AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

「幸せな生き方」って?

2018年12月28日 | 生きていると
今年は、
「私にとって幸せな生き方とはなんだろう」という問いがずっとあったと思う。

そして、それは勿論一人一人違う。

「生き方」と言ったらちょっと大げさかもしれない。「
どんな風に暮らすのが自分にとって幸せなのか」という、
もっと「生活」に根ざしたものかもしれない。

自分が思っている「夢」と「幸せ」は一致しているだろうか。
いつの間にか夢じゃなくて、
「○○なんだから〜を目指すべき」になっていないだろうか。

この歳になってきて、
ようやく自分の「性分」みたいなものがわかってきたように思う。
生まれ持ってのものあれば、育っていく中で形作られたものもあるだろう。

私にとっての、心地よい、幸せな生き方・スタイルとはなんだろうと考えた時に、
そこから「目指すもの」の形が見えてくるような気がする。
なぜなら、「目指すもの」を先に打ち立てると、
場合によっては「幸せな生き方」が壊されてしまうかもしれないからだ。

勿論「一つの大きな夢を目指すことがが自分の人生の全てです」
ということであれば良いと思う。
けれど、私の場合は多分、
それは私の人生の(大きいかもしれないけれど)「一部」であり、
それが全体となると私の「幸せバランス」が崩れる、と最近思うようになった。

この三ヶ月ほど、
今後のキャリアについて考えるために
「これまでの自分の棚卸し」をしたのだが、
その中のワークの中で自分の「幸せな状態」を書くというのがあった。

例えば「美味しいお酒とお料理を、大切な人たちと語らないながら、いただく」(←これが一番にくる)とか、
そんなような「私の幸せ状態」を書いていったのだ。
勿論その中には「歌手として活躍している」とか
「目標に向かって夢中になっている」とかもあるのだけれど、
それだけではないのだ。

全体を見渡してみると、私にとっての心地よい「バランス」というのが見えてきた。

人生を俯瞰してみると、皆それぞれ「幸せバランス」というのがあるのだと思う。
「これだけは外せない!」というのもあると思う。

「これだけは外せない」を大事にしながら、
自分の幸せと一致する夢に向かう。

来年以降は、私にとって、それらを実際に生きてゆく・・・が焦点となりそうである。




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「愛され女子」後編

2018年12月26日 | 女性であること、のあれこれ
「愛されたい、じゃなくて、愛すればいいじゃない。」

でも、人に、誰かに「愛されたい」という気持ちはみんな持っているし、
至極自然で、決して否定することではない。
でも同時に、「人からの愛を受け取る」というのとも、ちょっと違う。

I receive and accept love.
I want to be loved.

ね。ちょっと違う。
「愛を受け取る」というのは、
人がWHOLEの状態の時にできることで、
人が差し出してくれるものを喜んで受け取る、
というとても肯定的なことだと思う。

「愛されたい」と思う時、感じる時、
人はちょっと自信がなくて、ちょっと寂しい時なのかなあと思う。
WHOLEじゃなくて、ちょっと「欠けちゃってる」(と本人が思っている)時。

で、生きてりゃそんなのしょっ中あるわけで、
人恋しいと思ったり、誰かの愛に助けてもらいたい、
そして実際助けてもらえることもたくさんある。
だから、私は「愛されたい」という気持ちは否定しない。
でも、その「愛されたい」という気持ちの根底に流れるものを見つめたら、
もうちょっと「先」に行けるかもしれない。

ただ「愛され女子」という言葉は、そこから滲み出る、
「愛されない女子たちよ。お前らはそもそも何かが欠けている。
だから、愛に値しない。」というところから、
完全自己否定に誘導し、
そこから当然「自分が愛される条件をクリアして、
自分以外の誰かに愛されさえすれれば、自分の価値が上がる」となるわけで、
この一見可愛らしい「愛され女子♡」という響きの言葉は、
自信のない女の子たち、
でもどうやって自己肯定をしたらいいか分からない女の子たちを
「愛されたい。愛されなければ。」という他人からの愛を渇望させるのだ。

渇望というのは「自分の中に無い」が前提だ。
「無い」んじゃなくて、「満ちてる」。
いつだって。本当は。

だから、キラッキラの「愛する女子♡」が世界に溢れかえればいい。

Wouldn't it be loverly?


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「愛され女子」

2018年12月25日 | 女性であること、のあれこれ
ここ数年「○○女子」という言葉がよく使われるようなったが、
私はたまに聞く「愛され女子」という言葉が大嫌いだ。

ある条件をクリアした女性だけが愛される、
そうでない女性は愛されない、
というその線引きは一体どこにあるのだ。
で、誰が決めたんだ。
そんで、「誰に」愛されるのを前提にしてんだ。
それは一人なのか、大勢なのか。

処世術としての、「人に良い印象を残す」という
振る舞いや言葉遣いなどはあるだろうが、
それはあくまでも「術」な訳で、
その人の本質そのものではないし、
「愛」という世界ではそんな見掛け倒しの上っ面なことは何の意味もない。


「愛され女子」という言葉がなぜ大嫌いなのかというと、
その対として「愛されない女子」(そんなのいない)が存在することになるし、
それによって、先に言ったように
「愛されるためには条件がある」という式ができてしまうからだ。

「愛される」ということに貪欲にフォーカスするということは、
I want to be loved by ○○の「○○」に魂を売るようなものだ。

愛という言葉を使いながら、
結果愛からどんどんかけ離れるという、まさに本末転倒。

「愛される、されない」という受動態は、外側の人間に左右される。
けれど「愛する、愛さない」というのは自分の「意志」だ。

愛されたい、じゃなくて、愛すればいいじゃない。

『愛する女子』

うむ。なかなか良いんじゃない?

つづく(あんの!?)



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「メイクについて」

2018年12月23日 | 女性であること、のあれこれ

・・・を語るほど、私には技術などないんだけど、
「メイクして、口紅付けて、最後に香水をつける」というのは私の日課である。

って書くと、いかにも「ちゃんとした女」って感じがするかもしれないが、
歯磨きと同じように日課にでもしないと、
若くないので、ほんと、マジで、真っ逆さまに下降してヨレヨレになるから、
そんな自分を見て受ける精神的ダメージを考えると、
律してでもやっておいた方がいいという、判断である。

それと、昔から母に「どんなに疲れていても、お化粧だけはしなさい」と言われていたこともある。
(そんな母も祖母からそれを言われていた)

まあ、今更、母に反発して我が道行ったところで問題はないのだが、
母がどうのというより、毎朝メイクの日課をやることで
、私は「目が覚める」。
最後に香水を付けて、「Ready to go」モードに入る。

そもそも性格なのだろうが、
私は休日でも「いつまでもパジャマ」でいることが嫌なのだ。
だったら、寝る。
じゃなくて起きているのなら、シャキーンとしていたい。
特に結婚して子供ができてから、そうなったのだと思う。

正直母親、妻に「休日」なんてないのだ。
気持ちが休日モードに入って、いつまでもパジャマでいたら、
タスクをこなす時にだるくて辛い。
なので、平日だろうが、週末だろうが、私はとっとと着替えて、
メイクをして、最後に香水をつける。(まあ、香水は単に好きだから)

メイクというのは、私にとって、
要はヨレヨレ防止と、目を覚ますという目的なのだけれど、
「自分の顔をちゃんと見てあげて、綺麗にしてあげる」という行為は
女性にとってはとてもポジティブなことだなあと思う。
特に口紅など「色を付けてあげる」と、
途端に顔も心もパッと明るくなったりする。
不思議なものである。

なぜ急にこんなことを書くに至ったのかというと、
今日、久しぶりにPLAZAに行って、
メイク用品のめくるめくキラキラワールドに久しぶりに触れて、
「やっぱりこういうのってワクワクときめくものだなあ」と、
なんだかうっとりしてしまったからだ。

もちろん、ノーメイクの美しい女性もいっぱいいるわけだし、
それがその人のスタイルということもあって大いに結構なのだが、
私の場合はいろいろな意味でメイクに救われるなあと、改めて感じたのだった。
あと、もう少しメイクテクとやらを勉強してもいいのかなと思った。

クリスマス、ご自分のために(奥様や恋人のために)新しい色の何かを買ってあげるのはいかがでしょう?



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「憑き物が落ちたように」完結編

2018年12月21日 | やんややんやの日常
思えば・・・

つづき

ゆっくりと私は振り返った。
なんでこんなことになったのか。そして気づいた。

思えば、私は今年の春から10月のLIVEまで一時も休まず突っ走ってきて
、LIVE後も一時も休まず、新たに猛勉強を始めて、ワークをやって・・・
私・・・全く休んでいなかったのだ。

そして、なぜそれでも強行的に走り続けたかというと・・・
私はものすごく焦っていたのだ。
「早く、速く、しなければ、間に合わない」と。
「間に合わない」というのは、自分が勝手に設定した、
「○○までになんとか」的なもので、
具体的に計画して出した期日ではない。
私はただがむしゃらに急いでいたし、焦っていたし、不安に駆られていた。

私は、時間と・・・もっと正直に言うと、
「年を取ってゆく自分」と戦うようになっていたのだと思う。

「NEW HORIZONを目指す」という純粋な情熱とモチベーションは、
いつしか「〜ねばらならない」に変わっていた。
最初は軽やかだった足取りがどんどん重くなっていった。

救急車沙汰になった翌日に、
私は「資金がない。ああ、いよいよバイトをするしかないか。今週中にいかないと、来年に間に合わない」とバ
イト先に偵察に行く予定にしていた。

満を持して「急ブレーキ」がかかったなあと思う。
でも・・・よかったと思ってる。

胃腸炎で病院に運ばれ、痛みに苦しみ、
その後はドロドロとした怒りが悲しみが溢れ、眠り病にかかり・・・

眠り病から覚めた私の心は随分と落ち着いていた。
落ち着いていたけれど、心の底の方にいた
。気持ちが上がるわけでもなく、下がるわけでもなく、
全く動かなくなっていた。ひたすら「シーン」としていた。

そして、11月27日、それは救急車からちょうど一週間後、の朝、
急にすーーーっと浮いたのである。
なんのきっかけもなかった。
ただ、浮いたのである。
あれは本当に不思議な現象だった。

「軽い。」

タイトルの「憑き物が落ちたように」というのは、
その時の感覚である。
私が何かに憑かれていたというよりは、
自分で憑けてしまったのだろうが、
その一週間で不要なものが全て落とされたような感じだった。
ここまで延々とここに書いてきた、そのプロセスは
それに必要なものだったのだろう、と今は思う。

現実を変える、創るのに、最も強力な力は、
計算でも賢さでもなく、「純粋な情熱」だと私は思っている。
でもそこに不純物が入ってくると、それこそ「不可燃物」として
それは心の底に溜まってくる。
それは「疲労に気づかないこと、無視すること」かもしれないし、
「焦りや不安」かもしれない。
何であれ、純粋な情熱が指し示す「最良の道」から外れてしまうことになる。
そして、それはとっても苦しい道だ。

皆様には「前編」でご心配をおかけし、
結局「後編」で終わらず、
「なんだ、そんなことだったのかあ」という「続・後編」だったかもしれないが、
読んでくださった皆様に心から感謝。

11月27日に起きたあの不思議な現象について、
またそこまでのプロセスのことをどうしても書きたくなったのだ。


現在私は「本来の自分に戻った」もそうだが、
s「以前よりもっとさっぱり軽やかになりました」という感じだ。

純粋な情熱だけが心の真ん中に残って座している・・・
不要なものが落ちて、在るべき姿がそこに残った・・・

とは言え。
来週、お友達に紹介してもらった病院にちゃんと行って、
胃カメラ飲んできます。(陽気なアイツのところには二度と行くまい)


完(人生はつづく




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