AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

AdeleとLizzo〜二人のヒーラー〜

2023年01月16日 | 音楽と歌と私と・・・
SNSだとか、ブログだとか、
公に何かを発信してフォロワーを増やしたければ
人が共感することに着目をしましょう、

みたいなことをかつて聞いたことがあります。

今も、それが「大事」なのかよく分かりませんが、
確かに「そうそう!私も!」と思える投稿というのは
親しみを感じます。

私がインスタで好んでフォローしている漫画家の方は
いわゆる日々の「あるある」を描いているのですが、
目の付け所が面白く、「それそれ!」とつい笑っちゃう。


「自分の代わりに言ってくれてる!」とか、
そういうのも共感です。


一方、「その先へと導く人」もいます。

みんなを「こっちだよ〜〜〜!」と、今いる場所の先へと引っ張っていく人です。

共感というプロセスの先。
新しい方向性。
新しい自分になるために必要な激励。




それを二人のアーティストの「スタイル」に当てはめてみると。



あくまでも私個人の見解なのですけれどね。
でも、以下のことはずっと、
自分に感心しちゃうくらいの(笑)見解だと思ってるのよ。


それは。


AdeleとLizzoです。
どちらもスーパースターであり、
優秀なソングライターであります。
そして対照的です。


私にとってAdeleとは「陰の共感の女王」。


あの人の楽曲はとにかく暗い。(笑)

自身の暗い、悲しい、苦しい体験を
とことん楽曲で表現する方なのですが、

それによって「私もそうだ。そうだった。」と共感して、
彼女が自分の代わりに悲しみや苦しみを表現してくれることによって
救われる人たちが多いはずなのです。

気が済むまで、その悲しみや苦しみに浸らせてくる。
そうだ、それでいいんだ、自分も悲しくて苦しくてしょうがないんだ。と。

「陰の共感の女王」、とはそういう意味です。


でも彼女の魅力的なところと言えば、
あんだけ暗い曲を書くくせに、
本人のキャラと来たら、まあ、面白くてチャーミングで、
そのギャップもファンにとってはたまらないのでしょう。


一方、Lizzoはとことん明るい。前向き。

でも、その人気の理由は、
彼女の明るさは「悲しみや苦しみを越えて」のものだからだと思うのです。
上っ面のものではなく、彼女が「陰」から勝ち取った「陽」。
それが人々に通じるからこそ、彼女の明るくパワフルなメッセージというのに、
根っこから励まされるのではないかと。


どちらにしても、二人とも「ヒーラー」です。

「癒し」というのはまずは傷口と徹底的に向き合うことから始まります。
それをスキップしても決して癒しは起きません。
とても苦しいプロセスです。

この苦しいプロセスを担当しているのがAdele。

そして、そのプロセスをようやく終えて、
いよいよ新しい自分で生きていくぞ!と、


「本来自分が備えてる底力」を目覚めさせるプロセスの担当がLizzo。


今回は私が勝手にこのお二人のアーティストを比べましたが、
「陰の共感」か
「目覚めへ導く」か、
という括りでいけば、たくさんのアーティストがそれぞれに存在するわけで、
また、一人のアーティストの楽曲の中でも、
この二つのカテゴリーが存在すると思います。
(もちろんこれらのカテゴリーだけ、という意味ではなくね)



なぜこんなことを書こうと思ったかというと。。。


正直。
私自身はAdeleの楽曲が苦手でして(笑)、
なんでだろう、と思っていたのでした。
いや、とにかく「暗い曲」が好きじゃないし
書きたくない、歌いたくない、ということなのですが、

私自身が歌手でありますから、
そこになんらかの別の理由もあるのかもと思っていた時に、
LIzzoという若手のスターが出てきて・・・


「あ、そういうことか!」
と思ったのです。


私はLizzoが大好きなのです。
なぜか。

先ほど書いたように
「陰から勝ち取った陽の強さ」というのが、
私が個人的に常に目指しているところだからです。


私が、自分に「なぜ自分は人の前で歌いたいのか」と問うた時に、
「みんなを励ましたいから。元気になってほしいから。」が一番に来るのです。


歌を歌うことで、
私が何かしらのヒーラーになれるのだとしたら、
私はLIzzoと同じように

「本来自分が備えてる底力」を目覚めさせるプロセスの担当

を、したいのだなと分かったのです。


Adele系ヒーラーか、
Lizzo系ヒーラーか。


Adeleの曲が苦手な理由は
担当が違うから、ということで、笑。



でもね、
これら全部、「後付け」です。

自分の魂が表現したいと熱烈に感じるものが、
「自分の担当」、


つまり、結果、「スタイル」ということだと思います。



あんだけチャーミングで可愛いAdeleの
「曲だけは嫌い」ということへの
私の大義名分です。



そうそう。


皆さんにも大好きな人、アーティスト、キャラクターがきっとあるでしょう?
それは彼らのエッセンスの何かが、
あなたの魂のエッセンスと共鳴しているからだと思うのです。


「憧れ」だってそうです。


自分には決してなれそうもないから憧れているのではなく、
必ず、共通のエッセンスが存在するから。


憧れの存在は、つまり、自分でもある、
と思って、自分を見てみる、というのも
力が湧いてきますですよ。
(だってそうだから)

そういう存在がいっぱいいればいるほど、
自分の魂のエッセンスが
どんだけ素敵か分かるというものです。


だって、
「素敵〜〜〜!」がいっぱいあるということだからね。




Adeleでたっくさん泣いた後は・・・


Lizzoに新しい自分へと背中を押してもらう。


そんで、AYUKOが更なる高みへ連れてくよ!






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新年早々(心の)嵐を呼ぶ女〜『後編』

2023年01月15日 | 生きていると
*このエピソードの『前編』はこちら


(『前編』最後から)
『しかし、ここまで書いたのなら、
先に書いた

『母親としての罪悪感 からの
完璧主義の視点から自分を打ちのめす からの
愛されるためには何かを差し出さなければならない からの
私は(愛されるのに)十分ではない という思い込み』


がどういうことなのか、
最後まで書かせて頂かないことには
気が済まぬ。』



では『後編』に参りましょう。


『母親としての罪悪感」の根源というのは、
自分と母を比べてるからです。

母娘ではよくあることだと思いますし、それは認識していたつもりでしたが、
まだ、がっつり存在していた。。。
私の母は昭和の専業主婦で、衣食住に大変興味のある人でした(今も)。
料理がそれはそれは上手で、お料理教室にも通っていたりして、
毎晩、それはそれは手の込んだ美味しい料理が並びました。
それは子供としてとても幸せであったと思いますし、心から感謝している。

が、私はそこまでできない。
お料理は好きな方だと思うけれど、
毎日のこととなると、正直、あそこまでする熱意もないし、
また、私には「家のこと以外のことで大切にしていること」がある。

だから、私は私でいいのだ、母のようにならなくていいし、
なれないんだから、それでいいのだ。


と、言い聞かせていたつもりだったのですが、そうではなかったようです。


私は私でいいのだ、と言い聞かせ、
どうしても疲れている時はご飯だけ炊いて、スーパーのお惣菜だけにしたり、
何ならお弁当にしちゃう時も多々ある。

毎日仕事に出ている訳でもないのに、
どうにもこうにも「夕飯を作る」ことが
しんどくなる時が私には度々あるのです。


夫も娘も息子もそれは困る、嫌だ、という様子もなく、
でも、どこかで私は「母のようになれない自分」に
実は長く罪悪感を持っていたのでしょうね。

どこかで穴埋めせねば。とかね。


元々完璧主義の私ですが、それも認識していて、
随分と和らいだと思うのですが、
その元々の性格と、母と自分を比べる、で
結果、自分を窮地に追いやった。
(追いやってきた)

他の誰も私を責めることはないのに。
私は自分を責めてきたのだと思います。


『愛されるためには何かを差し出さなければならない』


というのは、私が「私で在る」だけでは十分ではないから、
愛されるためにはプラスアルファ何かをしなければならない。ということ。


1月2日以降、感情が溢れ出した時に、
急に私は「家族に愛されていないのではないか」と思い始めたのです。
子供達にとって、私は「十分な母親」ではないのではないか、と。
だから、子供達に愛されていないのではないか、と。

ひたすらGiving(与える)という母親像に押し潰されながら、
自分が思うようにGivingしていないという思い込み。
だからreceiving(受け取る)も上手にできていない、ということ。


そして、それは夫に対しても。

私は自分のものは自分で何とか買うようにしていますが、
その他の「食」「住」は夫の経済力に頼っています。
ですから、その分、頑張らなければ、
家のことをできるだけちゃんとやらなければ、
という考えがいつも深いところにあります。
(どこまで実際できているかは別として、「考え」がある)


それは主婦的な立場の人たちは多かれ少なかれ感じることかもしれません。
また生まれた時代もあるのかもしれません。


「お金」を出してもらっているけれど、
私は「十分であるだろうか」と。


でも・・・

お金、を出してもらってるから、頑張るのか?
私が十分かどうかは、出してもらったお金への代価によるのか?
家族だから、私は私の役割をやる、ではダメなのか?


このことに関して浮上したものは、
夫と私の問題ではなく(なぜなら、このドラマは私の中だけで展開されているからです)、
私が育った時代や環境が根っこにあるということです。


それは「私と家族(実家)とお金」のお話になります。
今年はそれについても掘り下げることを決めました。
これもまた、そこを何とかしないと前に進めない、
そんな、やや根深い課題なのですが、そろそろ向き合う時です。
これはエモーショナルな部分も多々ありますが、
お金についてちゃんと知る、という実用面もあります。


そういうことも見えてきた『1月2日事件』(もはや事件か!)。



結局のところ、
大きくまとめると、


母親として、とか、妻として、というよりも、


深いところに「私は十分ではない」「だから頑張らなければならない」
という、そんなものをずっと持ってきたのかしらね、私は。


それは自分の人生のどのエリアにも影響を及ぼすわけで、
「受け取れない」もそうだったり、
いつまでも自分を認めてあげられない、ということも起こる。


でも、それは全て「私の思い込み」であること。
その思い込みを自分の世界に投影し、投影すれば、
その思い込みどおりの事象が当然、展開される(ように見える)。
その思い込み(もはや「重い込み」)は私が生き生きと前に進むことを阻むもので、
正直、邪魔なわけで、全くもって役に立たない。



おいおい、小さい亜由子がまた泣いてるよ。。。



ブログを通して、
思えば随分と私の「スったもんだエピソードと、その後の成長」を書いて参りましたが、
特にここ3年くらいはかなりギウギウに色々なことが起きて、
昨年末には「いっやあ、かなりきつい一年だったけど、何とか乗り越えたし、
だからもう来年は・・・!」なんて時に、
年明けにドッカーーン!でしたから、


正直、本人も
びっっっっ・・・くり。




でも、事件からの2週間。
色々なことに改めて気づくことができたし、
気づける、ということは、その先へ行く道も見つけられる、ということ。


気づけても、その先への道が見えても、
実はその新しい道へ一歩踏み出すという行為が、
最も難しい。

「私は〜ではない」「私は〜できない」ということへの「罪悪感」を捨て、


「私は十分ではない」

から

「私は十分である」

へ。


そのたかだか2~3文字の変更が、怖くてできない。
「十分ではないから、愛されるために常に頑張っていなければならない」が心地いいわけですから、
自分が十分である、ということを認めるということは、
あった車輪がなくなっちゃうような、バランス崩してどうなっちゃうか分からない状態というか、


「愛されるための頑張り」が必要でなくなるということは、


じゃあ、えっと・・・、その空いたスペースをどうすりゃいいんだ?


ってなっちゃうのです。



でも、私はそのスペースを空けることにしました。
そのスペースには「自分に優しくすること」を入れることにしました。
この2週間はひたすら、そんなことに向き合ってきたと思います。
そういう意味ではすごく忙しかったのです(笑)。


家族は私が、例えば、食事を作ってくれるから、
洗濯をしてくれるから、お掃除をしてくれるから、
私を愛してくれてるのではない、ということ。

それは自分が子供だった頃のことを思い出せばよく分かる。
私は母が美味しい食事を毎日作ってくれたことに感謝こそすれど、
「だから私は母は愛している」ではない。
波乱万丈の人生であり、我が家族に多大なる悲しみをもたらした父だって、
「だから私は父を愛していない」ではない。

完璧な人間も、両親も存在せず、
たとえそこに怒りや悲しみがあったとしても、
絶対にそれだけではなく、
また美しいことだけでもない。


そして、きっと両親にとっての私もそうだったはずだ。
プラスアルファ頑張ったから私を愛してくれたのではない。
どんな娘であろうと、彼らは私を愛してくれたであろう。
(それは自分が親になって分かる)



全部ひっくるめての無条件なのだ、結局。


それを私は自分に向けてやれないだろうか。


小さい亜由子は未だ「条件付き」だと思ってる。
その子を救えるのは私だけだ。


あなたは十分であり、
あなたは愛されている。



もうそれだけでいいではないか。
誰がなんと言おうと。



そうやって、この2週間、意地悪な私が何かを言い出して、
胃がキリキリする度に、私は立ち止まって、
「待った!」をかけ、「私は本当はどうしたい?」と聞く練習をしました。


いつも先回りして、あれしなきゃ、これしなきゃと
自分を焦らせるのも、意地悪な私。


自分の頭の中の言葉に「〜しなきゃ」が出てきたら要注意。



そんなコツも分かってきました。



「あった車輪」がなくなったのだから、
新しい走行の術を学んでいかなければなりません。
もちろん、今度こそ軽やかにスイスイ行けるように。



まだ練習中ですが、続けようと思います。



『前編』『後編』に分けるほどのものだったのか、と思いつつ、
今年もこのような稚拙な文章、無駄に長い、
(アップしてから気づく誤字脱字の多さたるや)
そんなブログを続行させて頂こうと思っております。


今年もどうぞ、気長に、
50次元過ぎても成長を諦めたくない私と
お付き合いいただければ、
この上ない幸せでございます。


2023年初ブログ、これにて「完」!!!
(長過ぎるだろ)


感謝と愛を込めて
AYUKO



まずは春に向けて走行中。





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新年早々(心に)嵐を呼ぶ女〜『前編』〜

2023年01月14日 | 生きていると
<プロローグ>

今日こそ新年初ブログを、と思い準備。
温かくて心地よいのはダイニングテーブルがある部屋、がしかし、
息子がテレビでYoutubeを観ていてどうにも気が散る。
寝室という手もあるが、北側にあるため、静かだけど
やたら寒いし暗いし、冬場は夜以外は避けたい。

では、ダイニングテーブルに着きながらも、
こちらはこちらで自分のパソコンのYoutubeから
いい感じの音楽をヘッドフォンから流しながら
やってみてはどうだろう。


静かで落ち着くのがいい、と思い選んだのは、
逆に静かで落ち着き過ぎて、
このまま目を閉じて瞑想したい気分になる音楽。
あかん。これじゃ書く気が出ない。
じゃあ、スローでCozyなJazzはどうであろうか。
いい感じだけど、ヘッドフォンから流れているので、
どうも「聴いちゃう」し、
何ならこのままラジオパーソナリティーな気分でしゃべりたくなる。
(イメージとしては伝説の深夜ラジオ番組Jet Stream的な)
喋りたいんじゃない、書きたいのだ、私は。


・・・とにかくヘッドフォン越しで音楽が流れると、
集中できないということが分かり・・・


<本編>

はい!皆様!
今日は寝室からお届けいたします!
(暖房つけて、毛布とお布団をお腹までかけて、
枕を立ててそこに寄りかかって膝にパソコン)

年が明けて、
ここまで来るのにちょうど二週間かかりました。

すっかり明けて、すっかりいつもの日々。
毎年、この頃になるとお正月が遥か昔のように思ってしまう。

お正月は本当にあったのか。存在していたのか。
幻ではなかったのか。


新年のご挨拶がこんなにも遅れましたこと、
大変失礼いたしました。
お正月をお祝いされた方も、
お祝いされなかった方も、
否応なしに新年は訪れた訳で、
お正月がどうであったか、というよりも、
今現在の皆様が健やかで幸せでありますように。


と、まるでもう<エピローグ>がという雰囲気ですが、
いやいや、こんだけ日にちが経って、
この長文AYUKOがここで終わるわけがない。


先に
「年が明けて、
ここまで来るのにちょうど二週間かかりました。」と、
書きましたが、


なぜ、こんなに「かかったのか」。



このブログを長く読んでくださってる方々は
はい、お察しの通り、
「また色々あって、グルングルンやってて、書けなかったんだろう」、
正解でございます。


私の場合はフィジカルに忙しいというのは滅多になく、
たとえそういうことがあっても、ブログは書くでしょう。
しかしながら、However、
メンタルに忙しい、その対処に忙しい、時は書けない。

そして、その闇が明けてから、再登場する。。。

そんな繰り返しよ!


簡単に言えば、


1月2日に(なぜか)どーん!!!と落ちて、
昨年のとは全然違うカテゴリーでの心の大掃除が始まり、
その対処に追われいた。



つまり、今が一年のうちのどこであろうが、
そんなの関係なく、魂の成長というのは
容赦無く促されるのであります。
それがお正月だろうが!!!



「やっと本当に落ち着いたな」と思えたのは、
この2,3日なのです。
だからこうやって今、ブログを書けています。


今回のカテゴリーというのは、
私自身も「え?そこ?」というカテゴリーで、
けれど、ああ、そこをちゃんとやっとかないと、
この先に行けないんだな、というところ。


そのカテゴリーとは、


母親としての罪悪感からの
完璧主義の視点から自分を打ちのめすからの
愛されるためには何かを差し出さなければならないからの
私は(愛されるのに)十分ではないという思い込み


今ざっとまとめると上記のような感じです。

さて、1月2日に一体何が起きたのか。

大したことではないのです。
ある意味、「お母さんあるある」かもしれません。
(でも、根は深かった)

毎年元日は横浜にある夫の実家に家族で行きます。
私はお料理を3-4品作って持っていきます。
別にそれは、そうしろと言われたことではなく、
逆にそうやって作るのが好きで、
毎年やってきました。


29~30日あたりに買い出しをして、
31日にはある程度のものを作っておきます。
2日はこちらの家族だけでやるので、
横浜に持っていくお料理を多めに作っておいて、
2日用にいくらか残しておいて、
更にそれ以外に必要なもの、作るものを考えて、
買い物をしなければいけません。

元日の朝には、作り置きできないものを作り、
いざ、横浜へ。

大したものは作っていないのですが、
二日分のことを考えたり、
作る時間を考えたり・・・


こうやって書きながら思い出しても、
「私、随分と頑張り過ぎていないか。」と思う。


私は家族とにしても、友人とにしても、
みんなで美味しい食事を囲むというのがすごく好きで、
「こうしたい」というのが強いのですね、何かをする時。
これ作って、あれ用意して、そんで、そんで・・・!


私にとって喜びである行為が、
今年はとてもきつかった。

買い出し前からすごくしんどかったのです。


そういう自分を強行突破して
「やらなきゃいけない」となり・・・

元日はお陰様で良い時間を横浜で過ごしましたが、
何か色々限界に達していたのでしょう、
2日に何が起こったか。


私は私で計画をしていた。
家族用にお正月の料理を考え、用意し、
食卓を華やかにしようと。。。


お昼過ぎくらいからみんなで祝おうと思っていたら、
夫や娘は勝手にお餅を焼いて、
作っておいたお雑煮を先に食べ・・・
「お腹空いてません」状態に。


そこで大爆発ですよ。私。

新年から家族の前で大号泣。


何のために昨日、今日とここまで用意したのか!
こんなに作ってる私は馬鹿みたいじゃないか!
何なのよ、みんな!



もうね。すごかった。


でも、あるある、でしょ?


そこから2週間近くかけて、
その「コア」にある部分と向き合わざるを得なかった。

なぜならその「あるある出来事」をスルーできなかったからです。
翌日になっても精神的に不安定で、
どんどんと「蓋をしてきたもの」が出てくる。
家族に対して、ではなく、自分の自分による自分に対して、の「古い癖」です。


どうにもならないような感情が湧き出てきました。
怒りやら憎しみやら悲しみやら、一体それらはどこから来たのか、というような。
その出てくる感情が久しぶりにあまりにも強力なもので、
対処しきれず、パニック発作のようなものも起きました。
幸いそれは続くというものではなかったのですが、
本当に辛かったし、怖かった。


今となってはどうやって
それらと向き合い、許し、流し、
今の新たな自分へと辿り着けたのかは
もう細かいことは覚えていないのですが、
でもとにかく新年早々、


容赦ない洗礼。



しかし、ここまで書いたのなら、
先に書いた

『母親としての罪悪感 からの
完璧主義の視点から自分を打ちのめす からの
愛されるためには何かを差し出さなければならない からの
私は(愛されるのに)十分ではない という思い込み』


がどういうことなのか、
最後まで書かせて頂かないことには
気が済まぬ。

エネルギー配分も考えて、



新年一発目から『前編』『後編』で
お届けいたしますっ!




新年の沈黙2週間、
AYUKOに一体何が起きのか?!




『後編』へ続く






元日、横浜に行く前。
次の日に嵐が来ることなどまだ知らない。




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