そんな身近でもないですが、大きな意味では身近なところでショッキングな出来事がありまして、
生死のことを深く考える機会を頂きました。
社内でも労働災害の手続きに関わったりしているので、
どの人にも大事に至らない、もともと事故など起こってはいけない、
ってことが一番重要なことなんですが、
何かが起きたときに生死を分けるものはなにか、って考えてしまいます。
自死であれ事故であれ、そこで命が終わるのであればそれは寿命なのか、とか
何かが起こる時にはサインが出ているはずなのになぜ誰も見つけられない、見逃してしまうんだろうとか。
それもまるっとひっくるめて
生まれる前の契約に組み込まれいるんだろうか、とか
とりとめもなく考えます。
「神々からのメッセージ」というサイトで、3月1日の配信では、
自然に生きる、ということについてメッセージが書かれていました。
その中で惹かれたところが、
「自然に生きるとは、潔く(いさぎよく)生きること。生(せい)も死も、すべてを受け入れ、先行くほどに自身のなかにより一層の力を蓄え、再生への道筋、自然という壮大なる巡りのなかに、その身を委ねきる生き方なり。」
という一節でした。
生も死もすべて受け入れる。かあ。
しっかり生きて
しっかり死を迎える、
ってことが大事なことなんだろうなあ。
うっかり死ぬ、なんてことは自然に身を委ねきっていない生き方だったってことだろうか。
もちろん自ら死を選ぶのは、神をも今まで大切にしてきた人やされてきた人をも傷つける行動なんだろうなあ。それは自然の巡りに相反する事だろうなあ。
たとえ真っ暗なトンネルが何年も続いても、
ある日気づいたらもうトンネル抜けてて、ただ夜明け前だった、ってこともあるわけだし、自ら命を断ち切ることは衝動的にもしちゃいけないことだなあ。
つらい時に希望を持てる自分でいたいなあと思います。
大きな幸せばかり追ってしまうけれど、
よく見れば、小さな幸せがたくさん転がってるんだよね。
昨日はそんないつもは見逃すような小さな幸せをたくさん見つけて過ごすことができました。
「何事も変化する」ということがこの世の中で唯一不変なものだと思っているので、
今日はだめでも明日はきっといい。
大丈夫、頑張ろうって思えますね。
さ、今週も一週間、がんばろー。