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好日30 西郷隆盛の「敬天愛人」

2009年08月26日 13時05分19秒 | 好日21~45

 橋川文三が、「私はキリストの連想という妙なことがらに興味を持つ」と書いたのは、最晩年の著作『西郷隆盛紀行』の「あとがきに代えて」の中においてのことであった。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(新共同訳『聖書』「マタイによる福音書」、日本聖書教会)

 この「マタイによる福音書」二二章三六節~四〇節が自由に翻案されて、中村敬宇(正直)の次のような文章を生んだ。

「天は我を生じる者にして乃ち我父なり。人は我と同じく天の生じるところとなし、乃ち我兄弟なり。天はそれ敬せざざるべけんや、人はそれ愛せざるべけんや」。

 西郷隆盛のもっとも愛した言葉「敬天愛人」は、中村敬宇が明治元年に唱えた「敬天愛人説」からきていたのだ。

 こういった経緯を私は、橋川文三の『西郷隆盛紀行』から学んだのであるが、 西郷隆盛は「敬天愛人」の思想を実践することにより、敬虔なキリスト者としての生涯をまっとうしたということもできるのである。橋川文三に触発されて、私がキリストの連想という妙なことがらに興味を持つようになったのも、まったくこの関連からである。

 ところで、橋川文三の西郷隆盛への関心は、竹内好の論文「日本のアジア主義」の中の、次のような認識と相関している。

「こうなるとアジア主義の問題は、一八八〇年代の状況や一八九〇年代の状況においてだけ考えるのでは不十分で、もっと古く征韓論争にまでさかのぼる必要が出てくるかもしれない。言いかえると、西郷の史的評価ということである。」

「西郷が反革命なのではなくて、逆に西郷を追放した明治政府が反革命に転化していた。この考え方は、昭和の右翼が考え出したのではなくて、明治のナショナリズムの中から芽生えたものである。それを左翼が継承しなかったために、右翼に継承されただけである。」

「西郷を反革命と見るか、永久革命のシンボルと見るかは、容易に片付かぬ議論のある問題だろう。しかし、この問題と相関的でなくてはアジア主義は定義しがたい。」
(竹内好「日本のアジア主義」筑摩書房『アジア主義』解題)

 坂本龍馬は、かって勝海舟に対し、「西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう」と述べたことがある。

 ドストエフスキーは、キリストをモデルに『白痴』という小説を書いたが、この白痴の主人公ムイシュキン公爵もまた、「もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口」であるようなキャラクターとして造型されている。

 西郷隆盛の「敬天愛人」の思想が、アジア主義と相関しているだけではなく、キリスト教神学とも相関していることは、われわれが竹内好橋川文三から継承した最も重要な思想的遺産である。

 われわれの思想的位置を、私はこのように考える。


★パゾリーニの映画「奇跡の丘」より


好日29 橋川文三の好日

2009年05月16日 13時26分07秒 | 好日21~45

東北大学の大学院生が指導教授に二度も博士論文を提出したのに受取ってもらえず自殺したというニュースが報じられている。何という暗い師弟関係だろう。胸が塞ぐ思いがする。

このニュースに接した時、私は学生時代のゼミの教官であった橋川文三氏のちょっとしたエピソードを思い出した。日本政治思想史の教授であった橋川文三先生のことを、僕たちゼミ生は親しみを込めていつも橋川さんと呼んでいた。だからここでもただ橋川さんと記載させていただくことにする。

橋川ゼミの合宿での呑み会でのことだった。橋川さんは、紅一点の女子生徒にむかって、「ゼミの成績ですが、評価は女性にも男性にも全員に優をつけます。だから安心して下さい」と仰ったのである。全員に優を付けると最初から決めるのは教官としてはそりゃ問題だろうと私は思った。しかし橋川さんがわざわざ「女性にも優をつけます」と公言される理由が知りたかった。

橋川さんは「ちょっと弱いかな」と思って女子生徒に良をつけたことがあったそうなのである。ところがその生徒は卒業してからも会うたびに「でも私は良しかももらえなかったからな」と何度もそのことを持ち出して、橋川さんを苦しめたのだった。

私にはその女子生徒の気持ちがよく分かった。他の科目はいざ知らず、橋川さんにだけは優をもらいたかったのだ。良だったということはまったく想定外であった。裏切られたような気持ちだったのだろう。橋川さんにしてみれば、こんな些細な事実が人を傷つけることがあるとは、これまた想定外のことであった。必ず女性にも男性にも全員に優を付ける。これが橋川さんの下した決断であった。こんな人は教授は勤まっても、たとえば学部長とかにはもちろんなれない。

橋川さんの日本政治思想史の講義は、開始時刻がわりと朝早かった。同じ講義が第二部でもあったため、朝の講義を聞きそびれた時は私は第二部の講義を聞くことにしていた。夜はこじんまりした小教室で、講義を受ける学生たちもせっせとノートを取ってまじめであり、教室はいつも厳粛な雰囲気が漂っていた。

橋川さんの日本政治思想史の講義でいちばん感銘を受けたのは、石原莞爾の東亜連盟の思想と運動をテーマに語られた日のものであった。私はこの日の講義は、あまりに面白かったので、朝と夜と二回聞いている。蒋介石の北伐から始まり、混沌とした中国の近代史の歩みの中で東亜連盟の思想が立ち上がる光景がビビッドに語られる。それは思想と現実が交差する真の歴史の実相を描いた名講義であった。

やがて石原莞爾は東条英機との権力闘争に敗れ予備役に編入される。故郷鶴岡に隠遁を余儀なくされた石原の元に、東条は憲兵を差し向け、監視を続けた。この日の講義は、この憲兵と石原との次のようなエピソードが紹介されて終わった。

憲兵「閣下。閣下は東条閣下と思想が合わないのでありますか」
石原「東条と思想が合わないって? そんなことはないよ」
憲兵「さようでありますか。東条閣下とは思想が合わないと聞いておりましたのですが、どういうことでしょうか」
石原「東条には思想がない。俺には思想がある。だから合わないということはない」

 ここで教室は大爆笑。名講義の見事な幕切れであった。

★東京裁判 - 東条英機の頭をはたく大川周明★


好日28 ロマンチック・アイロニー

2009年02月18日 02時07分18秒 | 好日21~45

 こういう光景を思い浮かべてみた。ひとつのロマンチック・アイロニーの画像である。

 飛行機が大量のビラを撒き散らした。子供たちはビラを拾って紙飛行機を折る。そしていま、子供たちの折った千機の紙飛行機が、本物の飛行機を追いかけて行く。

 ロマンチック・アイロニーという言葉は、夏目漱石の『三四郎』の中に出てくる。『三四郎』はロマンチック・アイロニーそのものといっていいような小説である。漱石ではいちばん好きな作品だ。

 大学の講義に出た後に、三四郎は偉人のような態度で近くの交番まで歩いて来た。ちょうどそのところを、友人の与次郎に見つかって大笑いされる。「なんだ」と聞くと、与次郎は「なんだもないものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」と答える。三四郎にはこの洋語の意味がよくわからなかった。この後、漱石の『三四郎』は次のように続いている。

「与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰った。その晩取って返して、図書館でロマンチック・アイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。」

 このような伏線があって、後日の団子坂における三四郎を含む総勢五名のだらだら歩きの名場面が続く。天才のような気分になってぶらぶら歩きをする。それこそ何時に変わらぬ青春の本質であろう。『三四郎』は永遠の青春の自画像を描いた傑作中の傑作である。

 ドストエフスキーもまた、ロシアにおけるロマンチック・アイロニーを描いている。誰よりもエネルギッシュに、誰よりも過激に。

「もし生活の経験のない青年が、やがてそのうちに一個の英雄になろうと空想しているとしても、それがいったいなんだろう? 誓っていうが、おそらくは、こうした思い上がった空想のほうが、年端十六にして早くも『静かな幸福のほうが英雄になるよりましだ』という処世訓を信じている他の少年の賢い分別よりも、はるかに人間を生かす力を持った、有益なものであるかもしれないのだ。」
(米川正夫訳・ドストエフスキー『作家の日記』 一八七七年一月 第二章一「科学抜きの和解の空想」より)

 ラスコーリニコフも、ムイシュキン公爵も、そしてイワン・カラーマーゾフも、いわば空想しているだけの青年に過ぎない。だがその架空の青年たちの熱烈な空想に、ドストエフスキーは膨大なエネルギーを注ぎ込んだ。おそらくそこには、ドストエフスキーの青年時代のロマンチック・アイロニーが、そのまま投影されている。

 漱石やドストエフスキーは「大きな時計」である。彼らの言葉はいまなお新しい。しかし漱石やドストエフスキーの言葉の新しさというのは、なかなか気づくことができない。漱石やドストエフスキーは「進みすぎている」からである。小さな時計を集めても現在を超えることは出来ない。大きな時計が我々には必要なのである。しかし、その大きな時計は未来を指し示している。

 漱石やドストエフスキーが「大きな時計」であることに、はたして誰が気づいているか。ロマンチック・アイロニーの気分を失っていない人だけが、そのことに気づくことができるのだ。

★美しき五月のパリ★


好日27 戦後最大の思想家は誰か

2008年11月15日 03時05分30秒 | 好日21~45

 私の選んだ戦後思想家ベスト3とその最高傑作をここに提示して、その撰の妥当性に関する皆様の判断を仰ぎたい。

★一位 橋川文三 『昭和思想集2』(近代日本思想大系36 筑摩書房刊)

 橋川が亡くなったとき、吉本隆明は弔辞の中で橋川文三のことを次のように評している。「わたしはいまもじぶんを、おおきな否定とのり超えの途上に歩むものとかんがえています。こういうわたしの眼からは、橋川さんは、すでに歴史の方法をわがものとした完成の人と映り、羨ましさに堪えません」(『信の構造③全天皇制・宗教論集成』より) 

 もし橋川文三が、「歴史の方法をわがものとした完成の人」であるとするならば、そのことを証明する書物は、どれであろうか。それは『日本浪曼派批判序説』ではない。『批判序説』は橋川文三の出発点ではあっても、到達点ではない。

 わたしの考えによれば、橋川文三の到達点を象徴する書物は、昭和の思想的文章を橋川が撰した『昭和思想集2』(筑摩書房刊)である。橋川文三は怖ろしいまでの気迫を込めて、後世に残す形見として、これらの文章を撰んでいる。また橋川文三の解説文は、それ自身橋川の最高傑作でもある。

 藤原定家の最高傑作は、定家のあれこれの歌集ではなく、和歌の撰集である『小倉百人一首』であると保田与重郎がどこかで述べている。『小倉百人一首』はカルタになり、日本の詩歌の妙なる調べをこの国の家庭の隅々にまでもたらした。それが定家の最大の功績であると保田は述べた。同じような意味で、橋川の最高傑作は『昭和思想集2』である。

 橋川文三が戦後最大の思想家であることの証明おわり。

★二位 吉本隆明 『吉本隆明五十度の講演』紀伊国屋店刊

 吉本隆明の本質を、一言で述べるならば、彼は沈黙の意味を掘り下げていった思想家である。

「じぶんの組織とおまえの組織とは話が通じない、きみとわたしとは話が通じないということが、いわば、結合の唯一の契機であるようにおもわれます。いわば、この話が通じない部分にこそ、現在の体制からおいつめられた個人の、また集団の本音が、本質が存在し、またヴィジョンとして浮かびあがってくるからであります」(『吉本隆明全著作集 14』)

 吉本隆明がこのヴィジョンを提示したのは、昭和三十六年十一月十九日の講演においてであった。そして、まったく同じヴィジョンを、平成二十年七月の「芸術言語論」と題する講演でも述べている。曰く、「沈黙は自己表出であり、言葉は指示表出である。より重要なのは沈黙であり、言葉はおまけでしかない」。吉本隆明は同じ井戸をたゆまず五十年間掘り続けていたのである。

★三位 小林秀雄 「信ずることと考えること」(新潮CD)

 講演の名手小林にしては珍しいまでに感情をあらわにしている。その声は猛り狂っている。「信ずることと考えること」は小林秀雄の一番出来の悪い講演である。にも関わらず、この講演を活字に起こした『信ずることと知ること』は、小林の最高傑作である。最低の出来の講演が、なぜ最高の文学作品を生むのか。これが小林秀雄の晩年最大の問題性であり謎である。だが、私はその謎を既に解いた。



好日26  ドストエフスキーの好日

2008年09月16日 17時25分35秒 | 好日21~45

 ドストエフスキーは死刑の宣告を受けたけれども九死に一生の稀有な経験を得た。死刑執行の日、収監されたぺテロ・パウロ要塞から、ペテルブルグの兄ミハイル宛に出した手紙が残っている。

「今日十二月二十二日、われわれはセミョーノフスキー練兵場へ連れていかれました。そこでわれわれ全員に死刑の宣告が読み上げられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、最後の身仕舞をさせられました」(『ドストエフスキー裁判』N・F・ベリチコフ編、中村健之介編訳。以下同書からの引用)。

 死刑は中止され、ドストエフスキーには四年の流刑生活が待っていた。死刑が中止されたのは一八四九年の十二月二十二日。この日、ドストエフスキーは何を思ったのか。

「兄さん! ぼくは元気を失くしてもいませんし、落胆してもいません。生活はどこに行っても生活です。生きるということは、ぼくたち自身にあるので、外的なものにあるのではない。これからもぼくの許にはたくさんの人が来ることでしょう。人々の間にあって人間であること、いつまでも人間であり続けること、いかなる不幸にあっても落胆せず、くずおれないこと、――生きるとはそういうことであり、生の課題はそこにあるのです。それがわかりました。その考えはぼくの血となり肉となりました」。

 この血となり肉となった考えは、次のような一文に結晶する。
「生きるということは賜物なのです。生は幸福なのです。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなりうるのです」。

 恐らく、ドストエフスキー文学の創造の根源は、この一文の中にある。この単純で力強い確信をドストエフスキーは生涯手離さなかった。この確信が、彼の多くの作品を生み出し、また彼の作品のキャラクターに生命力を付与してきたのである。

 好日とは何か。この好日シリーズの原稿を書き続けながら、私はそのことを考えてきた。答えはまだ出ていないのだけれども、この「好日」という作品を完成させるためだけにも、やはり心身ともに爽快な一日(=好日)が必要であった。

 ドストエフスキーの場合、死刑執行が中止され、生に帰還した日こそが好日(=生涯最良の日)であった。そこから生の無尽蔵の活力を引き出すことができる一日であるという意味において「好日」であった。ドストエフスキーの作品には、どれにも独特の魔力のようなものが潜んでいて、私たちをそこにひきずりこむのであるけれども、その秘密は、この「好日」に得た歓喜の絶頂にある。作品そのものの力によって、私たちはそこにひきずりこまれるのだ。

 誰しも、それぞれ表情の違った「好日」の記憶を持っている。この記憶を蘇らせ、今日の一日に重ね合わせて、新たな好日を生きること。ドストエフスキーにもし学ぶべきことがあるとしたならば、この「好日」の教訓がそれであろう。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなり得る秘術としての「好日」。ドストエフスキーのすべての作品は、我々をある絶対的な「好日」へと誘う。

 ドストエフスキーは、生涯最良の日に得た確信を兄ミハイルに向かって語った。驚くべき内容をもった兄弟の対話。『カラマーゾフの兄弟』で再現されたものは、この好日の対話であった。『カラマーゾフの兄弟』とは、人類を不幸のどん底から歓喜の絶頂へと転回させようという大掛かりな実験だったのである。

★黒い瞳