AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

心の繋がりにおいてはSNSなんてどうでもいい

2024年01月09日 | 人との関わり(愛とか)
(本日二つ目の投稿なり)

一つ目の続きとして書きますと、

長い期間に渡って自分が自分にかけていたブロックが外され、
ようやくまともな(?)ブログが書けたように思っていて、
それと同時に新しく気づいたことが、
波のようにやってきたので、
その波に乗って書こうと思います。


このブログを読んでくださってる皆様のほとんどが、
何かしらのSNSをやっていらっしゃると思います。

私も多分に漏れず
Facebook,Instagram,Xをやっています。

Facebookにおいては
「個人的なお友達サロン」」としているので、
私のwebsiteではご紹介していませんが、
他の二つは一応公開していて、
Facebookと同様に、
日々のことを投稿したり、
youtubeから引っ張ってきた音楽をリンクしたり、
たまに自分が歌っている動画などを投稿したり、
LIVEの告知などに使わせてもらっています。

でも、どちらにしても頻繁に投稿するタイプではなく、
この三つの使い分けなんかもあやふやでして(笑)、
で、全てのSNSに投稿したいという重大な内容なんてものもそんなになく、
(LIVE告知は全部でやるけど)
いつも迷っています。

私にとってSNSって何だろう?となった時、
やはり「軽いサロン」という位置付けです。

特に「〇〇が好きな人と繋がりたい」というのもなく、
(そもそも誰かと繋がりたいほど好きな〇〇がないっていう、笑)
本当はこれから自分のファンを増やし繋がるために、
ちゃんと上手に使いこなす必要があるのですが、
その辺はまだ戦略を練らなければなりません。


今は、
なんとなくサ〜〜〜っと目を通して、
「みんな元気そう。良かった、良かった。」
そんな感じです。で、「いいね」とかしてみたりしてね。
たまにコメントなんかも入れたりしてね。


どういう人たちと繋がっているかにもよりますが、
Xでの呟きにしろ、インスタの写真にしろ、
Facebookでの近況報告にしろ、


一言であれ、
一枚の写真であれ、


その人にとってみれば、
多分「命」かけてない、笑。

もっと言えば、
そこにその人の「心全部」があるかと言ったら、
多分・・・絶対ない。


SNSはみんながサーーッと軽く通過するものであり、
投稿する側もサーーーと通過するついでに
じゃあ、自分もサーーーっと投稿する。

それくらいカジュアルなものなのだと思います。


もちろんSNSを真剣にビジネスで使っている人は別だけど。
でも、それも「ビジネス」じゃない?
「その人そのもの」ではない。


ここまで長々と書いてきましたが、


SNSというのは人の心と繋がるところじゃない、


ということを改めて感じている、ということ。


自分にとって大切な人たちというのは、
SNSで繋がっていても、
「SNSで」繋がってるわけじゃない。


大切な人たちの近況だの、呟きだの、写真を見れば、
その人を思い出すけれど、
思い出すものはその投稿とは全く関係ないものだ。


ただ思い出すきっかけをくれるだけで。


思い出すのは「自分の心が知ってるその人」だ。



ほんの一枚の写真、呟きなどで、
その人のことが「分かる」わけがないのだ。


分かるのは心で繋がっている時だけだ。


例えば、
私がSNSをやめたとする。
もしくは自分の友人がSNSをやめたとする。


何が起きるかというと


「ただ、近況が分からなくなるだけ」なのだ。


SNSに縛られると勘違いをする。
「そもそもその人とどこで繋がっていたか」を。


でもそれがなくなると、よく分かる。


SNSでの一瞬のカジュアルな近況報告なんてどうでもいいことを。
その人がどこに行って、何を食べて、何を見たか、
なんてこともどうでもいいことを。


離れてみると、よく分かる。


心の繋がりというのは、「時間・空間」の外に存在している。


いつでも心の中で相手を感じることができるのだ。


いわゆる五感にばかり頼ると、
「心で感じる」ことを忘れてしまう。


でも、もっとも信用できるのは
本当は「心で感じる」ことのはずなのだ。


誰かと真の意味で繋がりたいのなら、
自分の心で感じてみることだ。


お互いの日々のあーだ、こーだなんてものは一過性のもの。
SNSの投稿と同じ。


五感では確認できないからこそ、
一番大事なところ、心、で感じるのだ。


そうすると、
自分がいかに普段から「心で感じる」ことを
忘れていたかに気づく。


今日の一つ目のブログと似てるけど、


「外側の出来事」なんて、
smoke and mirror...まやかし、だ。


本当のことは自分の内側、心が知っている。


人と繋がるのも、内側でつながり合うから、
真の意味で「繋がれる」。

で、それは時空に影響されない。



誰かを想う時って、心で想うじゃない?
頭はその人との記憶は映してくれるけど、
でも、「感じる」のは心にしかできない。


心には「まやかし」は入り込めない。


心は「嘘をつけない」のだから。


近しい人たちの近況が知りたければ、
直接聞いたっていい。

もしもそれができなくても、
「心の繋がり」には
なんら影響はないのです。


だって、
そこには「信頼」があるから。



時空を超えた心の繋がりと信頼。



という大事なことを

すっ飛ばしていたことに気づいた夜でした。



SNSはスマホなりパソコンを開かないとアクセスできないけど、
心は自分の「ど真ん中」にある。


そして、もっとも信用できるディバイスである。



感じる。



ただ・・・



感じる。




そこで感じたものが「あなたの真実」だ。










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「実はね」で話せたら

2023年12月03日 | 人との関わり(愛とか)
ブログには
自由奔放に色々書いているくせに、
近しい人に対して
「言葉を呑む癖」があることが
分かりました。


今朝、
親しい友人の一人とラインのやり取りがありました。

別に深刻なことでもなんでもない、
彼女からお願いがあったのです。

で、内容はごくごく正当なことで、
そこに全く疑問はない。

すぐさま「了解!心配ご無用よ!」的な返信をして。


けれど、私はちょっと傷ついたのですね。
それをわざわざ伝えないと、
私には分からないだろう、と思われているのではないか、って。
(全くそういうことではない、
というのはその後の会話で明らかになるんだけど。
っていうか、そんなのは最初から分かっていた)


いつもの私は
そういう「傷ついた」とか「それは嫌だ」という感情とか、
言葉だとかを呑んでしまう。


別に大したことないし、
「私が勝手に感じてることだから」と
一人で処理する。

そういう風に感じる自分が悪いのだ、って。


でも、今回はそれを言葉にした。

私にとっては実はかなり勇気のいることでした。


「ちょっと心が痛んだよ」というラインを打ちながら、
心の奥がズキズキと痛む。
このズキズキはなんだろう。


結果、いかんせん長いお付き合いの友人なので、
「いやいや、そんなつもりはなくてー!」と、
なぜ彼女がそのようなお願いをする必要があるのか、
そのバックグラウンドをお話ししてくれて・・・


「そりゃそうだ」と私はすっかり理解できた。


問題はその内容ではなくて、

私は言葉を呑んでしまう癖がある、

ということにハッとしたのです。


それは「私にとって近しい人」に対して。


近くない人であれば、
私の境界線を踏まれるようなことがあれば、
断固として真正面から立ち向かい、
流暢に言葉が出るというのに。


私がそういう(相手はそのつもりはなくても)
「傷ついた」とか「嫌なんだ」ということを
近しい人に言うとなると、


「そこからどんな展開になってしまうのだろう。
喧嘩みたいになったらどうしよう。
ナイフのような言葉がいくつも飛んできたらどうしよう。」


そういう恐怖感に襲われるのです。

そんな恐怖を味わうくらいなら、
自分で処理した方が安全だ、って。




でね。

別に伝えてもいいし、伝えなくてもいい。
ただ、「選択」があるというだけで。


今朝のことも
別に大したことではないし、
いつまでも尾を引っ張ることでもなんでもないし、
伝えなかったとしても、
なんの問題もなかった。


なぜ伝えてみよう、と思ったのかはよく覚えてないけれど、


一つ言えるのは、
すごく当たり前でシンプルなんだけど、


「相手と密なコミュニケーションができる」


ということです。

コミュニケーションを取る、ということは、
相手の「実はね」のお話を聞けること、
またこちらの「実はね」のお話を聞いてもらえること、

世間話ではなく、
自分と相手との間で発生したことなので、
「お互いを知るチャンス」となるわけです。


その「実はね」という姿勢がすごく大事なのかもしれない。


「実はね」というのは、
その言葉どおり、「本当のところ」の話。
自分を守るわけでもなく、
相手を攻撃することもなく、
「丸腰での話」、
そういうことなのだと思います。


「実はね」の姿勢がお互いにあると、
丸腰のままで向き合う、
正直「見せたくない弱いところ」もあったりするけれど、
でも多分、そうやって人は信頼関係を築いていくのだろうし、
そうすると「見せたくない弱いところ」すら、
その関係性においてはお互いにとって、
「力」「強さ」になるのかもしれない。


地に足の付いた、
一番「ボトム」にいる自分を見せるということは、
弱いところも含む自分を丸々受け入れるということ、
そして、相手に丸々受け入れてもらうということ、
そういうことかもしれません。


彼女からはもちろん、もちろんの助、
喧嘩にもならなかったし、
ナイフのような言葉も飛んでこなかった。

彼女が私の「心が痛んだ」というメッセージを読んで、
すぐ様どのような感情が湧き上がったかは分からないけれど、


彼女は
最初から「実はね」で会話を始めてくれた。


決して感情的になることも、
喧嘩になることも悪いことじゃない、

でも、最終的には
「実はね」の会話でしか
関わりは深くはならないだろうと思う。


難しいのは
感情的になったりしている時、
自分の「実はね」がよく分かってない時が多々ある。


とにかく
「相手に対しての反応」としての感情がそこにあるだけで、
実際問題、自分は「本当は何に反応して感情的になっているのか」
分からなかったりする。


お互いがそういう状態だと、
感情的な喧嘩で終わってしまう。

そして「仲直り」というのは、
それぞれがようやく「実はね」の話をできる準備ができた時だ。



さて、先に記しました、

*******
「そこからどんな展開になってしまうのだろう。
喧嘩みたいになったらどうしよう。
ナイフのような言葉がいくつも飛んできたらどうしよう。」

そういう恐怖感に襲われるのです。

そんな恐怖を味わうくらいなら、
自分で処理した方が安全だ、って。
*******


この「恐怖感」というのは、
皆さんも持っているものなのでしょうか?

もしかしたら、私個人的な体験から来ているのでは、と
今勘ぐっているところです。


そしてそれは
子供の頃に見ていた両親だったのでは、とハッとしたのです。


私の父は(今思えばその理由は分かりますが)
とても短気な人で、いつも機嫌が悪かった。
でも暴力を振るう人では決してありませんでした。

母のことがやたらとイライラするみたいで、
機嫌が悪い時は、いつも母に当たっていました。

当たるならまだしも、
なんでもないきっかけで
ものすごい剣幕て怒り狂う時もありました。

それは私や弟にもそうでした。

もはやこちらがなんの言葉も返せないほど、
こちらを追い詰める、
そういう怒り方でした。

中学生か高校生の時だか、
私は母に「なぜ言い返さないのか」、聞いたことがありましたが、

「言い返したら大変なことになるし、
私はそれが嫌だから黙っている」

そんなようなことを言っていたのを覚えています。




なんでもかんでも
過去をほじくり返せばいいわけではないし、
そこに「その恐怖心の原因」があるのかも分かりません。


ただ、
今朝の一件で
「相手から何が返ってくるか分からない」ということに対しての
「恐怖心」というものに対して、
あれ?と思ったのです。


そりゃ誰しも
誰かと向き合って話す、ことに対してドキドキはあるかもしれませんが、


私の持つ恐怖心に違和感を感じたのです。


そこでふと
私が小さかった頃の両親を思い出したのでした。



友人に「ちょっと心が痛むよ」と打って、
全くなんでもなく穏やかな会話の後も、
心がズキズキしていたのは、
あの頃にとても傷ついたままの、
自分の心がまだ残っているからだろうか。


「実はね」ではなく、
ひたすら怒りで追い詰められ、

いつも父の顔色を伺っていたような。。。



父との幸せな思い出ももちろんあり、
もうとっくに仏様になってるし、
今の私は感謝と許し、に辿り着けたと思ってるけれど、


それこそ
「心の癖」のようなものが、
まだ置いてきぼりをくってるのだろうか。




まだ「答え」は見つかりません。








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育った環境からの影響に今更気づく

2023年11月20日 | 人との関わり(愛とか)
このことは、
友人から度々言われきたことだけれど、
いつも「うん、そうだよね」くらいにスルーしていました。


言われてきたこととは、

「女子校に行ってた人って・・・」


という下りから始まるものだったのですが、


今日の午後、カレーを作りながら、
ついにそれがガツン!と、
まるで覚醒か!というような形で、
今更ながらハッとしたわけです。


私は、
幼稚園は男女共学でしたが、
小中高と女子校でした。


この「12年間、周りに女の子しかいない」
(兄弟がいたとしても)
というこの「不自然な世界」が
いかに今の自分を形作ったかにおいては、
多大なる影響はあるとは思っていましたが、
本当には分かっていなかった。


そりゃ、当然だ。
女の子しかいない世界が普通となっていたから、
そうじゃない世界がどうだか、なんて
分かりっこないわけです。


今もそうなのか、
とにかく「昭和のお嬢様学校」と言われた所で、
めでたく「お嬢様な私」というのは作り上げられたのでありましょう。


いや、自分の母校をディスるつもりはなく
そのお陰で身につけたこと、
学んだこと、
たっくさんあるのです。


けれど。


その女の子しかいない環境で、
そういう環境だったからこそ、
今一度、学び直さないといけないことがある、
そのように今日、ようやく気づいたのです。


学び直すことは可能かどうかはともかくとして、
少なくとも、
「大幅に視野が限定されている」ということに
気づかなければならないと。



小中高と女子校、
高2の時にアメリカに一年留学しましたが、
もちろん男女共学のパブリックスクールでしたが、
生きるのが精一杯でありました。

大学はボストンにある音大に行きましたが、
もちろんそこも男女共学でありましたが、
大学ですから「ホームルーム」があるわけではなく、
それぞれ教科で面子は全然違うし、
早いところボーイフレンドができてしまったが故、
私の日々は「練習」か「ボーイフレンド」か
たまに「友達」という感じでした。


そんでもって、
当時は女子生徒がとても少なく、
余談ではありますが、
私の人生の最初で最後の超モテ期になってしまったので、



要は、
いわゆる「男女共学」「男女共存」というものを
「自然な形」で経験することなく大人になりました。



帰国しますと、
音楽なんて学んでしまったので、
男女が共存する会社などに就職するわけもなく、
そのままフリーのプロ歌手としての道を歩み始めたのでした。


バイト先などで、
すんごい良い仲間たちに恵まれ、
みんなで毎週のように朝まで飲んだりとか、
1年だけ通ったアクティング・スクールの仲間も楽しくて、
本当に男女共に、たっくさん遊んで楽しい時間を過ごしたりして、

「多少は」男女共学的な経験もしたのですが、


やはり「12年間@女子校」の影響というのは、
そうそう払拭できるものではありません。


どういう影響かというと、


「普通に男女が混ざって存在し、
色々な人たちがいて、
ごく自然な男女間の友情とか、男女間の恋愛とか、
そういうのを目の当たりにしたことがない。」


ということです。


そういう自然な場所において、
色々な男性がいて、
色々な女性がいて、
それは当たり前なことであり、
色々な言動、色々な思いがあり、
そういう中で自分を知り、
他人を知り、
そういう中で、
男性を知り、女性を知り、
もしくは男女を超えて人間を知り、

という経験がほぼ皆無である、ということです。


それがどんな風に、
年月が経った今の自分にさえも、
どんな影響を及ぼしているか、
というのにやっと気づいたのです。



私の男性や、女性に対しての視野が狭すぎる。


小中高と、頭の中は
どちらかというと「おませさん」であり、
男性(男の子)の存在というのは、
やたら意識していましたが、
いかんせん私のその頃の人生には
男性と言えば、父と弟、おじいちゃんたちしかいなくて、
男の子と言えば、当時の「昭和の少女漫画」に出てくる男の子しかなく、


「恋に恋する」道、まっしぐらでありました。


男の子に興味があり、
恋したい!という青春時代爆発の私は、
「本物の男の子」に会うとなると、
男子校の文化祭に夢と希望を抱いて突進する、笑、
そんなようなものでした。


そんな努力の結果(?)
男子校チームと合コンやったりなど、
「本物の男の子」体験をした・・・
つもりであっただけで、


その頃の私にとっては、
いつまでも男の子というのは少女漫画の世界の存在であり、
例えリアルに知り合ったとしても、
今思えば、それが本当に「リアルだったか」と言えば、
私の頭の中では決してリアルなものではなかったでしょう。

それは自然なものではなかった。


そうやって、
男子という存在がやたら特別な存在であり、
同時に、女子というのもやたら特別な存在であり、

故に、
男子、女子、という、どこか混ざり合わないような、
もしくは混ざるのであれば、それは「恋愛」ベースであり、



それ以外の、
もしくはそれ以上の、
人間としての本質のようなものへの見解が
やたらと狭い、というのが、
自分に対して思うところです。



そうは言っても、
大人になって、
ここまで生きてきて、
色々経験してきましたから、
あの時のような幼稚さというのはないにしても、


やはり多大な影響はあったと、
今になって思うのです。



あ、でも、
女子校に行った人がみんな私のようになるということでは
決してないので、誤解のないように。

あくまでも
私の場合はそうである、そうであった、ということです。



一体なぜ、今日の午後のカレーを作ってきた時に、
そんなことを思い出し、
初めてハッとしたのか、
その理由は分かりませんが、


少なくとも、
そんなことに気づけたこと、
自分の男女に対する視野の狭さ、
ということに気づけたのは、
随分と進歩したなと思えるのです。



視野の狭さに気づけたということは、
ここから広げることができるということ。
これまでとは違う観点から見ることができるということ。
そういう練習ができる、ということです。



視野の狭さから起きる誤解を解けるということ。



そして、
どんな環境で生きてきても、
それは家庭であれ、両親であれ、学校であれ、
私たちは誰もがある種の「型」にはめられる。
そこからどんな観念を刷り込まされたとしても、


その観念自体は、「本当のまっさらな自分」とは別物ということ。



条件や観念は外側から刷り込まれるものであり、
私のようにあまりにそれが当たり前で
気づくことに長い年月がかかることがあっても、
「あれ?」と気づいた時に、


じゃあ、本当のまっさらな自分って?

と改めて問うことができる。


そして、
そのような条件や観念は今の自分にまだ必要だろうか?
新しい観点を持ってもいいのではないだろうか?
それはどんなものだろうか?
どうやって学び直すことができるだろうか?


と問うことができる。


もちろん、
12年間の女子校育ちだけでなく、
家庭環境や両親とか、
そのほか色々な要因はたくさんあるのでありましょうが、



一つ、こうやって気づき、
疑問を持つことができたということは、



新しい選択肢が目の前に現れる、


そういうことだと思うのです。


そうやって、
気づき、
不要なものを捨て、
本当のまっさらな自分に相応しい、
新しいものを迎えてゆく。



それも
人としての進化のプロセスの一つであり、
まだゴールではなく途中ですけれど、


今日は大きなヒントをもらえたな、と思っています。


それに今日のは気づいたと「思った」だけで、
この先にまた別の気づきが待っているのかもしれない。

なので今日の気づきにもまた、執着することなく、
常に新たな気づきや展開にオープンでいよう、
そのように肝に銘じるのであります。




こういうの、憧れてたかも、笑。
「憧れる」ってこと自体がどうなのよ?
これが自然なのにね。




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その言葉が心に響くなら

2023年11月15日 | 人との関わり(愛とか)
今季初めての暖房in my room。
北側なので余計に寒いのでしょうか、
急に冬到来で家の中でも
手足が冷た〜〜〜くなり、
「ああ、私は末端冷え性であった」と思い出す。


どうしても聞きたいことがあり、
私は再び宇宙連邦組織司令官のアシュタールさんに
会ってきました。

誰それ?という方は先月にお届けしました
『Amber色の髪に憧れて』をお読みいただければ、
いや読んでも「は?」かもしれませんが、
彼について書いてあります。


ど直球「スピ話」でありますので、
そういうの嫌な方は是非、
我慢して読んでみてください。


ここで前置きがまた長くなるのですが、
ふとね、思うことは、
ある情報や言葉、というのは、
誰が?とか、どこから?というのを注目しがちで、
確かにそれがデータである場合は、
その信憑性が大事であることは最もだと思います。

でも、「その言葉が自分の心に響くか」といったことは、
出所なんてどうでも良いと私は思います。


今でも覚えているのは、
スウェーデンの若き環境活動家のグレタさんが、
一時大変話題になりました頃、
彼女をディスる人も多かったのです。
で、私はどっちでもないのですけれどね、
ある時、彼女が色々な環境問題について語っていることは、
彼女を利用している大人たちが、
彼女に喋らせていると・・・


で、それがどうかはどうでも良いから、

「彼女の言っている言葉を聞け」

と思ったです。
その出所は知らない。
彼女の言っている環境問題についての言葉を聞いて、
自分はどう思うか、それでいいじゃないか、と。


もう一つ言うならば、
藤井風くんがサイババを信仰していて(そうなの?)、
ファンたちに布教活動をしているとか、していないとか。

それもまた事実はどうだか知らないけれど、

「彼の歌を聴け」

と思うわけです。彼はアーティストですから。
その歌を、歌詞を、聞いて、
自分はどう思うか、何を感じるか、
それでいいじゃないか、と。

例えば、とても自分の心に響いた歌があったとして、
それの出所(つまり彼がインスピレーションを受けたところ)が
サイババだと知ったら、もうあなたの心に響かないのですか?
ということだと思うのです。


頭よりも心の方が真実を知っています。


どっちが勝つか、でしょうけれど。


人というのは、
「個人的に心に響くメッセージ」をどこから得るか分からない。
どこからかたまたま流れてきた歌かもしれない、
カフェでたまたま向かい側に座っている人の本のタイトルかもしれない、
誰かの会話、友達の一言、電車の中の広告・・・

そうやって、
不思議な形で「ハッとする」ヒントをもらったりします。


ある意味、
その「ハッとする」ヒントをどうやって、とか、
誰から、とかなんていうのはどうでも良いことで、
最終的に自分が「ああ、そうか!」と思えば、
ミッション・コンプリートであります。


後は、自分の「ああ、そうか!」を信じることができるか、です。



さて、アシュタールのお話に戻りましょう😊


ということで、かくかくしかじか(ブログ読んでね)で
再びアシュタールさんに(多分、笑)会ってきたというお話。

もちろん、前回と同様、
Youtubeのキーリー聡美さんの誘導と共に。


今回は前回よりもヴィジョンを上手に想像できたので、
まあまあスムーズに行けました。

でも実は、
キーリー聡美さんの誘導のよりも早くに
アシュタールさんがとっととやって来ちゃった?という感じでしたので、
アシュタールさんには待ってていただいて
誘導の方に従いました。(これがゆっくりなんだ、また)
(しかし、もしかしたらこれからは一人でやれば、
もっと早くに彼に会えるのかもしれません。)


どうしても彼に聞きたいこと、
助けてもらいたいことがあったのです。


そうしたら、
彼は私にあるビジョンを見せてくれました。
ビジョンというよりは、とてもリアルに、
私の横にある人物が現れた、というか呼んでくれたのか。
その人物から受け取るものは愛しかなかった。


アシュタールさんはそれから
すっと後ろを向いて、
右手を上げて何も言わずに去っていってしまった。


無事に現実の世界に戻ってきた私でしたが、
「なんか、随分とアシュタールさんは冷たかったな。」
と思ったのです。



キーリー聡美さんからは、
彼は司令官をやっているくらいの人なので、
どちらかというと厳しい感じの人で
ニコニコするようなタイプではないと聞いていましたが、
なんか・・・その「冷たい感じ」をずっと気にしていたのです。


なんでだろう、と。



そして、今日、分かったのです。


彼が言いたかったのは、


「あなたはまだ分からないのですか。
あなたはまだ信じられないのですか。」


ということだったのです。



いい加減にしなさい。
あなたはまだそれを否定し、
まだ同じ場所に留まるつもりですか。
あなたは何を選択しますか。
怖れという幻ですか。
それとも愛という真実ですか。
それはもうあなた次第なのですよ。


そのように言われたような気がしました。



・・・。



結局、ここまでの話は。
アシュタールに会ったとか、会わなかったとか、
ただの想像だったのか、
そんなことが重要ではなく、
最後の問いかけのような言葉が、
誰から発されたのか、
ただの自分の心の声なのか、
そういう出所はどうでも良いことで、


今の私の心に響いたのですから、
それは真実なのでしょう。


私にとって大事な大事なことにおいて、
まだ分からないのか、
まだ信じられないのか、


という問いが心に突き刺さる。


何をそんなに怖れ、
なぜそんなにも否定したがり、
私は一体何から逃げようとしているのか。


なぜこの世で最も尊く美しく優しいものを
表面上のどうでも良いまやかしに騙され、
受け取ることができないのか。


なぜ、過去のデータではなく、
今の心を信じられないのか。



どちらに心はYESというのか。


歴然としているのではないか。



Say YES to it
Now your ground is burning crazy
Leave your lousy mind behind
Let the flame take over

No more need to hide
You're coming back to life
For celebration with true vibration
Let your soul to be Heaven On Earth

Dance to your life
Drink to your life
Dare to lose your mind
Heaven On Earth is...You

( From AYUKO Soul Quest "Heaven On Earth")









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水面上と水面下を合わせての白鳥

2023年11月13日 | 人との関わり(愛とか)
かの、ライターで占星術のマスターでいらっしゃる石井ゆかりさんは、
よく天秤座(私、天秤座)のことを「白鳥」を例にしてお話しされます。


白鳥というのは水面上では
美しく優雅に見える、見せているいるけれど、
水面下では足をバタバタさせていて、
でもそれは人に見せないし、
見せる必要がない(と、天秤座は思っている)と。


私個人的に言うと、
水面上の私が白鳥のように美しく優雅かどうかはさておき、
水面下のバタバタに関しては、
本当に常日頃バタバタと漕ぎまくっているのは確かで、
それは別に人から隠そうとしているわけではなく、
また水面上ではツンと気取っていたいというわけでもなく、
「どんだけバタバタ努力して、時にはヒーヒーやって、
私って大変なの。」という点で、
敢えて人から共感してもらいたいと思っていなくて、
必要がない・・・と思っている。


水面下で起きていることというのは、
得てして負の感情が含まれることも多く、
それとの向き合い方も、
いつも私一人でやればいいと思っている。


でも時に。
それが上手に(?)できなくて、
表面に出てしまって、
私は「すぐ顔に出る」と昔から言われていますが、
そうやって周りに気を使わせてしまって、
申し訳ないと思ったこともたくさんある。


周りへの「思いやり」として、
自分の感情を上手にコントロールすることは
それが真の「思いやり」であれば大切で、

つまり
もしそれが「人にいい人と思ってもらうため」だとしたら、
それは思いやりどころか、
エゴの欲求を満たすための
マスターベーションに過ぎないく、
それは「本当はどうしたい」という自分の心の声も無視することでもあり、
つまりは、自分を大切にしない、そういうことにもなるのだと思うのです。


後者の「人にいい人と思ってもらうため」というのは、
負の感情をも含む、
つまり白鳥で言ったら水面下で足をバタつかせている部分ですが、
それをも含む「自分の全部」を見せてしまったら、伝えたら、
受け入れてもらえないのではないか、という恐怖です。


もちろん、
全ての人に、自分の全てを見せる必要なんか全くないわけで、
でも、得てして自分に近い人、自分にとって大切な人ほど、
失いたくないが故に、「水面上の白鳥」だけ見せようとする。


でも実を言うと、
自分にとって大切な人に対してこそ、
それをやっていかないと、
その人と本当の深い繋がりや信頼など
到底築いていくことなどできないのだと思います。


水面上だけで美しく繋がっているように見えたところで、
お互いに水面下の「ホントは見せたくないところ」を抱えていたら、
「思い込んでいる繋がり」はただの幻想に過ぎないのではないかと。


先に
「水面下で起きていることというのは、
得てして負の感情が含まれることも多く、
それとの向き合い方も、
いつも私一人でやればいいと思っている。」
と書きましたが、


一人でやればいい、一人でできる、こともあるけれど、
誰かとの繋がりにおいては、
その人の助けが必要である時もある、
と最近学びました。


助け、と言っても、
私の負の感情を上手になだめてください、という助けではなく、
「一人でやればいい」というある種の「逃げ」から
「自分と向き合う、相手と向き合う」という、
私にとって最も勇気のいることをやろうとしてるので、
それに付き合ってください、という助けです。


それでも我らの繋がりはそうそう簡単に壊れやしない、
という、これまた勇気のいる信頼のもとに。


相手がどんな反応をしようが、
どんな言葉が戻ってこようが、
それはそれで相手は懸命に返してくれるのです。


もしも言い争いのような、
喧嘩のようなものになったとしても、
感情的になったとしても、


私のように水面上だけの姿を見せていた者にとっては
結構キツイけど、
嘘よりもホンモノを選んでいきたい。



誰しも
傷つきたくないし、傷つけたくない。
なんならずっと「逃げ&守り」の体勢で
楽しく美しく優雅でありたい。


でもそれは先がない、のですね。。。

「逃げ&守り」は安心かもしれないけれど、
ほんの一部の幻想を生きてゆくことで、
きっとホンモノを決して見ることはない。
自分のホンモノも相手のホンモノも。



そしてね、
自分のバタバタした水面下を見せた時、
相手のバタバタした水面下を見られた時、
それでも尚、変わらず愛せるのならば、

それこそ、
水面上の美しさの本当の理由が分かるのかもしれない。。。


言い争いも喧嘩も嫌だし、
コミュニケーションって本当に難しくて、
自分でも結局、何を一番伝えたかったの分からなくなって、
気づけば自分を正当化しようとしたり、
相手を責めたり、
どっちが正しいのか、とかそうなっちゃったりする。
そして最終的には自分を責める。


でもそういうのも、
全部「一人でなんとかする」だったら、
何にも分からないんだなって。


英語で「Vulnerability 」という言葉があって
「もろさ」「傷つきやすさ」という意味で
ある人は「心の一番柔らかいところ」と表現していましたが、


心の一番柔らかいところ、ですから、
本当は一番守り、隠していたいところです。


でも、
傷つくかもしれない、というリスクを負ってでも、
相手にその部分を見せる、ということは
その人を全面的に信頼する、
そして自分をも、


愛する。


そうね、


本物の愛のリスクを取る。



そしてね。


愛を諦めない。


愛はね、どんな愛でも、
家族でも友達でも恋人でも世界でも宇宙でも
諦めちゃいけないのです。









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