AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

言葉にすると・・・

2022年03月23日 | 詩と言葉
言葉にすると・・・
言葉にしようとすると・・・


言葉にしたかった「それ」から
離れてしまうことがあります。


でも「それ」をなんとかして
言葉という「形」や「音」にしようとするのが
言葉を使う人間の欲望のようなもの、
欲望というより、渇望なのでしょうか。


作家や詩人といった人たちは
きっといつもいつも
「それ」を言葉にするという
正解が決してないような、
でも少なくとも自分にとっての「正解」があるのではないか、
なんとかして見つけてみようではないか、と、
言葉という大海原で
自分の内なる大海原で
常に波にのまれながら、でも諦めず、
「それ」と「言葉」が少しでも交差するところを
探している人たちなのかもしれません。


なんて
私は作家でも詩人でもありませんから
あくまでも想像なのですけれどね。


「それ」を感じるのはまず自分であって
言葉にしなければ、
「それ」はそのまま「それ」として
リアルに自分の中に存在し続けます。


ですが、
それを言葉にした時に、
例え自分にとっては「それ」を表現できたと思っても、
自分以外の人に開示した時に
人は、自分が最初に感じたリアルな「それ」ではなく、
「言葉になったそれ」を
各自の内面に映し出し、
「自分のそれ」は「彼らのそれ」になってしまうのです。


そして
「自分のそれ」と「彼らのそれ」は
一致することもあるかもしれませんが、
全く別物であることもあると思うのです。


それは単に「意見が違う」ということではなく、
「自分のそれ」から完全に離れてしまったものとして
彼は彼らの形で感じ取るということだと思います。



最初に生まれた自分の中のピュアな「それ」。
本当は言葉などにはならないものかもしれません。
その「それ」は「自分が感じた」ということでは真実であり、
周りの人たちは決して入ってこられない場所、


私は感じた。
私は感じる。


そこでもう完結しているものなのです。


それは本来は疑う余地などないのです。
疑う必要もないのです。


先ほど、
言葉に変換して自分以外の人に開示すると、
ということを言いましたが、
「それ」が言葉になるのは、
まず自分の中です。


私は感じた。
私は感じる。

が、
私は考えた。
私は考える。
私は思った。
私は思う。


と、例え「それ」について述べていても、
もう「それ」そのものではなく、
「〜について」になるのではないでしょうか。


そうなった時に、
もしも「言葉になったそれ」が
奇跡的に「それそのもの」と一致していれば良いのですが、
そうでなかった場合、


疑いが生じるのだと思います。

「頭」が
「言葉」が疑い始めるのです。


そして、
「それ」からどんどん遠ざかってゆく。


自分にとって「それ」が
ものすごく大切なものだとしたら、
「それ」をそのままにして、
言葉になる前の場所に
そっと大事に置いておくことです。

もしそれを言葉にしたとしても、
何度も何度もその場所に戻ることです。



そして「それ」を疑わないことです。










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暇な人は元気100倍アンパンマンにならなければなりません

2022年03月18日 | 生きていると
ああ、今日はなんて寒い一日だったことでしょう。

久しぶりにヒーターを点けたり
セーターの上からユニクロのモコモコを着たりして、
家で過ごしました。


朝から雨で寒かったけれど、
家族が学校やら仕事へと出かけた後、
なんとも穏やかな静けさに包まれたのでした。


我が家(マンション)の南側はベランダなのですが、
全面窓になっていて、そこからベランダへと出入りするのですが、
外に広がるどんよりした空も、
静かな光を放っていて、
それはそれで美しいのでした。


過去や未来への不安が顔を出したら
「即、削除!」という練習をしていると、
「ああ、今って、こんなにも穏やかではないか」と思うのでした。


「今」を穏やかにしないものというのは、
そもそも今じゃないものが原因で、
それは全部自分が作り出しているのだな、
ということがわかってきました。


そうは言っても、
そういう古いパターンというのはしょっちゅう顔を出すもので、
現在は「モグラ叩き」のような感じですが、笑、


はい、何事も練習でございます。


でもね、そういう余計な、
しかも自分が勝手に作り出しているネガティブ事項を「叩いて」行くと、
大きなスペースができるわけでして、

じゃあ、どうするかというと、そこに、


好きなコト、モノ、ヒトをブチ込んでいくのです。



これまではスペースは
どうでもいいことで埋め尽くされていて、
そりゃあ


楽しくねぇな。
面白くねぇな。


だけど今は、
「今」、できるだけ、


楽しいこと、面白いことで埋めていく。


それはね、「想像」でもいいのです。
日々のことというのが、
お仕事だったり、責任だったりとする中でも、


楽しいこと、面白いこと、幸せと感じることで、


心を埋めてゆく。


「モグラ叩き」をして心にスペースさえ開ければ、
そんなに難しいことではないのでは、きっと?


死ぬほど忙しい日々の中でも、
一日一回でいいから、
ホッとする時間を作る。
5分でも10分でもいいじゃない?


それだけでも滋養になるじゃない?



私の場合は「ど暇」なので、
もっともっと「意識して」
自分に滋養になることができるはず。


これはね、
暇な人の責任くらいに思っていますよ。


みんなが忙しくてヒーヒーやっている間に、
心と体に栄養を取り込んでですよ、



周りに幸せエナジーをばら撒く



というのが、
暇な人の責任でございます。


あなたが元気ないなら、私の元気をお分けします!



ってなもんでして、まさに、



元気100倍アンパン!・・・の頭をかじれ!



そのような感じだと思います。



ですので、
私は大きな責任を抱えている暇人ですが、
それはそれは大きな責任でもあります。


お金には全くなりませんが、
「お金にはならないけど大事なこと」担当大臣として
(いつから大臣なのか、私は)




日々、精進して、
愛と幸せをばら撒いて
周りのみんなが元気になれるように


周りのみんな、と言っても
私にはそんな多くはいないけれど、

幸せエネジーが感染して、
それぞれの場所で更に感染して・・・


そうやって考えると、



やっぱ暇だからこそ、責任重大!



そのように思います。


全国の暇なあなた、
今こそご自分のミッションに気づいてください。

そして全国のご多忙なあなた、
暇で幸せそうな奴の


頭をかじれ!





待っててね!今、いくよ!






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Lovers' Trees

2022年03月17日 | 人との関わり(愛とか)
昨日、久しぶりに
池上本門寺の森の私の好きな場所に行きました。

木々は見た目はまだ冬のままようでしたが、
枝をよく見ると、
新しい葉っぱの芽がたくさんあって
今にも咲きそうに膨らんでいました。


いつも根っこに座らせてもらう木がありまして、
「久しぶり。こんにちは。」と言って座りました。


春の暖かな風が気持ちよく、
たくさんの鳥が鳴いていました。
冬に訪れた時は寒くてゆったりできませんでしたが、
昨日はとてもリラックスできて心地よかったです。


色々思うことがあって
でも、「では、なんなのだろう?」が分からないまま、
しばしちょっと悲しい気持ちになりながら、
座っていました。


ふと私の目線は
腰掛けたところからすぐ近くにある、
木の根元に行きました。


いつもあったし、
きっと来る度にいつも見ていたのでしょうけれど、
初めて「気が付き」ました。


それは二本の木の根元なのです。
でも、二本だけれど、根元はくっつき絡み合っているのです。
根元はくっつき絡み合っているけれど、二本の木なのです。


あ・・・


私は急に分かったような気がしました。


誰かと愛し合うということは
きっとこういうことなのではないか、と。



それぞれが一本の木。
同じ種類だけれど、それぞれがユニークな木。
幹の太さも違えば、高さも違う。
枝が生える場所や数も違うし、
向かう方向も違う。葉っぱの数だって違う。

だって、それぞれがユニークとは、そういうことだもの。


愛し合うというのは、
この二本の木のように、
一本ずつだけれど、
根元が愛で繋がっている。
腕を絡め合うようにして、
お互いを大切にして、愛おしんでいる。


けれど、
決してお互いの枝が向かう方向とか、
葉っぱの付け方とか、
ジャッジしたり変えようとはしない。


それぞれの、その時その時の生の在り方を
優しく見守り、応援し、励まし、
それぞれの枝や葉っぱが向かいたい先を
一緒に見つめる。


厳しい季節の時は
根元でしっかり手を握ってあげる。
相手に栄養が足りない時には
自分のを分けてあげる。
そうやって乗り越える。


そんなことを、
その二本の木に初めて気づいて、
私は知ったのでした。


そして涙が出てくるのでした。
心を優しく洗い流してくれるような、
そんな涙でした。



Lovers' Trees


寒い季節を越えて、
これから新しい葉っぱが生まれるのです。






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Grace of Life

2022年03月10日 | スピリチャル&ヒーリング
前回から1週間くらい経ったのでしょうか。

毎日「ああ、春なのだなあ」と、
日差しや空気や木々に感じるようになりました。

三月ですものね。


私はというと・・・


昨年末に古地から出発して
今年に入って新地に足を踏み入れて、
慣れるまでに随分と時間がかかりましたし、
怖い思いもたくさんしました。

(↑これは物理的な土地の移動の話ではなく、
自分の在り方のようなもの、のお話)


ようやく新地の空気に慣れ、
ここ数週間、本当に久ぶりに
自分の中に「穏やかさ」を感じることができるようになりました。


2ヶ月前くらいの私からしたら、
これは奇跡のようなもので、
でも、ちゃんと、ちゃんと、
歩いてこられたのだな、と今は思います。


得てして、というか、往往にして、
人間「先が分からない。見えない。」というのが
多分、最も怖く、不安の種になるものだと思うのですが、


でも、そもそも次の瞬間のことすらも見えないし、
ましてや、もっと先のことなんてわかりゃしない。


って、分かってても不安になるのが人間。


でも、私は「今」を
「起こってもいない未来」への不安で
どれだけ、これまで埋めていたかに気づいたのでした。
多分、ほとんど「今」にいたことなどなかったのでは、と。


よく
「今を生きる。」と言いますが、
どうもその意味、やり方がわからなかった。


一度、じゃあやってみようじゃないか、
「今に」ひたすらいてみようじゃないか、と
トライしたのですが、


どうも
私は今に「全集中」することだと思い込み、
やたら神経を集中し、意気込んでみた訳ですが、


これじゃ、数分ももたない、笑。


疲れてしまって、
どこか「他のところに」逃げたくなる。
他のところ、というのは、
相変わらずの、見えない未来とか、
過ぎ去ったこととか、
とにかく「今」じゃない、どこか。



う〜〜〜ん。。。


多分、これはやり方を間違っている。


・・・と、諦めて、元通りに戻ってしまった。



新地に辿り着いて、
穏やかさを取り戻すことができるようになった
理由の大きな一つとして、


今を生きる。
今に居る。


の、意味、やり方が少し分かってきたから、
というのがあります。



実はものすごく単純なのですがね。



未来に思いを馳せ『不安』を感じたら


止める。片っ端から消す。


を繰り返したのです。
朝から考えてしまう「今日の夕飯どうしよう」ということすら、
それが不安とか重荷をもたらすものであれば、
止める。


不安とか重荷とかもたらす考え全て、
一切合切、拒絶。

これはね、『意志』でやるのです。


なぜなら、
考えというのは自分の意志で作り出しているわけですから、
それを取り消すのも自分の意志でやるしかない。


その代わり、
「今、自分は何をしたい?」と自分に聞く。
何をしたら気分が良くなる?
どんなことにワクワクする?


今よ、今!
今、何がしたいのか。


「したいのか」よ!
「しなきゃいけない」ではなく。


たとえ、それが家でも仕事場でも、
「しなければいけないことになっていること」だとしても、
「今」自分はその中でもどれも選ぶのか。
どんな風にやるのか。
どんな風にやったら心地よいのか、楽しいのか。



「今を生きる」練習をしているうちに
これまで今を「未来への不安や重荷」で埋め尽くしていたことに気づいたのもそうですが、
「〜せねばならない」で埋め尽くしていたことにも気づいてきました。


心よりも頭で優先順位を決めていました。


頭じゃない、心や体に直接聞く。
どうしたら今、心地よく気持ちよく過ごせる?
耳を傾ける。


どうせ頭が「いやいや、今は〜しなきゃダメだよ」と言い出すので、
「黙らっしゃい!」とはねのける。


頭は「ワガママだ」とお得意の言葉を出してくるでしょう。


その時は、自分の心と体の思いを無視し続けてきた結果をご覧くださいな。


そして、そこで「生産性」というならば、
尚更のこと、心と体の「ワガママ」を聞くことが、
生産性を高めることへの正しい、確実な道だということに気づくのではないでしょうか。



そんなこんなで
「未来への不安、重荷」を徹底的に排除して、
「今、自分はどうしたいのか」を徹底的に聞いてゆくと・・・


自然と
「今を生きる」ことができるという、
しかも、気持ちは軽く、


「どうにかせねば」と、未来をひたすらコントロールしようとし、
もちろんそんなことは人間になんぞできるわけなく、
結果、不安に駆られる、というしょうもないサイクルから抜け出て、


自分を、無限の宇宙を、その流れと、愛を、
信頼して、身を委ねる、

仕方ねえ、降参して、もう委ねてやれ!


そんな風な在り方になってゆける。


すぐになれなくても、
続けていれば「なってゆける」。


そしてそれは、
自分の中心としっかりと繋がっている感覚をもたらし、
安心して今にいられるようになる。
安心して、今幸せを選択できる・・・



Grace of Life(生の恩寵、その美しさ)



を、垣間見られる。


で、やっぱり、それは過去でも、未来でもない、
「今にしか」感じることも、見ることもできない。


Grace of Lifeに身を委ねることができたのなら、
過去にも未来にも光が当たるのだと思います。


自分の過去を許すことができるかもしれません。
不安にしか思えなかった未来は「無限の可能性がそこにある」ということに
気づくことができるかもしれません。あなた次第だと。




そんな私もまだ練習中。


時々、ズレるのだけれど、
それでも以前よりも
早く戻すことができるようになったような。


今にいて、
自分の中心にいることがどういうことが分かってくると、
ズレた時も、すぐに気づく、なぜなら、


ものすごく、ものすごく、
『違う』。


それはとても悲しい気持ち、苦しい気持ち、
とても自分に意地悪な気持ちだから。




今を。
どうか、今を。
難しい状況でも、問題があっても、
そんな時こそ「クリエティブ」になって、
明るく幸せなものに。


それが過去をきっと癒し、
それが続いて未来になるのですから。









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母への恨みつらみ(なんちゃって)

2022年03月03日 | 女性であること、のあれこれ
なんちゃって、
というのは本当で、
そのお話を今日はするのですが。

あることからあることを思い出したのです。


そう、今日は雛祭り。

娘がいるので、
お雛様出してないけど(ごめん!)
せめて、ちらし寿司くらいは作って
おめでたい雰囲気にしようと
お買い物に行ってきたところです。

(因みに私は具材を全部最初から作るはずもなく、
「ちらし寿司の素」を使うのですが、
なんてったって、永谷園の「すし太郎」(北島三郎先生)がおすすめ。
スーパーではミツカンのやつがやたら派手にディスプレイされていましたが、
それらには目もくれず、
その下で数も少なく地味に展開されていた「すし太郎」をカゴの中に。
一度ミツカンに浮気をした経験があっての、バック・トゥ・すし太郎。
間違いない。)


雛祭りということで「お雛様」。

お雛様と言えば、娘に母が贈ってくれた雛人形。
お雛様とお内裏様のシンプルなセット。
それは全然よくて、贈ってくれたことがありがたいのですが、

この雛人形セットが我が幼児期を思い出させるきっかけに。
(って、今年は出してないけど)



これは今日facebookで「過去の思い出」とかって出てきたもの。
3年前のものだそうだ。


そして娘の右後ろにあるのが例の雛人形セット。
(真ん中は、娘がウサギ年ということで、
全部ウサギのミニ雛壇。これも母がくれた。
これはこれで可愛らしい。)


でも、この雛人形・・・


地味じゃない?!



そんなことはありません。
普通のと違って、なんだかセンスが良くて、
「よくあるやつ」より、素敵じゃない???


という、お声が聞こえてきそうです。


しかし、私の中のリトル・アユコの声はこういう。


違う、違う!
コマーシャルでやってるような、久月とかがやってるような、
ああいう普通の、華やかで綺麗で可愛いのがいい!



と。


ここから私の幼児期へと。


思えば、幼児期から30歳くらいまで、
私はひたすら「女の子」を否定していました。
世の中の女の子ではなく、
自分の中の女の子。かわいい女の子。


(これは随分前にブログでも
『私はプリンセスになりたかったのだ』という(ような)タイトルで、
確か2部だか3部に渡って書いたことではあるので、
重複するかと思うのですが。)


私はかわいい服を、女の子っぽい服を着ることを拒絶してましたし、
といっても、ああいう「センスのいい」お雛様を買っちゃう母ですから、
どちらにしてもヒラヒラ系のかわいい服は一度も着せられませんでした。
また、(母から聞いた話だと)手を繋ごうとすると、
いつも母の手を振り払っていたという、
スキンシップすらも拒絶するような子供でした。
(変な子〜〜〜)


ですが、大人になってようやく分かったことは、
私はかわいいものが好きで好きでしょうがなく、
本当はとても憧れていた。
髪を長く伸ばして、お母さんにとかしてもらって、
結んでもらったりすることにもとても憧れていた。
母が毛嫌いする「田舎臭いヒラヒラのドレス」だって着てみたかった。
ママ、ママ、とベタベタしたかった、多分。


しかし、なぜ、
それを全部拒絶してしまったのだろう。


まあ、確かにかわいいお洋服に関しては
どちらにしても、「私が憧れていたタイプ」のものを
着せられなかっただろうし、
髪の毛に関しては、父方の祖母も、母も
「長いの反対」の人たちだったので、
高校生になるまでずっとショートでありました。


「ただ、拒絶していたのだな」と思う理由は、
私はとにかく「お人形遊び」が好きだったのです。
ぬいぐるみではないのです。お人形。
今、思えば、自分の夢を全部お人形に託していたのだな、と思います。
長い髪、かわいいお洋服を着せられたお人形が
「夢の私」だったのでしょう。

(当時は、そういう高さ30cmくらいの素敵なお人形がたくさん売っていました。
今は、Amazonでも探してみたのですが、メルちゃんシリーズしかなく。
あまりお人形は流行らないのでしょうか。。。)



拒絶の理由。


また、あることを思い出しました。

これまた先ほどご紹介した過去のブログでも語っていますが、
30歳頃に、ご縁があって、
あるボイス・ヒーリングの先生のクラスに一年間通いました。
これまたご縁があって集まった数人の私たちは
課題が「女性性」ということ。
しつこいほど、それについて向き合わされました。


ある時、これはクラスでだったか、
個人セッションの時だったか、
私の幼児期と、その時の「女性性の欠如」の関連について、
先生があることを「視ました」。


視た、というのは、先生はそのようなことに長けていらっしゃったからです。



先生、曰く、

なんかね、お腹の中にいる時に、
お母さんが「ああ、男の子が良かった」って言ったのを
聞いたみたいなのよね。
それがショックだったみたい。


このエピソード(先生のお話)についてはずっと覚えているのですが、
その通りだったとしても、もちろんそんなの覚えていないし、
先生も「お母様もなんとなく軽く言ってしまったことみたい」とおっしゃってたし、
今、母親になった私にとっても、
そんなことを本気で言うわけがないのは分かってる。
例えば、実際に男の子が欲しかったとして女の子が生まれても、
ガッカリなどする訳がない。
単なるママあるある「〜だったらいいなあ」っている、
軽いお話。


が、しかし。


万が一、本当に当時のお腹の中の私が
そんなことも知る由もなく、
そのセリフを聞いてしまったら・・・


確かにショックだろうなあ。



自分は歓迎されていない。
女の子の私は愛されないんだ。
女の子はダメなんだ。


とかね。


いやいや、分からないの。
シャドウサイドや、女性性のうんちゃらとか、
その手のワークはもうこれでもかってくらいやってきてるから、
大分、「フラットな、もしくは、ホールな私」になったのですが、


でも、母のことを思い出した時に、



ちょっと・・・!
だとすると、全部、辻褄が合うんじゃないの!?



って、改めてね。


私にとっては、
30年間続いた「悲しい女の子」の時代は、
本当にそんな些細なことがきっかけだったかもしれない、と。
覚えてないけど、
そういうこともあり得るかもしれない、って。


本当に、些細な誰かの一言が、
それが自分にとって大切な人であればあるほど、
「まさかの傷」になったりするのかもしれない。


そして、時を経て、
その「傷」ばかりが存在感を増していって、
自分の中の大きな部分に影響を及ぼしたりする。


でも、
それは


誤解であること。


が、多いではないでしょうか。

もしくは、もうとっくの昔に「あはは!もういいよ!」と
大人になった自分が許してもいいことなのではないでしょうか。


大人の自分が、
自分の中にいる傷ついた子供に
「分かってるよ、傷ついたんだよね。
でも、もう大丈夫だよ。もういいんだよ。」と
言ってあげればいいのではないでしょうか。


いうは易し。

かもしれません。
だって、「ワークやってきました!」
とか言ってる私がまだ言ってるし、笑。


でもね。


誰かの言葉に傷ついた時。
それが故意だろうが、なかろうが、
傷ついたのは事実。

けれど、
傷ついたままでいるか、
「もういいや!いつまでも傷ついてるのもバカバカしい!」と
自分の最大限の力を行使して颯爽と前に進むか、
それは自分の選択。


許すという行為は大変勇気がいる。
でもその後に起こる、身軽さと自由は
それだけの価値がある。


私のように「ひな祭りだから」とか言って、
まだ過去のことを言ってる奴もいるけれど、


これもまた
傷を癒す、もしくは「でも、もう癒えたでしょ?大丈夫なんじゃない?」と確認する、
きっかけでもあります。


そう。
多分、私たちは
傷を抱えたなら、
それを癒すための
きっかけを呼び寄せてる。


気づくまで何度も、何度も。
ちゃんと癒えるまで何度も、何度も。


誰かとの出会いや出来事が、
「もう、いいよ」と言ってくれる。


少しずつかもしれない。
けれど、あなたの魂は傷ついたあなたを放ってはおかない。


そのプロセスがたとえロングランになったとしても、
あなたは常にそこから自由になるための道を歩いている。


私は愛されてるんだ。
私は愛されていいんだ。


それを認めるまで、
色々な人が助けてくれる。


最後にあなたが腕を大きく広げた時、
過去の魔法は消えて無くなる。


愛があなたに向かって、
あなたを通して外に、
流れ始める。


愛の循環が蘇る。






・・・というお話を雛祭りに。



母への恨みつらみ(笑)とかって言うけど、
おかげで「女であること、女の子であることを同時に謳歌するとはどういうことか」
というのが、大人になって私なりに分かったし、
女性は年に関係なく、いつまでも「かわいい女の子」でいられることも分かりました。
(ヒラヒラドレスは着ないよ、笑。いや・・・場合によっては・・・!ふふふ。)


母の些細な(いい加減な)一言が
私の人生の半分以上を占める課題になったのも
「そういうことになっていたから」なのかもしれない。


それは私の場合は女性性絡みのこととなったけれど、
要は、


私はどうであっても
愛される価値のある存在なのだ、
ちゃんと愛されているのだ、


という答えに辿り着くためのものなのかもしれない。


まだちょっと怖いけどね、
大丈夫、どうせそこに辿り着くしかないのよ、魂とは。



・・・というお話でした!



↓つまりこういうの!(母と私の単なる好みの違い)





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