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好日25 アジアの暗黒星雲

2008年06月01日 11時05分24秒 | 好日21~45

 橋川文三ゼミの第一回目の時の話だが、先生は、「この際、書物の読み方について述べておきましょう」と仰った。

 私は加藤周一の『読書術』という本を読んでいたので、〈精読が大事である。しかし乱読も必要である。速読術というのもあって、キーワードを押さえる。ま、そういう話だろう〉と思った。

 しかし、先生の話はそういうのとはまるで違っていた。

「本の読み方には、詩的・直観的に全体をパッとつかまえる方法と、論理的・分析的に順序を立てて辿っていく方法とふたつある。まず、詩的・直観的に全体をパッとつかまえる方法は、間違えたり勘違いすることが非常に多いので危うい。次に、論理的・分析的に順序を立てて辿っていく方法は、細部のつながりが正確というメリットはあるものの、前提が間違っていると全然逆の結論に到着することもあり、これも問題が多い」と、どっちもダメと、ぴしゃりと言い切られたのだ。ではどういうふうに読めばいいのか。私は、興味深く、次の言葉を待った。

「どちらも問題が多い方法ではあるが、このふたつを慎重に組み合わせて書物を読んでいくと、真理に接近することは、必ずしも不可能ではない」と、先生は結ばれたのである。

〈真理に接近することは、必ずしも不可能ではない〉。この言い方に私は感動を覚えた。この橋川氏の読書術に関する話は、加藤周一の教養主義的な読書術とは、まったく次元の違うものと私には受取れた。それは真理の内発性という根本的な問題に関わる。橋川文三が本物の知識人であることは、この読書術に関する話を聞いただけで、その時、私には確信できたのである。

 橋川文三は、『柳田國男ーその人間と思想ー』の中で、魯迅ならびに柳田を「アジアの暗黒星雲」に喩えている。読んだ時に、そこの部分が印象鮮明で、きっとこれには何か意味があるのだろうという直観があり、そこが私は前から気に懸かっていた。

 ところが、筑摩書房の『アジア主義(竹内好編)』を読んでいたら、堀田善衛が『三酔人経綸問答』を論じた文章の中に、次の一節があるのを見つけて、長い間の疑問が氷解したのである。

「南海先生は、なぜ、―私は宇宙の本質は暗黒星雲だなどと言おうとするのではないが―暗黒星雲のように、実質として存在しながら、自ら光を発することなく、特異な、つらい「傍観者」として存在してきたか。簡単に言えば、ついて行ききれなかったからである。何について行ききれなかったか。洋学紳士の自由平等、民主化徹底、軍備撤廃、世界政府論にも、また豪傑君の、侵伐、帝国主義膨張政策にも本心からついて行けなかった」
(堀田善衛「日本の知識人」より)

 つまり、橋川氏は、魯迅や柳田を、実質として存在しながら、自ら光を発することなく、特異な、つらい「傍観者」として存在してきたという評価を下すことによって、暗黒星雲に喩えたということである。一語の選択にも苦心を払った橋川文三の才能を惜しむ気持ちが深まると共に、南海先生の本質は、橋川文三の立ち位置にも通じるところがあると思った。

「いま そこを動くな/いま そこを動くと/永遠に迷ったまま墓場にいくのだ」

 これは土方巽の言葉である。私も今はただここに佇むしかない。アジアの暗黒星雲こそ我等が住処なのだ。

★土方巽 Hijikata Tatsumi - 肉体の叛乱


好日24 竹内好の復権

2008年02月11日 01時39分20秒 | 好日21~45

学生時代、橋川文三の日本政治思想史のゼミナールで使ったテキストで、特に印象に残っているのは、次の三冊である。

一、『日本浪曼派批判序説』橋川文三

ゼミの最初に橋川先生が「どんなテキストを希望しますか」と聞かれ、「え? 何を希望してもいいんだ。それなら、これしかない」と考えて、私が提案して決まったもの。先生は八〇分間フルに『日本浪曼派批判序説』という書物について語ってくれた。この一回の講義で入学金の元は取ったなと感じたくらい感動した。

二、『日本の思想』丸山真男

そろそろ丸山真男をテキストに選びたいという雰囲気がゼミ員の間に煮詰まってきた頃に、誰からということもなく提案された。

三、筑摩『現代日本思想体系』の『アジア主義(竹内好編)』

先生から「これはやっておかなければいけない」と指定されたテキスト。アジア主義? 何それ? と思ったくらい、その頃の私(たち)は無知だった。でもまあ、いろんなことを知っておくのは悪くないと思って受け入れたのだった。ところが、この竹内好編の『アジア主義』は、四~五ヶ月くらいかけて丁寧に精密に読んでいく講義だった。密度が濃かった。学部四年の十月から始まって終わったのは二月に入っていた。卒業まで、あと一、二ヶ月は残ってはいたが、このテキストを読み終えた時、橋川ゼミは終わった、学生時代も終わった、そしてひとつの時代さえも終わったというような、虚脱感が襲ったことを記憶している。

               ★

今、ある決意を秘めて、『魯迅』と『魯迅文集』を除いた竹内好の全評論の中から、私が考えるベスト三を選んでみる。

・三位 「評伝 毛沢東」

ここで竹内好は〈純粋毛沢東〉という概念を提出している。毛沢東は井岡山で根拠地を建設したが、この根拠地を毛沢東は中国の全域に拡張した。その意味で、井岡山時代に〈純粋毛沢東〉が成立したと竹内は考える。〈純粋毛沢東〉というのはユニークだが危うい概念だ。たぶん、竹内好の弱点を象徴する概念と言ってもいいかと思う。竹内好の評論のワーストワンを選ぶなら、これになる。そういう問題作だと思う。そこで三位に選んだ。

・二位 「近代の超克」

竹内好自身は、この「近代の超克」を自分の評論の最高作に挙げている。廣松渉の労作『〈近代の超克〉論』と読み比べてみる時、竹内好の卓越性が見えてくる。評論が学術論文のレベルを越えるとはどういう事態なのか。思想を扱うとは最終的には言霊を扱うことである。そういう側面が違いとして浮彫りになってくるのだ。橋川文三の『日本浪曼派批判序説』とも親和性が高い作品である。

・一位 「日本のアジア主義」(筑摩書房『アジア主義』解説)

「日本のアジア主義」は竹内好の到達点を示す。これを越える作品を竹内好はついに書けなかった。この作品は一九六三年の作だが、その二年ほどあとに竹内好は評論家廃業の宣言をしている。おそらくこれ以上の完成度の高いものはもう書けない。そう判断したのではないか。『豊饒の海』以上のものは書けぬと見極めて自決した三島の場合が想起される。「日本のアジア主義」は特異なテキストだ。竹内好がそれまでに書いた評論、それ以降に書いた評論に、実に巧みにリンクが掛かっている。つまり竹内好の全評論に対してのメタ・テキストの位置を、この作品は占めている。

★毛沢東が井岡山に於いて規定した「三大紀律八項注意」


好日23 エステルの香り

2007年11月14日 22時29分21秒 | 好日21~45

『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老の死に際し死臭が漂ったことに対して信仰の動揺を来たした人々の様子を克明に活写したドストエフスキーは、一転して、エピローグの中で少年イリューシャの死の状況をまったくさりげなく叙述している。

「アリーシャは部屋に入った。襞飾りのある白布で覆われた青い棺の中に、小さな両手を組み合せ、目を閉じて、イリューシャが横たわっていた。痩せ衰えた顔の目鼻だちはほとんどまったく変わっていなかったし、ふしぎなことに遺体からほとんど臭気も漂っていなかった」(原卓也訳・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』「イリューシェチカの葬式。石のそばでの演説」より)

アリョーシャは、ゾシマ長老の死に際して死臭がするかしないかの問題であれほど皆が信仰の動揺を来たすことに驚いた。イリューシャの葬儀の後、友人の少年たちを集めてアリョーシャは最後の演説を行う。その席でアリョーシャは、少年イリューシャの死の際に死臭が漂わないという奇跡が起こったことにまったく触れていないことに注意する必要がある。この感動的な最後の演説の場面には、何かしら漂ってくるものがあると私は感じる。それはきっとエステルの香りだったかもしれない。

ところで、アリョーシャ最後の演説は、「言霊降臨」の注釈になっているような部分があるので、そのまま引用する。

「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何ひとつないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立うるのです」 (同『カラマーゾフの兄弟』より)

何よりも大事なことはドストエフスキーから出発すること。そう考えた私は、ドストエフスキーという語句を基にして、動画サイトでネットサーフィンを試みた。こうして私はドストエフスキーを導きの糸として、ビタスとブルガーコフに出会ったのだ。

ビタスは現代ロシアの天才歌手である。三連休の前日にたまたま発見。朝の四時くらいまで引き込まれた。金・土・日と三連休だったが、毎日六時間くらい聴いていた。四日間で計二四時間ビタスを聴いた。聴くたびごとに新しいビタスがそこにいた。結局のところビタス以外に今まで音楽で本当に私が感動したことは一度もなかったことに気づいた。こちらが彼の声を聴くのではなく彼の肉声によって捉えられるとはどういうことかを知った。

ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』原作のロシアのテレビ放送番組を、無料動画サイトで観ることができたのは、もうひとつの幸運であった。無神論を国是とする革命ロシアに悪魔が出現し、モスクワを大混乱に陥れるという内容の小説が現代感覚の映像に置き換えられている。ロシア語は分からないが八時間の番組を飽きずに観とおした。現代ロシアの底力を感じさせるような作品である。番組を見てから原作も読んだのだが、『巨匠とマルガリータ』は、二十世紀ロシア文学のまぎれもない最高傑作である。

★巨匠とマルガリータ2005年:ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に匹敵する傑作★


好日22  言霊降臨

2007年08月16日 21時44分39秒 | 好日21~45

 僕がまだ大学一年生の時のことである。戦友との同窓会のために上京した父は、次のメモを残して帰っていった。

「今日靖国神社の社頭に祈念して、大東亜戦争で散華した二六〇万の青年・壮年の英霊に対して涙にくれた。其人達の中には何十万という高校大学の学徒出陣の人達もいる。彼等は決して日本の軍部にだまされたのでも無く、資本家の犠牲になったのでもない。唯一路、父のため母のため兄弟のため郷土のため日本民族のため何等迷うことなく青春多感の命を捧げたのである。一路勉学に励まれんことを家族一同願っている」

 言霊が発せられたのである。霊魂の波動が伝わってくるような気がする。父の言葉は、時を超えていまなお僕の魂を揺るがせ続けている。これは大事な言葉だから記録しておこうと考え、日記帳に書き写してあった。その日記帳からもう一度書き起こしてみたのだが、これはほんとうに名文である。小林秀雄にもこれほどの名文はなかったと思うのだが、言い過ぎだろうか。

 これは僕がまだ小学生の頃の話。僕の田舎は日本海側の大きな海水浴場がある町で、家は土産物店を営んでいた。子供の頃から夏になると店の手伝いをした。ある日のこと、いつものように家族総出で店でおみやげものを売っていた。いつも器用な弟が、たまたまその時にあまり上手に包装できず、お客さんから包み直してほしいと要求されてしまった。誰も手を出さなかったが、お客さんが待っているので母が包み直した。お客も帰り、みんな奥に戻ったのだが、弟の怒ること、怒ること。母に殴りかかる。止めに入ったのだが、弟の興奮は納まらない。まだ母を殴り続けようとしている。その時だった。母もついに怒った。そして、「すな!」と叫んだ。そうだ、そんなことをするな。「やめとけ!」と僕も叫んで、なおも殴ろうとする弟を止めていた。ところが、次の母の一言で、僕は立ちすくんでしまった。

「やめとけ! 叩かしてやれ」と母は叫んだのだった。母が怒ったのは、弟にではなく、止めようとする僕たち兄弟に対してだったのだ。僕は、不思議な声を聞いた思いで、思考が混乱し、金縛りにあったようになってしまった。母が叩かれる光景をただ見守る以外になすすべもない。ところが、母に何度も突進した弟は、勢いあまって、大きな音を立てて転倒しまった。怪我はないか、みんな心配して駆け寄ったのだが、一番心配して声をかけたのはもちろん母。弟は気がそがれたのか、それで騒動は収まってしまった。男ばかりの四人兄弟で、この弟がいまでは一番の親孝行者。

 それにしても、「すな! やめとけ! 叩かしてやれ」、小学生高学年の頃、母から聞いたあの言葉。あれもまた僕にとっては全身を貫いた言霊であった。戦争が終わって六十二年。父はすでに先祖代々の墓の中で眠っている。母は高齢だが健在である。

 戦場から帰還した兵士とその妻から生まれた男児がここにいる。彼は何者か。今後どんな人生を歩むのだろう。彼は今日ドストエフスキーの『賭博者』を再読したばかりだ。数日前にはミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を再読している。彼はドストエフスキーに倣って最後の言葉を準備でもしているのか。

 この惑星の、ある一点で、ひとつの不思議な力が育ちつつあるのではあるまいか。父と母から伝授された力を使って、彼は人類に向けて、新たな言霊を発しようとしているのではないだろうか。


★言葉、言葉、言葉。愛なくして、言葉はない。


好日21 詩人としての橋川文三

2007年05月21日 20時03分20秒 | 好日21~45

「橋川さんは何を求めていたの? そして、その求めていたことの答えは得られたの?」

 橋川文三ゼミの同窓会での席上でのこと。乾杯の音頭がすむかすまないかのうちに、究極の質問を、幹事のO君が仕掛けてきた。いきなりのことで、誰も即答できず、その時は他の話題に流れたのだが、三次会に移って、再びO君が皆に訊ねた。

「ぼくはみんなと一緒に橋川さんに学んだけれども、他の分野へ行ってしまった、離れてしまったという気持ちを持っている。だからみんなに聞きたい。橋川さんはけっきょくのところ何を求めていたのか。で、その求めていたことの答えは得られたのか」

 この問いに、M君は、「それは自分で答えるべき質問だね」と、賢者らしい答えで返した。なるほどそれは名答だとは思ったけれども、O君の核心をついたある意味で愚直な質問に感動し、ぼくは自分なりの答えを述べてみようと思った。

「橋川さんの問題意識の中心には、日本のファシズムとは何かという問題があった。もちろんそこから遡って研究は進んだのだけれども、最終的にはその中心に置かれた日本のファシズムとは何かというテーマに、橋川さんは還っていったのではないか」

 すぐさま横から、「でも、橋川さんは詩人だった」と声が上がった。その声で、ぼくの答えは一瞬にひび割れてしまった。橋川さんは思想史の研究者であったことは確かだが、橋川さんの本質は詩人であるということが決定的であった。橋川文三ゼミの同期生のメンバーには、誰しもそういう思いが確かなものとして共有されている。だからもっと違う別の答えが必要だったのだ。

 宴も終わりに近く、再びぼくは別の回答を披露してみた。

「橋川さんの仕事にもそれ自体に推移がある。橋川さん自体の思想史があったのだ。ダンテの神曲は、ダンテの魂が死後の世界を地獄・煉獄・天国と巡る話だが、橋川さんの仕事も同じように三層から成り立っている。『日本浪曼派批判序説』は自分の魂を切開する労作であり、あれは橋川さんの地獄巡りだ。そこから時代を遡って行き、さまざまな人の煉獄に生きる世界を描いた。これが橋川さんの本来の日本政治思想史の仕事になる。しかし最後には橋川さんは白鳥の歌のような調子を帯びた美しい語り方に到達している。まるで歴史を天国から見渡す視線を獲得しているかのごとく。したがって、橋川さんの仕事の全体は、地獄・煉獄・天国の三層を描いたダンテの神曲という作品とパラレルだ。これが橋川さんが何を求めていたのかという問いへのぼくの回答だ」

 この話を聴いて、橋川文三研究家の肩書きを持つM君が、「それは誰も言っていない仮説だ、書くといいと思う」と、同意を示してくれた。

 この好日シリーズで、ソクラテスを取り上げ、次に橋川文三を論じたが、この二人には共通点がある。二人とも、若者を愛し、友愛のみを信じた。その場にはいつも友愛に満ちた対話が残された。それがソクラテスと橋川文三のいる宇宙で起こった出来事であった。

 ソクラテスのことをしのびつつプラトンが友愛の対話篇を創造したように、いつかぼくも橋川文三の不可思議な偉大さをもっと具体的に語るべきであろう。だが準備は整っていない。今は思いを一つの歌に託すのみ。

 若者を深く愛する神ありて もしもの言わヾ、かれの如けむ


★ダンテ『神曲』連続講義|今道友信