出来た。さあ、女性よ、頑張れば出世の道は男と同じように開かれた! という訳だ。しかし、本当にそうなのか? ごく少数の女性はそれぞれの社会でトップになってはいる。だが、こういう女性はどのような制度下でも成り上がってくる人々だ。所謂「鉄の女」だ。日本にもイギリス元首相のサッチャーたちが何人もいるのは確かではある。そうではあっても、いったいどれだけの総合職とやらについた女性たちが、その能力に応じた仕事を与えられているか? が問題なのだ。

日本は一体、どこに向かって突き進んでいるのだろう? 何度も書くが終身雇用制という制度が姿を消して、いつ何どきリストラに遇うやも知れぬ社会だ。アメリカはまだ仕事を換えてのキャリア・アップがある世界だ。しかし日本にはそれがそもそもない。リストラに遇えば、確実にキャリア・ダウンする。そもそも派遣社員とはなんぞや? 体の良いアルバイトではないか。以前、「ハケンの品格」などという人気女優を主人公にしたテレビドラマがかなりの視聴率を稼ぎ出した。が、これなどは派遣社員という名のアルバイト雇用制度を美化するだけのデマゴギー番組だ。質が悪い。誤解を恐れずに言えば、派遣社員に品格など与えられていない。そんな身分的保障はそもそもないのが派遣という残酷な制度だ。必要なのは品格ある正社員の雇用形態だろう。青少年よ、誤魔化されるな! そう僕は現代社会に向かって毒づきたい。

○推薦図書「アメリカン・マインドの終焉」 アラン・ブルーム著。みすず書房刊。以前に推薦した書です。今日の僕の観想と合致します。深い洞察があります。アラン・ブルームはどちらかと言えば保守主義の側の思想家ですが、保守主義者もアメリカの退落を憂いています。詳細な分析と洞察に富んだ書です。あらためて推薦します。

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生とは逸脱の連続性の上にこそ成り立つものではないか?

2007-10-03 23:17:28 | 文学
○生とは逸脱の連続性の上にこそ成り立つものではないか?

人間とは逸脱する存在である。何から? たぶん、正常という論理から。あるいは正常という生活形態から。この世に生を受け、成長し、学習し、恋愛し、結婚し、子どもを産み育て、世の中に送り出し、そして老後と呼ばれる不可思議な世界に足を踏み入れ、己れの死を受容する、といった素描を正常な生活形態と仮に位置づけるなら、人間の生とは絶対に素描のままには終わらない存在である。つまりは生とは、逸脱の歴史と言っても過言ではない。それが人生さ、という居直りが、僕には白々しい言い訳などより、どちらかと言うと、よほどすがすがしい。何故なら逸脱こそが人生の真理の別の表現だからである。道徳や倫理観とは、生きる知恵のようなもので、逸脱し続けようとする生のあり方をいっとき正常な? 生の素描に近づけてくれる特効薬のようなものだ。脱線しながらも、何とか生の終焉を迎えることの出来る人たちは幸福である。自殺を試みた人間としての僕が言うのもおかしなことなのだが、やはり生を唐突に打ち切るような自死というのは、いかにも勿体ない、といまは思う。自死を選ぶ人たちは、原因は数え上げたらキリがないが、どのように言葉を繕ってみても、やはり根底には深い絶望感が横たわっているはずである。だからといって、僕は自死を選び取った人々が己れの絶望感に敗北したのだ、などと断罪するつもりは毛頭ない。むしろ、自殺を敗北だ、と言ってのけられる野放図な神経こそを軽蔑する。僕が自死が勿体ない、と言ったのは、絶望も生の、時折訪れる逃れがたい存在なのだから、それが深くともそれほどのものでなくても、やはり生きて、絶望の中に身を浸す価値がある、とは言いたい。苦しくて自らの身を掻きむしり、血を流しつつその場に身を伏せている、長い、長い、時間の経緯だ。投げ出した方がどれほど辻褄が合っているか、と思うだろう。

逸脱とは生の辻褄が合わぬ論理的思考といえば矛盾した言い方だが、たぶん敢えて定義すると、僕の裡では、こうなってしまう。その意味で自死は辻褄が合いすぎていて、潔癖過ぎる行為であり、思想である。途中から俄然おもしろくなってくるドラマを、投げ出して劇場を後にするようなものである。入場料が勿体ない。人生という劇場への入場料をドブに捨てるようなものである。
逸脱こそが人生だ。逸脱することに伴うあらゆる行為を僕は認める。ただし、他者に迷惑をかけぬことと、その究極の行為としての他殺は認めない。それ以外のことは生きていくからには大抵は認められる行為だ、と思う。苦悩も引き受けてこそのエピュキュリアンとしての生きざまだ。そう思う。

○推薦図書「滴り落ちる時計たちの波紋」 平野啓一郎著。文春文庫。文学こそが生の逸脱を表現する最も有利な方法でしょう。人間の暗黒の心の底の底まで描くことの出来る文学とはいいものです。その意味でこの平野の作品集をお勧めします。文学の底知れぬ可能性、生の底知れぬ可能性を表現している読みごたえのある作品です。お勧めです。いかがでしょう?

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死んでるみたいに生きたくない

2007-10-02 23:57:20 | Weblog
○死んでるみたいに生きたくない

死んでるみたいに生きたくない。ヤケクソで言っているのではない。伊坂幸太郎の「グラスホッパー」という小説に出てくる言葉にイカレて書いているのでもない。やっぱり自分のいまの心情を正確に言い当てるとすれば、死んでるみたいに生きたくはないのである。これ以外に表現の仕方がないくらいピッタリした自分自身のスローガンだ。

思えば僕はずっと生というものを、ただ脇道に逸れぬように安全に生きたい、と感じたことなど一度としてなかったように思う。確かにいまにして振り返ってみると、自分の生の軌跡はグニャグニャに曲がりくねってはいるし、間違いだらけの人生だった、と思う。これから先、どれくらい生きられるのかは分からないのは当然のことだが、たぶん一つだけはっきりとしているのは、僕は死ぬ間際まで、死んでるみたいに生きたくない!、と叫んでいることだけは確かである。死の床に横たわったとき、現代の医学は可能な限りの延命治療をほどこすだろう。からだ中に何かの機械につながったチューブをいっぱいつけられて息をしているだけの状態を生きている、と言えるのだろうか? こういうのは医学の進歩とは呼べない、と僕は思う。むしろ人間性の意味を重視するなら、医学における退歩ではないだろうか。無意味な延命をあえて断ち切ろうとした医師が、患者の遺族に訴えられた事件が過去にあった。確かにたとえ医師と云えども人間に他者の生き死にを決定する権利はない。しかし、だからと云って、自ら食事もとれず、水も飲めず、排便も出来きず、意識すらない状態の、もはや助かる見込みのない患者をただ生かしておく権利も同じようにないのではないか? しかし、その一方で人間は驚くべき決定を、それこそ神を上回る権利を医師や有識者と呼ばれるエセもののインテリたちによって、死の定義を変えてしまった。人間の死はかつてのような心停止から脳の機能停止を脳死として、死の意味として、認定してしまった。心停止状態から蘇生する場合も医師たちはたくさんあることを知った上での、半ば暴力的な人間性無視の死の定義の誕生というわけだ。それもこれも臓器移植という悪夢から生まれ出たおどろおどろしい新たな倫理感の誕生だ。新鮮な臓器を!と臓器移植の専門家たちが雄叫びを上げているかのようだ。馬鹿げている。死人に口なし、か?

それなのに、安楽死がこの日本で問題になることがない。人は自らの死を悟ったとき、積極的な死を選ぶ権利があって当然ではないか! この国はどこか何もかもがちぐはぐだ。オランダやベルギーの国民や医師たちは偉い、と心底思う。安楽死を認める思想とは人間性の尊厳を認める思想と通底しているからだ。日本はオランダやベルギーと比べて生を大切に扱える国なのか? 答は毎日のマスコミ報道が証明しているではないか。殺人事件は絶えることなく起こるし、自殺者は多少の増減はあるにしても年間3万人を下らない。交通事故による死者は毎年1万人を超える。まるで戦時である。そんな中で国民生活は苦しくなる一方である。平均寿命が延びて世界一だという。お笑いだ。みんな死んでるみたいに生きている! 癌に罹ったら何度でも手術費用は一括して支払われる癌保険など、虚妄に等しい。人間、癌細胞が転移する度に何度も切り刻まれたくはないよ。それでも息だけはしていたい、という人は勝手にどうぞ。

僕は死んでるみたいに生きたくない! ただ、それだけだ。一刻も早い安楽死の法制化を望む。

○推薦図書「殴られ屋の女神」 池永 陽著。徳間書店刊。一発千円の殴られ屋は、ノックアウトされる寸前に見える幻の女性像を求めて毎夜街に出ます。仕事を失い、妻を失い、全てを失って、男は今夜も街に出かけていくのです。時代から取り残された失業男と16歳の自傷行為から抜け出せない男娼とタイ人娼婦の関係性から、家族とは、人間の生き方とは何か、という課題を池永は読者に投げかけているように思います。素敵な小説だ、と思います。

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何も分かっていない自分がいる・・・

2007-10-01 23:19:10 | Weblog
さっき知り合いの女性から電話があった。24歳の才女だ。真面目一方の女性である。いつも人生と真正面から向き合っているような女性だ。言わば僕はお父さん代わりである。彼女はそんなふうには思ってはくれていないのかも知れないが、僕は勝手にそう思って接している。仕事がしんどいのだ、という。生きるのがつらいのだ、ともいう。僕は決して慰めはしない。ただ、彼女のつらさや生の過酷さに共感するだけだ。それしか出来ない。またそれ以上のことを諭してみても嘘になる。24歳というから、いまは事情で離れ離れになっている僕の下の息子と同い年である。もし息子から同じような相談を持ちかけられてもやはり僕は父親だが、やはり父親代わりとしての言葉しかかけられない、と思う。人生の先輩として、確固とした価値意識が自分の裡にいまだに芽生えていないからである。情けないことだとは思うが、どうもがいてみても事実なのだから、致し方ないのである。僕は54歳としての人生の壁の前で、うずくまるばかりである。54歳の生の課題が24歳の彼女の生の課題よりもより高等で洗練されたものか? というと僕は言下に否定せざるを得ない。とんでもない、僕などには何も見えてはいないのである。
僕が24歳の頃、やはり仕事をはじめて、才能ある同僚たち、たぶん彼らには大きな信頼を置いていたし、仕事が終わってからも愚痴をこぼし合いつつも、なにほどかの夢を語り合った記憶がある。彼らと言っても僕が認めた優れた同僚は二人に過ぎなかったが、二人ともに、早々と職場を去って行った。一人は京都大学の大学院を目指し勉強しはじめた。もう一人は脚本の勉強を本格的にやりはじめた。そういえばふたりともに国語の教師だった。自分が英語の教師であることに確信が持てなかった。彼ら二人はそれぞれの人生の道を進み、当初目指した到達点とは異なったところで、成功している。当然のことのように、二人が辞めてから僕はどうしようもない孤立感に襲われた。自分の才能の欠落感を恨んだ。結局は自分自身を恨んだ。結局僕だけが取り残され、ずるずると同じ学校に留まることになった。それ以後、47歳で理事会に学校を追われるまで、やったことと言えば、宗教学校で、自分の無宗教を誇示したことと、英語の教育理論をいくつかの論文にしたことと、何人かの才能溢れる教え子とめぐり合って、かえって自分の才能のなさを突きつけられたような感じを持ってしまったこと、文学と哲学と音楽の世界の中に身を浸していたことくらいか。思い出すことと言えばそれくらいのものである。生を浪費しただけの教師生活だった、と思う。
だから、僕は54年も生きてきて、いまだに自分の生の意味など何も分かっていないのである。生を空費した23年間の時間は取り戻しようもない。もはやあまり長くは生きていたいとも思わない。自分の人生に意味があったとはどうしても思えない。たぶん生の不条理性とはこういう心境を指して使う論理だろう、と思う。何故かこの頃、嫌なことばかりが起こる。たぶん素敵なことも起こってはいるのだろうが、記憶に残るのは決まって嫌なことばかりである。自己嫌悪などという概念がもう死語になった感があるが、僕はやはりいまだに自己嫌悪の固まりである。生の一回性を無駄にした、という想いに地団駄踏む想いでいまを生きている。いつ果ててもよいが、どうせなら生きている間は、自己嫌悪の権化くらいにはなってやろうか、と思っている。こんな失敗作の人生があってもいいのか、とも思う。決して開き直りではない。後悔は尽きない。正直な観想である。

○推薦図書「美のイデオロギー」 テリー・イーグルトン著。紀伊国屋書店刊。大著です。お値段も6000円と手に取りにくい書ですが、左翼系の文芸評論家であるテリー・イーグルトンの、近代思想を縦横無尽に斬り倒していく論法には舌をまきます。僕はかなり無理をして買いましたが、お金と時間に余裕のある方には絶対のお勧めの書です。どうぞ。