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音声記録:五代目柳家小さん226事件を語る

2020-08-09 20:46:12 | 参考資料-昭和(前期)

ついこの間、ネット上の何かをリンクしていって見つけたもの。

面白いというのもどうなのかと思うけど、いろんな意味で面白い。

私は反乱兵 五代目柳家小さん

 

五代目柳家小さんは、昭和11年の二・二六事件の際に中心となった部隊の1つである歩兵第三連隊に初年兵として在籍していて、何がなんだかわからないうちに「反乱兵」になっていたという体験を持つ人。

有名な話だと思うけど、本人が語っている音声は初めて聞いた。

このエピソードも有名だと思うけど、こういう具合に書かれるよりも、ずっと臨場感あふれる感じで語ってる。

反乱部隊の屯所に畑和(後の埼玉県知事)らとともに詰めていたが、知らぬうちに自分たちが反乱軍に参加していると知って意気阻喪気味の兵士を見た指揮官に「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『子ほめ』を演じたが、「えらいことしちゃった」と悄然としている兵士たちは笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した、という(本人の回顧談より)。 

 

この隊は警視庁を襲撃した大所帯だったのだが、その際にも、エライ人が襲われるから俺らが警備してるらしい、みたいなあやふやな認識でいて、これはきっと2泊3日で外出をもらえるなぐらいの調子でいた。

ところが、どうもそうじゃないというのが分かってきた。それが如実に表れたのが、隊から飯が支給されなくなったから。おかしい、どうしたんだ、ってんで、ようやく事態が飲み込めてきた。

そこで兵隊たちはみんな腹は減るし、意気消沈しきってる。そこで、上述の通り小林二等兵(小さんさんの本名)に落語をやらせようと指揮官が発想する。

そこで、小隊長がもっとエライ人に許可を得ようとする。

すると、

7分40

そこへ頼みに行ったらね、怒鳴られてね、バーッと

「今この際にそんな呑気なこと言ってる奴があるか!」

それでもやっぱりあまりにも兵隊がしおれてますからね、鼓舞するために一つ笑ってもらった方がいいということで許可された

籐の椅子に腰かけて、こっちはね。そん時「子ほめ」かなんかやったんだなぁ。ちっとも笑わねぇんだ。

笑わないよそりゃ。今生きるか死ぬかの最中でね、どうなるかわからねぇんだから

その前に野中大尉が出てきて、「勝てば官軍、負ければ賊軍だ」なんてね。「なんでもこの戦は勝たなくちゃならない、お前たちの命は俺にくれ」

なんつって、泣きながらね、そんなこと言ってまたドアの向こうに入っちゃったりなんかしたろ

そういう最中だからね、落語どころの騒ぎじゃないよ

 

いやぁ、野中大尉が死を覚悟する局面で落語をという提案は、一般的に考えれば、そりゃもう、「今この際にそんな呑気なこと言ってる奴があるか!」ではあるでしょう。でも、それだけ兵隊のしおれ具合がすごかったのだろうとも思う。

 

小さんさんの話は、噺家さんだけあって、発言者のトーンをしっかりとらえているのも非常に興味深い。

「今この際にそんな呑気なこと言ってる奴があるか!」とか、「お前たちの命は俺にくれ」という部分が、市井の人間の地の話し方と分けられている。

これは話を立体的にするために噺家さんが作ったわけではなくて、実際、そうだったと思う。職人や農民、単なる勤め人から見ると、エライ人、つまり、なんだかそっくり返ったようなものいいをする層は、自分とは確実に距離のある層だったことでしょう。

そして、当時の日本の社会にとってこの構造上の差異は非常に重要な差異だったと思う。

 

最後の方では、この歩兵第三連隊が事件後満洲に送られ兵隊たちが厳しい演習をさせられた話になって、「身体使うのは兵隊でね、頭使うのは上の奴、と、こういうこと」とばっさり言ってる。

隊の方針としては叛乱を起こした軍となった汚名をそそがなければならないという理由から張り切るわけだけど、それは兵隊にしてみれば(実際兵隊が事件起こしたわけじゃないんだから)、「上の奴らの正統をあげるためにね、実に搾り上げられた」となる。

 

ここらへんは、戊辰戦争の頃、お侍以外の人たちは、戦闘を、例えば会津国に薩長の兵隊が攻めてきたと捉えるよりも、お侍さんクラスの話として捉えていて、結果的に農民、町人たちは特に協力も妨害もせずにいたという話を思い出させる。

 

そして、こうやって「上の奴ら」が次から次へと無責任で無鉄砲なことをしたせいで、わけのわからねー事態となって、俺のウチは空襲で丸焼け、親父は戦死、みたいな人たちがわんさかいたのが昭和20年の日本。

兵の命、国民の生活

 

それを、敗戦から数カ月で「一億総懺悔」などといって、みんなの責任にしようと画策したのが当時の日本の支配者層。

前にも書いたけど、東久邇内閣が一億総懺悔などと言い出した時に、石橋湛山が書いた文はそれに対するささやかな抵抗だった。

首相宮殿下の説かれた如く、此の戦争は国民全体の責任である。併し亦世に既に議論の存する如く、国民等しく罪ありとするも、其の中には自ら軽重の差が無ければならぬ

靖国:難きを忍んで敢て提言す by 石橋湛山

 

思うに、オカルト的に言うのなら、大日本帝国(パート1とパート2を含む)は500万か1000万かそこらの人たちの慟哭というより、軽蔑と不信を抑圧しっぱなしにしつつ結果的に抱えた体制なんだから、そりゃもう、何をやろうが、しまりのねーことになるのももっともだ、といったところではないかと思う。

歴史というのはただの書きものではない。


 

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3 コメント

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徳川宗家がだらしない (ブログ主)
2020-08-11 16:07:59
にゃんこさん、

会津は徳川宗家とその親族がタコなうえに、高禄をはんでいた家々がみんなだらしなかった中で、義理を通した立派なお家だと思います。

農民はその時の情景はともかく、江戸期を通じて会津、白河あたりは善政を敷いていたところだと思われます。民をいつくしむ発想を持ったパターナリズム的な善政ではあるとしても。
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Unknown (にゃんこ)
2020-08-11 11:51:17
戊辰戦争の時、イギリスの外交官であり医者であったウィリアム・ウィリスは、西郷従道に戦傷者の治療を頼まれます。ウィリスは敵味方関係なく両軍の治療をしたいと申し出て、東北に向かいます。会津は松平容保が京都守護職であったためか、藩の財政が苦しく、農民などの負担が大きかったようです。とても貧しく体も貧弱であると、ウィリスは記録しています。容保が江戸に護送されるときも、農民たちは冷たい態度だったようです。
堀から多くの死体が引き上げられたが、残虐であったと書かれていた記憶があります。
一方、今の新潟あたりは、とても豊かな印象だったようです。
「遠い崖 アーネストサトウの日記抄より」
返信する
Unknown (にゃんこ)
2020-08-10 09:20:25
国の中で一番頭を使っていたのは誰でしょうね?
日本はトップが責任を取らなかった。ドイツやイタリアの方がマシだったかもと思うときもある。

しかし、本当に国民世論が戦争反対だったら、戦争にもっていくのは難しいのではないでしょうか。
日清日露戦争も世論は戦争やれやれって感じだったようですね。知識人も「露助の首をとれ」とか言っていたらしい。反対していたのは、幸徳秋水とかぐらいかな、あと誰かいましたが、名前は忘れました。
この前の戦争も、米英鬼畜とか言って、知識人も特に反対していなかったのでは。南京陥落は提灯行列で祝ったし、真珠湾攻撃以降の勝ち戦にも浮かれていたし。ロシア人、中国人を嘲っていた。
戦争に負けると、一転、大人たちの言うことが変わったと、小学校の担任から何度も聞きました。
世論を作り上げるのも、誰か支配層なのでしょうが、国民も賢くなくては。今もネットのコメントを見ると、怖い感じがしますね。

2.26事件は誘導されて起こされた。事前に分からないはずがない。
下っ端の兵隊には何が何やら分からないですよね。

天安門事件の現場にいた中国人夫婦を知っていますが、あんな事になるとは夢にも思わずだったようです。呑気に歌を歌っていたとの事。ほとんどの人はそうかもしれません。素晴らしいご夫婦で、旦那さんは日本の古典に詳しく、日本に来る前から、日本人より日本語が出来る。奥さんはトップクラスの民族楽器演奏家でした。娘が大変お世話になりました。
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