2日連チャンのブログ。
昨日は「ウサギと亀」のお話を取り上げて、
私の周りにはウサギさんたちがいるけれど、
今の私は亀役をしなければいけない、
焦らず慌てずゆっくりと、
そんな話をしました。
でも実はその後、考えました。
私が知っているウサギさんたちは
本当にウサギのようにして
今のところに辿り着いたのだろうか。
違う。
彼らがどれだけ大変な思いをし、
どれだけ立ち止まり、
考え、選択し、行動に移し、
それを何度も繰り返しながら
今の場所にようやく着けたことを
私は知っているじゃないか。
彼らこそ、
地道に、それこそビュンビュンとウサギたちに追い抜かれながら、
亀のように、一歩一歩歩いてきた人たちではないか、と。
そこで
自分が勝手に「ウサギ」にした友人たちに対して
猛反省したのでした。
そもそも
「ウサギと亀」という時点で
そこに「比較」が出てくるわけです。
(誰かと)比較をする時点で、ある意味アウトであり、
だからこそ、
その、どっちが速いかとか、
そこで優劣をつけるのかとか、
「そのような比較の土俵」で
あなたは戦いたいのですか?
と、このお話は問うているようにも思います。
比較自体が悪いことではなく、
何と何を比較し、
何と?誰と?戦うのか、ということだと思うのです。
っていうところで、
まんまと引っかかった私ですが、
もぉ、大丈夫〜〜〜。
と、我に帰る。
確かに「亀目線」で行くと、
我々が作り出しているマトリックスの中では
まるで自分を
社会が、世間が、人々が、事象が、
ビュンビュンと追い越してゆく感じがします。
つまり、「置いてかれてる」という錯覚が起きる。
そう、「錯覚」。
時間軸がある故の錯覚と言いますか。
確かに私たちは時間がある世界に生きているし、
過去、現在、未来という観念があるけれど、
多分、私は感じるのですが、
「それぞれの時間軸」があるように思うのです。
なんと言いますか・・・
一人一人違う時間の中に生きていて、
その違うであろう時間をそもそも
どっちが先だ、どっちが遅れてるか、
と比べること自体が無意味のような。
思うに、
亀のシンボルというのは
「自分軸と自分の時間軸がブレない」
つまり、
マトリックスに惑わされない、
そのような意味があるような・・・
気がしてきましたよ、今日になって。
昨日、不思議なことに、
二人の友人から別々に
『私は私』
という言葉を聞きましてね、
それがずっと心に残っているのです。
私は私・・・かぁ・
なんとなく遠くを見てしまった。
まるで憧れているかのように。
『私は私』というのは
決して排他的になることでもなく、
人や人とのコネクションに対して
否定したり、拒んだりして、
「どうせ私は」的な態度を取ることでもなくて、
まあ、
簡単に言えば
「自己肯定」であり、
しかも徹底したもの。
『私は私』というのは、
自分であることに責任を持つことであり、
責任を持つ分、
自由に自分の世界を描いてゆける、
そういう勇気を持つ、
ということだと思います。
マトリックス(社会、世間、人々、あらゆる事象)に
惑わされないで『私は私』でいるということは、
さっきの亀をビュンビュンと追い越してゆく「流れ」に
巻き込まれない、流されない、ということです。
あくまでも、
淡々と、一歩一歩、
目の前の道を歩いてゆく。
自分が切り開きたい道を切り開いてゆく。
改めて。
亀ってすごいぜ。
二人の友人から『私は私」という言葉を同じ日に聞き、
憧れにも近い感じで、遠くを見た私でありますが、
私、自己肯定感はあるのよ。
『私は私』次元に行くには
あともうちょっとってとこね。
っていう次元にいるわね、今は、笑。
『私は私』と聞くと、
私には『自由』という言葉が浮かびます。
責任が伴う自由だけれど、
だからこそ自由。
責任が伴うからこそ、
『私』という世界を徹底して守る。
それは人を入れないんじゃない、
人でも、何でも、「選ぶ」ということ。
同時にそれは、『私は私』を徹底することで、
自然と自分に合った、必要な人たちや事柄を
「呼び込む」ということでもあると思います。
私は『私は私』と言い切れる強さが欲しい。
それは、弱さがないのではなくて、
全部ひっくるめて『私は私』と言える、
ある意味、自分という存在に対しての、
許しであり、慈悲であり、愛である、
と思うのです。
「〜である」ことの、
勢いと優雅さの、
真剣さと軽やかさの、
美しいハーモニー、バランスなのだと思います。
ああ、しかし、
私も毎度、こうやって
言葉ではいい感じで書けるんだけど、
実際の自分はどうかって言ったら・・・
うわ〜〜はっはっはっはっ!!!
と笑ってごまかす。
・・・と、
それも私か!
よし。
亀さん次元に飛べるように
みんなで唱えようぜ。
私は私。
僕は僕。
アタシはアタシ。
オレはオレ。
おいらはおいら。
麻呂は麻呂。
ミーはミー。
ユーはユー。(ジャニーさん)
*当てはまるものがない場合は、自由に主語を変える。
昨日はクイーンだってので、今日はキングで!
ど迫力!オレはオレ。
ユーはユー。
こんなかわゆいキングも。
誰かさんを思い出す。僕は僕。
*聴くブログ!?「Soul Quest Sound Blog」という
ラジオなようなものを勝手に作って展開しております!
このブログの調子が、そのまんま私のトークと音楽で展開されています。
このブログのカテゴリー「Sound Blog」から是非どうぞ!
クリックしてすぐに聴けるようになっています。
私のオフィシャル・ページを
どうぞご訪問くださいませ。
プロフィール、経歴、ライブ情報、
それから私の歌も視聴できます!
https://www.ayukosaito.com
↓日々の「歌ってる動画」をInstagram(IGTVセクション)/ Twitterにアップしています
Instagram https://www.instagram.com/ayuko.is.here/
↓「歌ってる動画」以外にも、『今日のインスピレーション』(短い言葉)を展開しています
Twitter https://twitter.com/AyukoSaito
↓私の過去のlLIVE映像などはYoutubeでアップしています
https://www.youtube.com/channel/UCZiH2XUoIk7XVpWLuowKDUA
昨日は「ウサギと亀」のお話を取り上げて、
私の周りにはウサギさんたちがいるけれど、
今の私は亀役をしなければいけない、
焦らず慌てずゆっくりと、
そんな話をしました。
でも実はその後、考えました。
私が知っているウサギさんたちは
本当にウサギのようにして
今のところに辿り着いたのだろうか。
違う。
彼らがどれだけ大変な思いをし、
どれだけ立ち止まり、
考え、選択し、行動に移し、
それを何度も繰り返しながら
今の場所にようやく着けたことを
私は知っているじゃないか。
彼らこそ、
地道に、それこそビュンビュンとウサギたちに追い抜かれながら、
亀のように、一歩一歩歩いてきた人たちではないか、と。
そこで
自分が勝手に「ウサギ」にした友人たちに対して
猛反省したのでした。
そもそも
「ウサギと亀」という時点で
そこに「比較」が出てくるわけです。
(誰かと)比較をする時点で、ある意味アウトであり、
だからこそ、
その、どっちが速いかとか、
そこで優劣をつけるのかとか、
「そのような比較の土俵」で
あなたは戦いたいのですか?
と、このお話は問うているようにも思います。
比較自体が悪いことではなく、
何と何を比較し、
何と?誰と?戦うのか、ということだと思うのです。
っていうところで、
まんまと引っかかった私ですが、
もぉ、大丈夫〜〜〜。
と、我に帰る。
確かに「亀目線」で行くと、
我々が作り出しているマトリックスの中では
まるで自分を
社会が、世間が、人々が、事象が、
ビュンビュンと追い越してゆく感じがします。
つまり、「置いてかれてる」という錯覚が起きる。
そう、「錯覚」。
時間軸がある故の錯覚と言いますか。
確かに私たちは時間がある世界に生きているし、
過去、現在、未来という観念があるけれど、
多分、私は感じるのですが、
「それぞれの時間軸」があるように思うのです。
なんと言いますか・・・
一人一人違う時間の中に生きていて、
その違うであろう時間をそもそも
どっちが先だ、どっちが遅れてるか、
と比べること自体が無意味のような。
思うに、
亀のシンボルというのは
「自分軸と自分の時間軸がブレない」
つまり、
マトリックスに惑わされない、
そのような意味があるような・・・
気がしてきましたよ、今日になって。
昨日、不思議なことに、
二人の友人から別々に
『私は私』
という言葉を聞きましてね、
それがずっと心に残っているのです。
私は私・・・かぁ・
なんとなく遠くを見てしまった。
まるで憧れているかのように。
『私は私』というのは
決して排他的になることでもなく、
人や人とのコネクションに対して
否定したり、拒んだりして、
「どうせ私は」的な態度を取ることでもなくて、
まあ、
簡単に言えば
「自己肯定」であり、
しかも徹底したもの。
『私は私』というのは、
自分であることに責任を持つことであり、
責任を持つ分、
自由に自分の世界を描いてゆける、
そういう勇気を持つ、
ということだと思います。
マトリックス(社会、世間、人々、あらゆる事象)に
惑わされないで『私は私』でいるということは、
さっきの亀をビュンビュンと追い越してゆく「流れ」に
巻き込まれない、流されない、ということです。
あくまでも、
淡々と、一歩一歩、
目の前の道を歩いてゆく。
自分が切り開きたい道を切り開いてゆく。
改めて。
亀ってすごいぜ。
二人の友人から『私は私」という言葉を同じ日に聞き、
憧れにも近い感じで、遠くを見た私でありますが、
私、自己肯定感はあるのよ。
『私は私』次元に行くには
あともうちょっとってとこね。
っていう次元にいるわね、今は、笑。
『私は私』と聞くと、
私には『自由』という言葉が浮かびます。
責任が伴う自由だけれど、
だからこそ自由。
責任が伴うからこそ、
『私』という世界を徹底して守る。
それは人を入れないんじゃない、
人でも、何でも、「選ぶ」ということ。
同時にそれは、『私は私』を徹底することで、
自然と自分に合った、必要な人たちや事柄を
「呼び込む」ということでもあると思います。
私は『私は私』と言い切れる強さが欲しい。
それは、弱さがないのではなくて、
全部ひっくるめて『私は私』と言える、
ある意味、自分という存在に対しての、
許しであり、慈悲であり、愛である、
と思うのです。
「〜である」ことの、
勢いと優雅さの、
真剣さと軽やかさの、
美しいハーモニー、バランスなのだと思います。
ああ、しかし、
私も毎度、こうやって
言葉ではいい感じで書けるんだけど、
実際の自分はどうかって言ったら・・・
うわ〜〜はっはっはっはっ!!!
と笑ってごまかす。
・・・と、
それも私か!
よし。
亀さん次元に飛べるように
みんなで唱えようぜ。
私は私。
僕は僕。
アタシはアタシ。
オレはオレ。
おいらはおいら。
麻呂は麻呂。
ミーはミー。
ユーはユー。(ジャニーさん)
*当てはまるものがない場合は、自由に主語を変える。
昨日はクイーンだってので、今日はキングで!
ど迫力!オレはオレ。
ユーはユー。
こんなかわゆいキングも。
誰かさんを思い出す。僕は僕。
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