古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十七章 潮岬会合 その三十三

2013年04月08日 09時18分59秒 | 古文書の初歩

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潮岬会合「乍恐言上 返答」第七ページ、上の第一行

 解読    御奉行様 

 以上一行と致します。つまり前のページの「恐れ乍ら言上」の「返答書」の宛名は、この「御奉行様」になっていて、ここで一つの区切りになっているわけです。

 今までの文章があまりにも難解でしたので、今日はこの難解な文書の復習と言う事で解説を入れます。二行目からの文書は奉行の回答になっていますが、この復習が終わってから再開します。

 ① 潮岬会合の背景  潮岬会合とは、近世(特に江戸時代)に潮岬を中心にした鰹漁の独占を狙って沿岸浦々が一組にまとまった漁業共同体の事を言います。地引き網漁の様な地先漁ではなく、沖合の漁業ですが、現今の様に沖合遠く出漁するものではなく、嶋や岬を目の前にした漁場でした。年に三回、各浦の庄屋や漁師代表が、潮岬突端に鎮座する「潮御崎神社」(近世では水崎明神『みさきみょうじん』と呼ばれていました)に集まり、その年の鰹漁に関する取り決めや違反者に対する処分・他所者に対する禁止事項などを検討し、共同の利益を図った所から「潮岬会合」の呼称があります。

 ② 寛永十四年(1637年)四月、上『かみ』の七浦(田辺・印南など、潮岬地区から見て上になる)が南の串本方面の浦々を相手に、周参見代官所に訴訟を起こしました。上浦は以前から、伊勢の方面まで鰹漁に出漁していましたが、周参見管内の古座浦等が、団結して「えど鰯を捕らせない」と言い出したと言う訴えです。「えど鰯」とは餌所『えどこ』に集まる鰯の事です。当時の鰹漁はイワシの生き餌を使った漁法で、えどいわしが群れるえどこは、ほとんど地先の嶋の脇にありました。

 ③ つまり古座浦等は地先権を活用してえどこを押さえ、他浦の鰹漁の排除を図ったのです。これは、沖合い漁業を入会『いりあい』とした以前からの慣習の虚をついたもので、「潮岬会合」とはえどこを縄張りの根拠にした組織であったと言っても過言ではありません。特に潮岬周辺は、えどこと釣り場が近接している好環境にありました。これに対して上浦は、「地先とは、どの浦でも地引き網の範囲である」と主張して、下浦の不当ぶりを訴えたのです。

 ④ この訴えに対して、下浦側は「言上に対する返答」という形で、「上浦の言い分は偽りで、前々からえどこは入会ではなかった、浅野藩時代に浦奉行の植木小右衛門殿が、両者対決の現地視察を行い、先例通り見老津~下田原間の網代である事を認めている、この時同奉行は当時の田辺藩主の「場所は何処でもよいから、えどこ一箇所を与えてやって欲しい。」と、たっての要望があったので、「やむなく田並と江田の間のわらべが石というえどこ一箇所を分け与えた。」と返答しています。

 ⑤ 今まで読んだ文書は、(イ)上浦の訴え「恐れ乍ら言上」、(ロ)下浦の返答「恐れ乍ら言上に対する返答」と言う二つの文書でした。細かいところまでは説明出来ていませんが、おおよその内容は以上の通りです。この解説は「串本町史・通史編229ページ~232ページ」から引用させて頂きました。