私は30代前半、
なんの興味もなかったのですが
ご縁があって、ある先生のもとで
一年間ボイス・ヒーリング(声の波動を使ってヒーリングする)を
学ぶことになりました。
ボイスヒーラー養成講座であったわけですが、
ヒーラー?は?私が?という「場違い感」のもと、
そこからの一年は私にとって人生の転機、
というか、心の中の最大のシフトが展開されたのでした。
(それについては過去にいくつかブログに書きました)
さて先日、
その先生(と言っても一才年下、で、今はお友達、で、今はヒーリングはとっくに引退されて、
内装の会社の社長をしていらっしゃる。バリバリの超やり手ビジネスウーマン)と、
当時の仲間、今も大っ好きで大切な友達、の三人で、
(三人で集まるなんて10年以上ぶり?)昼飲みをしました。
(まさかの8時間@サイゼ in 恵比寿)
後半、あの頃の話になったのです。
つまり20年近く前になります。
そして、(先生が)私に初めて話してくれたことがありました。
先生とは全く繋がりのないある人から、先生の話を聞いて、
けれど私はとても興味があったので、
本当に「好奇心」で彼女にヒーリング&カウンセリングセッションをしてもらいに会いに行きました。
当時、歌のことで今後どうしようと悩んでいたので、
そのことについて相談でもしてみようと。
(本当にその程度)
ここからが初めて知ったこと。
私が現れて、彼女が最初に見たものは
私の母(後で実際の母に会って、それは私の母であったことを確信したらしい)が
私の背後から覆いかぶさるようにいて、
私を鎖のようなものでグルグル巻きにしているような姿であったと・・・
その後私と話をしている間も
「あなたは裏切らないわよね。あなたは裏切らないわよね。」という言葉が
母から聞こえていたという・・・
この下りだけだと
『うしろの百太郎』か!という怖さ。
いや、私も怖かった。
初めて聞いた。
だけど、今なら分かる。
よく分かったよ、これまでのことが・・・
その時に先生は
「ああ、これをなんとかしてあげないと、この子は歌えない」と思ったそうだ。
私がわざわざアメリカの音大に行ったのも、
「お母様から離れるため」って後に言われた。
その時はさっぱり意味が分からなかったけれど・・・
母は、成功し大変裕福な作家(母にとっての義父)の息子(つまり私の父)のところに嫁いだ。
昭和時代のお話。
細かい話は割愛するとして、
先生曰く「お母様は本当に必死だったと思う」と。
母は必死であった・・・か。
自分も子供も「きちんと」「ちゃんと」していなければならない。
小さいながらも、私は母の夢と希望と期待を一身に受けているのは
無意識でも感じていたと思う。
「ここに嫁ぐこと」によって
彼女が諦めなければいけなかった夢、
諦めなければいけなかった自由、
諦めなければいけなかった自分。
でもそれに対してどうすることもできなかった自分。
「なんにもない自分」・・・。
私は母の「夢」だったのだ。
それは分かっていた。
私は母の夢を背負っていたこと。
母が叶えられなかった夢を私が叶えること。
母の代わりに生きること。
思えば私はいつも一生懸命だった。
無意識に、一生懸命だった。
それは母の夢と希望を背負ってのことだったのだろうか。
私はいつも「ちゃんと」していた。
私はいつも頑張っていた。
ぎゅーぎゅーに縛られていることも感じず、
当たり前のように。
だからいつも疲れていた。
それ故だったか、感情の起伏がひどかった。
特に落ちる時はひどい落ち方をしていたな。
小中高の友達に聞けば
「あゆちゃんはいつも頑張ってた」って口を揃えて言うんじゃないだろうか。
でも、頑張るのはいいことだと思っていたし、
ちゃんとしていることは、もはや「当たり前」のことだった。
かと言って、私は頭の固い優等生というわけでもなく、
また母はそれよりもむしろ、
「勉強はできるが、しっかり外で遊んでる」のがかっこいいと思っていたので、
中高の時は驚くほど自由を許してくれていた。
・・・と書きながらも、
ああ、私は「母の代わりに青春やってたのか」と思い始めた。
お嬢様的な感じを身につけることも、
ちゃんとしているように見せるのも、
まあ、一つの処世術のようなもので、
それらは決して悪いものではなく、
役に立てられるものだ。
問題なのはメンタルの方。
先生から先日「まさかの怖い話」を聞いてからの、
でも腑に落ちての、
今、思うことね。
私は小学1年生の時に松田聖子に恋に落ち、
そこからLPが出る度に父に秋葉原で買ってもらい、
全曲歌詞を覚えるまで歌うようになり、
中1からはそれが洋楽に移ったわけですが、
やることは同じ。
いつしかLPはCDへと変わっていき・・・。
私にとって歌は・・・
自分の心を自由にできる唯一のツールだったのかもしれない。
そこだけは「ちゃんと」しなくていい。
そこだけは私は自由に曲を選び、
自分が思い描く憧れの世界に浸れる。
もしくは「憧れの自分像」みたいな・・・
先に書いたように、
私の感情の動きというのは
辛いほどのものでした。
(今思えば。)
そういう感情を声に乗せ、
その声を歌やメロディーに乗せて、
「外に出してやる」というのが
どうしても必要だったのだと思います。
音楽、というより「歌」なの。
ピアノもやっていましたが、
言葉があり、メロディーがあり、声を使う、
歌である必要があったのだと思います。
中高の時に(英語)演劇部に入ったのも、
何かの形で安全に感情を出す必要があったからかもしれません。
少し前にある人に
「歌があって良かったですね」と言われたのですが、
今になって、ああ、そういうことか、と。
自分の中で渦巻く感情を「外に出してやる」必要があった、
と書きましたが、
私が一つのジャンルにこだわらずに、
色々なジャンルを歌っていたのも、
もちろん、それは勉強も兼ねていましたけれど、
外に出してやらないといけない心の中のもの、
満たしてあげないといけない、心の中で描いていた色々な世界、
をカバーするには、
一つのジャンルでは足りなかったからかもしれない。
2016年に5年間の休業を経て復帰した時に、
初めてディズニーやミュージカルのナンバーをやったのも、
「まだカバーしなきゃいけない私の内なる世界」があったからかもしれない、
と今だから思ったり・・・。
私は自分のために歌わずにはいられなかったのでした。
自分を救うために。
自分を守るために。
そして、自分を「証明」するために。
人のためなんかじゃなかった。
自分のために。
自分の存在証明のために。
でも、それも
30代前半で終わりました。
それは色々な理由がありましたが、
自分を守るための、
自分証明のための歌であるならば、
もういらない、
そういうことだったのかもしれません。
先生から先日聞いた初めての話、
実はその後数日尾を引きました。
すごく考えてしまったのですね。
母のこと。
母と自分。
絆なのか、鎖なのか。
そして、今も、無意識のうちに何かが残っている・・・きっと。
それが急に怖くなってしまってね。
私は未だに「母の夢全部を背負って生きているのか」と。
じゃあ、「私」は一体どこにいるのか。
「私」って誰なんだ。
ってね。
でもね。それを突っ込むのはやめた。
今の私は、十分に今の私だ。
ここまで成長し、ここからも成長する私がいる。
肉体の年齢は50歳だけど、中身の成長にはそんなの関係ない。
こうやって
満を持して(?)先生からの話を聞いて
過去を振り返ったり、今の自分の確認をしたり、
そうやって、ちゃんと大切な機会を与えられているということは、
ここからの自分の成長過程も信頼すればいいじゃないかと。
誰もが、父と母から影響を受ける。
それは避けられない運命だ。
たとえどちらかが不在、どちらも不在で育ったとしても、
不在としての父と母がいる。
みんなにいる。
良い影響だか、悪い影響だかなんというのは後付けで、
「今の自分」の幾らかの割合はそれで形成されている。
でも結局、じゃあ、どうする?というのは自分の選択で。
恨むも、感謝するも、
「今の自分」をどう捉えるかだと思う。
母は母で懸命だった。
彼女の夢と希望という情熱でもって私を懸命に育てた。
それを全て背負ったのはなかなかのアレだったし、
頭と心への打撃も相当で、思えば、多分それで30代にパニック障害という形で
爆発したのではないかと、色々今になって辻褄が合ってきたけど、今も生きてるし、
そういう「執着という情熱による縛り」がなければ
私は歌を必要としなかっただろうと思う。
つまり歌手AYUKOは誕生しなかったわけよ。
そしてね、
かつてのように
「自分を救うために、守るために、証明するために歌うこと」は
もう必要なくなった今、
私は今度は自分の意思で、
自分を自由にする。
二つ前のブログ『パンドラの箱〜あの時の私が諦めたこと、そして夢』に
書いたように、
誰に言われたのでもない、
自分が本当にやりたいことを「ちゃんと」やる、笑。
(これこそ正しい「ちゃんと」。)
音楽を通し、歌を通し、
好きなように、自由に、表現をする。
そういう本当の自分をさらす、
という意味で、
私は人のために歌いたい。
ここからは。
母の夢から
私の夢へ。
かなりタフな基盤を作ってくれたのは母。
母を許すこと。
母に感謝すること。
そして私を許すこと。
今だから。
親はどんな形であれ、
「愛」について教えてくれることは確かだ、と思うのです。
どう学ぶかは
自分次第。
そしてね、
私の母はそれでも、ちょっと(相当?)形が崩れていたとしても、
精一杯私を愛してくれた、
いっぱいいっぱいのところで、
愛してくれたのだということは、
私は忘れてはいけない。
そして今、もう一つ先生に当時教えてもらったことを思い出しました。
一人一人が「愛のビーカー」を持っているとして。
親の愛のビーカーはいつも満杯ではなくて。
(愛が)足りないんだって。
だから、こちらから(愛を)注いであげて、
そこから溢れてきたものをこちらはもらうんだ、って。
皆さんはこのお話をどう思いますか。
*聴くブログ!?「Soul Quest Sound Blog」という
ラジオなようなものを勝手に作って展開しております!
このブログの調子が、そのまんま私のトークと音楽で展開されています。
このブログのカテゴリー「Sound Blog」から是非どうぞ!
クリックしてすぐに聴けるようになっています。
私のオフィシャル・ページを
どうぞご訪問くださいませ。
プロフィール、経歴、ライブ情報、
それから私の歌も視聴できます!
https://www.ayukosaito.com
↓日々の「歌ってる動画」をInstagram(IGTVセクション)/ Twitterにアップしています
Instagram https://www.instagram.com/ayuko.is.here/
↓「歌ってる動画」以外にも、『今日のインスピレーション』(短い言葉)を展開しています
Twitter https://twitter.com/AyukoSaito
↓私の過去のlLIVE映像などはYoutubeでアップしています
https://www.youtube.com/channel/UCZiH2XUoIk7XVpWLuowKDUA
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ご縁があって、ある先生のもとで
一年間ボイス・ヒーリング(声の波動を使ってヒーリングする)を
学ぶことになりました。
ボイスヒーラー養成講座であったわけですが、
ヒーラー?は?私が?という「場違い感」のもと、
そこからの一年は私にとって人生の転機、
というか、心の中の最大のシフトが展開されたのでした。
(それについては過去にいくつかブログに書きました)
さて先日、
その先生(と言っても一才年下、で、今はお友達、で、今はヒーリングはとっくに引退されて、
内装の会社の社長をしていらっしゃる。バリバリの超やり手ビジネスウーマン)と、
当時の仲間、今も大っ好きで大切な友達、の三人で、
(三人で集まるなんて10年以上ぶり?)昼飲みをしました。
(まさかの8時間@サイゼ in 恵比寿)
後半、あの頃の話になったのです。
つまり20年近く前になります。
そして、(先生が)私に初めて話してくれたことがありました。
先生とは全く繋がりのないある人から、先生の話を聞いて、
けれど私はとても興味があったので、
本当に「好奇心」で彼女にヒーリング&カウンセリングセッションをしてもらいに会いに行きました。
当時、歌のことで今後どうしようと悩んでいたので、
そのことについて相談でもしてみようと。
(本当にその程度)
ここからが初めて知ったこと。
私が現れて、彼女が最初に見たものは
私の母(後で実際の母に会って、それは私の母であったことを確信したらしい)が
私の背後から覆いかぶさるようにいて、
私を鎖のようなものでグルグル巻きにしているような姿であったと・・・
その後私と話をしている間も
「あなたは裏切らないわよね。あなたは裏切らないわよね。」という言葉が
母から聞こえていたという・・・
この下りだけだと
『うしろの百太郎』か!という怖さ。
いや、私も怖かった。
初めて聞いた。
だけど、今なら分かる。
よく分かったよ、これまでのことが・・・
その時に先生は
「ああ、これをなんとかしてあげないと、この子は歌えない」と思ったそうだ。
私がわざわざアメリカの音大に行ったのも、
「お母様から離れるため」って後に言われた。
その時はさっぱり意味が分からなかったけれど・・・
母は、成功し大変裕福な作家(母にとっての義父)の息子(つまり私の父)のところに嫁いだ。
昭和時代のお話。
細かい話は割愛するとして、
先生曰く「お母様は本当に必死だったと思う」と。
母は必死であった・・・か。
自分も子供も「きちんと」「ちゃんと」していなければならない。
小さいながらも、私は母の夢と希望と期待を一身に受けているのは
無意識でも感じていたと思う。
「ここに嫁ぐこと」によって
彼女が諦めなければいけなかった夢、
諦めなければいけなかった自由、
諦めなければいけなかった自分。
でもそれに対してどうすることもできなかった自分。
「なんにもない自分」・・・。
私は母の「夢」だったのだ。
それは分かっていた。
私は母の夢を背負っていたこと。
母が叶えられなかった夢を私が叶えること。
母の代わりに生きること。
思えば私はいつも一生懸命だった。
無意識に、一生懸命だった。
それは母の夢と希望を背負ってのことだったのだろうか。
私はいつも「ちゃんと」していた。
私はいつも頑張っていた。
ぎゅーぎゅーに縛られていることも感じず、
当たり前のように。
だからいつも疲れていた。
それ故だったか、感情の起伏がひどかった。
特に落ちる時はひどい落ち方をしていたな。
小中高の友達に聞けば
「あゆちゃんはいつも頑張ってた」って口を揃えて言うんじゃないだろうか。
でも、頑張るのはいいことだと思っていたし、
ちゃんとしていることは、もはや「当たり前」のことだった。
かと言って、私は頭の固い優等生というわけでもなく、
また母はそれよりもむしろ、
「勉強はできるが、しっかり外で遊んでる」のがかっこいいと思っていたので、
中高の時は驚くほど自由を許してくれていた。
・・・と書きながらも、
ああ、私は「母の代わりに青春やってたのか」と思い始めた。
お嬢様的な感じを身につけることも、
ちゃんとしているように見せるのも、
まあ、一つの処世術のようなもので、
それらは決して悪いものではなく、
役に立てられるものだ。
問題なのはメンタルの方。
先生から先日「まさかの怖い話」を聞いてからの、
でも腑に落ちての、
今、思うことね。
私は小学1年生の時に松田聖子に恋に落ち、
そこからLPが出る度に父に秋葉原で買ってもらい、
全曲歌詞を覚えるまで歌うようになり、
中1からはそれが洋楽に移ったわけですが、
やることは同じ。
いつしかLPはCDへと変わっていき・・・。
私にとって歌は・・・
自分の心を自由にできる唯一のツールだったのかもしれない。
そこだけは「ちゃんと」しなくていい。
そこだけは私は自由に曲を選び、
自分が思い描く憧れの世界に浸れる。
もしくは「憧れの自分像」みたいな・・・
先に書いたように、
私の感情の動きというのは
辛いほどのものでした。
(今思えば。)
そういう感情を声に乗せ、
その声を歌やメロディーに乗せて、
「外に出してやる」というのが
どうしても必要だったのだと思います。
音楽、というより「歌」なの。
ピアノもやっていましたが、
言葉があり、メロディーがあり、声を使う、
歌である必要があったのだと思います。
中高の時に(英語)演劇部に入ったのも、
何かの形で安全に感情を出す必要があったからかもしれません。
少し前にある人に
「歌があって良かったですね」と言われたのですが、
今になって、ああ、そういうことか、と。
自分の中で渦巻く感情を「外に出してやる」必要があった、
と書きましたが、
私が一つのジャンルにこだわらずに、
色々なジャンルを歌っていたのも、
もちろん、それは勉強も兼ねていましたけれど、
外に出してやらないといけない心の中のもの、
満たしてあげないといけない、心の中で描いていた色々な世界、
をカバーするには、
一つのジャンルでは足りなかったからかもしれない。
2016年に5年間の休業を経て復帰した時に、
初めてディズニーやミュージカルのナンバーをやったのも、
「まだカバーしなきゃいけない私の内なる世界」があったからかもしれない、
と今だから思ったり・・・。
私は自分のために歌わずにはいられなかったのでした。
自分を救うために。
自分を守るために。
そして、自分を「証明」するために。
人のためなんかじゃなかった。
自分のために。
自分の存在証明のために。
でも、それも
30代前半で終わりました。
それは色々な理由がありましたが、
自分を守るための、
自分証明のための歌であるならば、
もういらない、
そういうことだったのかもしれません。
先生から先日聞いた初めての話、
実はその後数日尾を引きました。
すごく考えてしまったのですね。
母のこと。
母と自分。
絆なのか、鎖なのか。
そして、今も、無意識のうちに何かが残っている・・・きっと。
それが急に怖くなってしまってね。
私は未だに「母の夢全部を背負って生きているのか」と。
じゃあ、「私」は一体どこにいるのか。
「私」って誰なんだ。
ってね。
でもね。それを突っ込むのはやめた。
今の私は、十分に今の私だ。
ここまで成長し、ここからも成長する私がいる。
肉体の年齢は50歳だけど、中身の成長にはそんなの関係ない。
こうやって
満を持して(?)先生からの話を聞いて
過去を振り返ったり、今の自分の確認をしたり、
そうやって、ちゃんと大切な機会を与えられているということは、
ここからの自分の成長過程も信頼すればいいじゃないかと。
誰もが、父と母から影響を受ける。
それは避けられない運命だ。
たとえどちらかが不在、どちらも不在で育ったとしても、
不在としての父と母がいる。
みんなにいる。
良い影響だか、悪い影響だかなんというのは後付けで、
「今の自分」の幾らかの割合はそれで形成されている。
でも結局、じゃあ、どうする?というのは自分の選択で。
恨むも、感謝するも、
「今の自分」をどう捉えるかだと思う。
母は母で懸命だった。
彼女の夢と希望という情熱でもって私を懸命に育てた。
それを全て背負ったのはなかなかのアレだったし、
頭と心への打撃も相当で、思えば、多分それで30代にパニック障害という形で
爆発したのではないかと、色々今になって辻褄が合ってきたけど、今も生きてるし、
そういう「執着という情熱による縛り」がなければ
私は歌を必要としなかっただろうと思う。
つまり歌手AYUKOは誕生しなかったわけよ。
そしてね、
かつてのように
「自分を救うために、守るために、証明するために歌うこと」は
もう必要なくなった今、
私は今度は自分の意思で、
自分を自由にする。
二つ前のブログ『パンドラの箱〜あの時の私が諦めたこと、そして夢』に
書いたように、
誰に言われたのでもない、
自分が本当にやりたいことを「ちゃんと」やる、笑。
(これこそ正しい「ちゃんと」。)
音楽を通し、歌を通し、
好きなように、自由に、表現をする。
そういう本当の自分をさらす、
という意味で、
私は人のために歌いたい。
ここからは。
母の夢から
私の夢へ。
かなりタフな基盤を作ってくれたのは母。
母を許すこと。
母に感謝すること。
そして私を許すこと。
今だから。
親はどんな形であれ、
「愛」について教えてくれることは確かだ、と思うのです。
どう学ぶかは
自分次第。
そしてね、
私の母はそれでも、ちょっと(相当?)形が崩れていたとしても、
精一杯私を愛してくれた、
いっぱいいっぱいのところで、
愛してくれたのだということは、
私は忘れてはいけない。
そして今、もう一つ先生に当時教えてもらったことを思い出しました。
一人一人が「愛のビーカー」を持っているとして。
親の愛のビーカーはいつも満杯ではなくて。
(愛が)足りないんだって。
だから、こちらから(愛を)注いであげて、
そこから溢れてきたものをこちらはもらうんだ、って。
皆さんはこのお話をどう思いますか。
*聴くブログ!?「Soul Quest Sound Blog」という
ラジオなようなものを勝手に作って展開しております!
このブログの調子が、そのまんま私のトークと音楽で展開されています。
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↓「歌ってる動画」以外にも、『今日のインスピレーション』(短い言葉)を展開しています
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