32.雷風恒
恒は恒常性・恒久性を専らとする性質の卦です。決して常に同じとか変化がないということではなく、移り変わる日々の中にある不変性を保とうとする気持ちとか、そのための忍耐力、時機を見定める能力といったことを意味しています。咸同様、全爻が正応関係にあり、お互いを結びつけた縁を大事にしようとする意識が強く働くのかもしれません。縁の深さや絆の強さを線で例えると、咸が点線、恒が実線となるでしょうか。相互関係としての繋がり、その糸の太さが異なります。咸の方は拘束力が弱いので気楽ですが、恒ほどには緊密な関係にはなっていません。
繋がりの強い恒ですが、そのぶん、時として相手に固執し過ぎたり束縛することにもなりかねず、そうなった場合は次の遯で破局という流れが濃厚になってきます。全てが正応関係にあると言っても、完璧な状態は裏を返せばそれ以上の進展が望めないということですから、既済がそうであるように守りに入らざるを得なかったりします。しかしそれにもかかわらず、新しい刺激に心が動かされてしまい、保守と進取の間で気持ちが板ばさみになって悩むことが多いでしょう。ここでの選択は環境や関係を変えてしまうほどの影響力があるので、適当な考えで決断しないようにしましょう。マンネリが嫌だからといって派手な刺激を求めてばかりいると、取り返しの付かないことになって憂いをみるかもしれません。
さらに話を進めると、咸&恒では関係を結んで繋ぎ止めるという内容ですが、次の遯&大壮では、その関係を緩ませて解放してしまいます。ちょうど結んだロープを解くような状態です。結ぶには理由があり、また解くにも理由がある。互いに関係を結ぶことで何か(経験の種類は人それぞれ)を学んでいきますが、それがおおかた終了すると自然に新しい関係での学びを求めて心が動き出します。そしてお互いを繋ぎ止めていたコブが解かれてゆくのです。これが遯&大壮での流れで、事実上の新展開は別サイクルの起点である晋に入ってからになります。
咸の刹那的な感応と違って、恒は物事や人との関係を維持するという内容なので、そこには責任や苦労が付いて回ります。長期に亘るローンを組むような大きな買い物をする状態に似ています。自分の好き嫌いで直情的に判断したり、夫や妻(パートナー)に相談もなしに重要な決定をすることはできません。もし個人的な希望を優先すれば、後々いがみ合いや揉め事の原因になってしまうでしょう。元々、易経の内容は戒めや注意を促すような反語的表現の形式をとっているものが多いので、その辺の含みを加味しないと真意を逃してしまうことがあります。例えば恒も、「この卦を得たら平穏だ」みたいな一義的な解釈は通じません。少なくとも、「そのための努力は必要だろうな」という認識が必要です。
裏卦は風雷益。損の対概念。「損して得取れ」の卦が損なので、益は「益して得取れ」――利益を得て、それを還元することで信頼などを得る。実益を得ることで別の価値や次の仕事の動力源にできます。単なるサービス一辺倒ではなく、きちんと自分や関係する人々の生活のことも考えるという態度。恒が社会の中での持続可能な立ち位置(居場所)を見つける必要があるのに対し、益は会社と家庭、社会と個人など、規模や役割が異なるものとの「つなぎ」を表わしています。狭義的には、恒が身近な人間との、益が外の世界との折り合いを示していると考えてもいいでしょう。
シンメトリー関係は小過。中孚で最適さを見出すのと対照的に、小過では中立や中庸状態から抜け出していこうとします。これにより内的なバランスが大きく崩れ、これまで培ってきたことに風穴が開きます。そしてその穴に今までの自分の生活になかった刺激が入り込んできます。中孚としての特定の状態に収まっていたり、恒としての夫婦・パートナーとしての関係を続けている時に、そうした触媒が持ち込まれると、とたんに平穏さが失われ、何かしらの面倒事とかトラブルが発生しやすくなります。固定された関係に亀裂が入る、もしくは自分から入れてしまう状況。スリルを求めての冒険心や何かを守ろうとする優しさが逆に仇となってしまったりします。
中孚と小過は、いわば卵の殻と、その殻を破る刺激という関係です。完成型と型破り。閉じている世界をこじ開ける。中孚は、これまでの自分の生き方の中で学んだり身につけてきたことの総合的な到達点なので、一つの成就とか達成の証です。卵が適度な塩分濃度の水の中で真ん中に留まるように、特定の考え方・趣味・価値観・生活スタイルなどの中に収めようとします。それは無意識に行われることが多いので、仮に他人から「不適切なやり方だ」と指摘されても意識的に改めようとはしない限りは直りません。いわば改宗を迫るようなものですから、頑なに自分の信念に忠実であろうとするわけです。
恒も小過も、現在の状況と別の環境・価値観との狭間に置かれる性質があるので、その中で自分がどんな選択をするのかが大切になってきます。そこでどちらの道を選ぶにせよ、自分に関わる人達にも影響が及ぶことを考えに入れておきましょう。恒も小過も変化という易の本分の歯車の一つなので、日常を守ることに対しても自分の意思を守ることに対しても根底的な揺らぎ経験します。これにどう対処するかで未来が決定されるといっても良いと思います。
<爻意は後日、追加更新します。>
恒は恒常性・恒久性を専らとする性質の卦です。決して常に同じとか変化がないということではなく、移り変わる日々の中にある不変性を保とうとする気持ちとか、そのための忍耐力、時機を見定める能力といったことを意味しています。咸同様、全爻が正応関係にあり、お互いを結びつけた縁を大事にしようとする意識が強く働くのかもしれません。縁の深さや絆の強さを線で例えると、咸が点線、恒が実線となるでしょうか。相互関係としての繋がり、その糸の太さが異なります。咸の方は拘束力が弱いので気楽ですが、恒ほどには緊密な関係にはなっていません。
繋がりの強い恒ですが、そのぶん、時として相手に固執し過ぎたり束縛することにもなりかねず、そうなった場合は次の遯で破局という流れが濃厚になってきます。全てが正応関係にあると言っても、完璧な状態は裏を返せばそれ以上の進展が望めないということですから、既済がそうであるように守りに入らざるを得なかったりします。しかしそれにもかかわらず、新しい刺激に心が動かされてしまい、保守と進取の間で気持ちが板ばさみになって悩むことが多いでしょう。ここでの選択は環境や関係を変えてしまうほどの影響力があるので、適当な考えで決断しないようにしましょう。マンネリが嫌だからといって派手な刺激を求めてばかりいると、取り返しの付かないことになって憂いをみるかもしれません。
さらに話を進めると、咸&恒では関係を結んで繋ぎ止めるという内容ですが、次の遯&大壮では、その関係を緩ませて解放してしまいます。ちょうど結んだロープを解くような状態です。結ぶには理由があり、また解くにも理由がある。互いに関係を結ぶことで何か(経験の種類は人それぞれ)を学んでいきますが、それがおおかた終了すると自然に新しい関係での学びを求めて心が動き出します。そしてお互いを繋ぎ止めていたコブが解かれてゆくのです。これが遯&大壮での流れで、事実上の新展開は別サイクルの起点である晋に入ってからになります。
咸の刹那的な感応と違って、恒は物事や人との関係を維持するという内容なので、そこには責任や苦労が付いて回ります。長期に亘るローンを組むような大きな買い物をする状態に似ています。自分の好き嫌いで直情的に判断したり、夫や妻(パートナー)に相談もなしに重要な決定をすることはできません。もし個人的な希望を優先すれば、後々いがみ合いや揉め事の原因になってしまうでしょう。元々、易経の内容は戒めや注意を促すような反語的表現の形式をとっているものが多いので、その辺の含みを加味しないと真意を逃してしまうことがあります。例えば恒も、「この卦を得たら平穏だ」みたいな一義的な解釈は通じません。少なくとも、「そのための努力は必要だろうな」という認識が必要です。
裏卦は風雷益。損の対概念。「損して得取れ」の卦が損なので、益は「益して得取れ」――利益を得て、それを還元することで信頼などを得る。実益を得ることで別の価値や次の仕事の動力源にできます。単なるサービス一辺倒ではなく、きちんと自分や関係する人々の生活のことも考えるという態度。恒が社会の中での持続可能な立ち位置(居場所)を見つける必要があるのに対し、益は会社と家庭、社会と個人など、規模や役割が異なるものとの「つなぎ」を表わしています。狭義的には、恒が身近な人間との、益が外の世界との折り合いを示していると考えてもいいでしょう。
シンメトリー関係は小過。中孚で最適さを見出すのと対照的に、小過では中立や中庸状態から抜け出していこうとします。これにより内的なバランスが大きく崩れ、これまで培ってきたことに風穴が開きます。そしてその穴に今までの自分の生活になかった刺激が入り込んできます。中孚としての特定の状態に収まっていたり、恒としての夫婦・パートナーとしての関係を続けている時に、そうした触媒が持ち込まれると、とたんに平穏さが失われ、何かしらの面倒事とかトラブルが発生しやすくなります。固定された関係に亀裂が入る、もしくは自分から入れてしまう状況。スリルを求めての冒険心や何かを守ろうとする優しさが逆に仇となってしまったりします。
中孚と小過は、いわば卵の殻と、その殻を破る刺激という関係です。完成型と型破り。閉じている世界をこじ開ける。中孚は、これまでの自分の生き方の中で学んだり身につけてきたことの総合的な到達点なので、一つの成就とか達成の証です。卵が適度な塩分濃度の水の中で真ん中に留まるように、特定の考え方・趣味・価値観・生活スタイルなどの中に収めようとします。それは無意識に行われることが多いので、仮に他人から「不適切なやり方だ」と指摘されても意識的に改めようとはしない限りは直りません。いわば改宗を迫るようなものですから、頑なに自分の信念に忠実であろうとするわけです。
恒も小過も、現在の状況と別の環境・価値観との狭間に置かれる性質があるので、その中で自分がどんな選択をするのかが大切になってきます。そこでどちらの道を選ぶにせよ、自分に関わる人達にも影響が及ぶことを考えに入れておきましょう。恒も小過も変化という易の本分の歯車の一つなので、日常を守ることに対しても自分の意思を守ることに対しても根底的な揺らぎ経験します。これにどう対処するかで未来が決定されるといっても良いと思います。
<爻意は後日、追加更新します。>
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