昨日の続き。
1941年12月8日をきっかけに南方作戦を公然化させた大日本帝国の主眼は、とにかく石油。
ということで、コメント欄でも指摘があった通り、この中で大きかったのはボルネオの奪取。ここは、オランダ領東インドが支配権を持って石油を生産していた。当時の世界の石油輸出としては、米国に次ぐ輸出量。その他大きいところでは、ルーマニア、イランがある。ドイツは、ルーマニアを支配してそこの石油を使ってた。しかし足らないから、イラク、イランを狙っていたが、既得権者のイギリスに阻止された、って感じですかね。
で、日本は油田地帯ごと略奪する前は、オランダ領東インドから石油などの物資を買っていた。米国への石油依存を減らそうと、むしろこちらとの取引を増やそうという考えであったらしく、交渉テーブルが設けられる(日蘭会商)。
しかし、そのオランダ東インド会社との関係が1930年代からだんだんとぎくしゃくしていく。多分、その前、第一次世界大戦後に欧州の混乱をよそに日本人が東南アジア、特にジャワあたりに入っていったあたりから警戒されていたと思う。日本にゴム成金とかいたよね。
最終的に問題が大きくなるのは、1940年5月にナチのドイツが低地諸国(オランダ、ルクセンブルグ、ベルギー)に侵攻したところ。
日本は、石油、ゴム、錫などを買っていたので、これに対応せねばとなって、オランダ東インドとの交渉を始めるが、そんな中、
1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結。
オランダは英、米に支援を求めて対応しだす。
ここから、徐々に枢軸 vs 連合の枠組みが整いだす、少なくとも、そう想定しておく必要が双方に出てきた、といった感じか。
1940年10月12日 ルーズベルト大統領、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説し、10月16日に屑鉄の対日禁輸
1940年12月29日 ルーズベルト大統領、炉辺談話で「民主主義の兵器廠」になると宣言
1941年1月 英米カナダ参謀会議(英米カナダが軍事的観点からすり合わせをした会議)
1941年3月 米国、レンドリース法制定(米国が認定する侵略国に侵略されているところに援助します、という法律)
1941年4月 中国にフライングタイガースの一群現れる。
(1941年5月初旬 イギリス・イラク戦争、イギリス勝利で終わる。ナチ寄りだったイランにも大手がかかる)
1941年6月17日、日本とオランダの交渉不調が確定
1941年6月22日 ナチス・ドイツ、中立条約を破ってソ連侵攻開始
1941年7月2日 御前会議において仏印南部(ベトナム南部)進駐正式に裁可。7月28日、南部仏印進駐
1941年7月7日 関特演の大動員令発令
1941年7月12日 アングロ・ソビエト合意締結(正式な軍事同盟)
1941年8月1日 アメリカ、「全侵略国に対する」石油禁輸を発表
1941年8月14日 チャーチルとルーズベルト、大西洋憲章発表
ソビエトなど15か国が9月に参加表明。
■ 7月2日はかなり重要
で、こういうタイムラインを見ていると、戦争が始まったのは1941年12月8日ですというのは、たまたま真珠湾攻撃という派手な出来事があったからそう見えるだけで、既に、日本側は、南部仏印進駐を決めた時から、南方作戦、特にオランダ領東インドは取る、というのは規定路線だったのではなかろうか。
だって、ベトナム南部を取るとは、そこからシンガポール、ボルネオ等々を攻略するための、飛行場整備、港湾確保って話だから。
だから、1941年に日本とアメリカが戦争回避のために交渉してました、というのは、してたことはしてたけど、実際、何をネタに交渉してたのだろう・・・といった感じがする。アメリカの関係者たちには、これは日本の時間稼ぎだから信じるなといって交渉そのものを嫌がっていた人たちがいると言われているけど、それも無理はないと思う。
だって、日米戦回避のためには、日本が日独伊三国同盟を降りることぐらいしかブレークスルーはないと思われる。
巷間、こういう話になるとハルノートがやたらに取り上げれてきたけど、それ以前に、現実に、オランダ、フランス、ベルギー等々がナチスに下った状態で、ドイツと同盟を結んでた日本に、極東は別枠ね、となるアメリカって想像できる? アメリカの中にはヒトラー贔屓の一団がいるのは事実だけど、全体として、今だって無理筋では?
日本の側は、中国としゃれにならない関係になっている中で、当時既に、植民地を持つイギリスはけしからん、オランダはけしからん、シナを支援するアメリカはけしからん、赤のソ連はけしからん、みたいなことを国民向けにさんざん扇動している中で、ドイツと組むのをやめます、アメリカさんと仲良くします、というのは仮にあったとしてどういう受け止め方をされたのだろうか?
また、日本が三国同盟をやめていないのだとしたら、日米間で話し合い成立とは、それはつまり、アメリカもナチだ、となるわけ。まぁできない相談だったんじゃないでしょうか。つまり、一体何を会談していたことやら、って感じ。
■ 1942年、「神兵」現る絶頂期
ということで、ともあれ1941年12月8日に、派手な始まり方で日本は米英を相手に戦争をすることになる。
初日のラジオ放送で、日本は米英と戦闘状態に入ったとは言ったが、オランダとは言わなかったように、日本の当局者はオランダを初手から敵とは言わなかった。
無血開城よろしく、無血でその場所を引き渡せ、とナチみたいなことをしたかったらしく見える。
実際、オランダ東インドは武装という点では、まったくお話にならないぐらいの武装でしかなかった。だから引き渡せと「強い」日本さんは思ったんでしょう。
だがしかし、オランダの王室は、日本はオランダと密接不可分の米英に対して戦争をしかけたので日蘭間も戦争状態です、という立場を取った。
そこで、「晴れて」戦争状態となった日本軍は、12月8日から1カ月、
1942年1月 蘭印作戦を開始。wiki 蘭印作戦
タラカン、メナトと進め、ついに、バリクパパン、パレンバンという油田開発の中心地帯を占拠。
「空の神兵」というスゴイ名前のついた空挺部隊が活躍した歌があって、映画にもなってるけど、これはこのパレンバンの飛行場、油田を制圧したあたりのこと。
空の神兵
日本の戦時中の歌にしては例外的に明るい曲調なのもうなづける。しかし、東洋艦隊撃滅の歌のような思想性が感じられないのは、なんというか、この時点では、戦争といっても、基本的に油田地帯の警備兵相手の泥棒行為にすぎない話なので、詳しいことが語れなかったのかしら、などとも思う。
1942年1月の蘭印作戦の成功によって、念願の「自給自足」風の体制が見えてきた!という意味で、1942年のお正月は日本にとって喜ばしい日々だったことでしょう。
有名な「近代の超克」という座談会が開かれるのが1942年夏なので、この対談はまさに絶頂期を背景にしてる。絶頂期だからこそ、西欧近代は終わり、新しい秩序を、世界史の哲学を、とかいう気にもなった。
■ 日米戦回避とはあり得たんだろうか?
ということで、最終的にアメリカの反撃が始まるまでの間、実際日本では、いやよかったですねぇ、大したものですよ、もう白人の時代じゃない、西欧は終わりだ云々という捉えられ方をしていた時代があったことが、すっかり失念されていることに改めて気がつかされた。
また、タイムラインで見ればわかる通り、真珠湾がなくても三国同盟のところから、だいたいの枠組みは決まっていたというしかないのではなかろうか。
1936年の日独防共協定の上に、1939年のドイツ軍ポーランド侵攻、ノモンハン事件という東西の軍事衝突があって、その上で、さらに、欧州が戦争をしている最中、1940年に日独伊三国協定を結んでいるので、日本とドイツはますます強い結びつきになってるとしか言いようがない。
全体的にみれば、1930年代からの策動のピークが1939年にあって、ポーランド、日本を使って東西から仕掛けたがソ連が賢くて強かったので、「X(西側の深いところ)」は、仕方なしなしそこから体制を立て直してソ連と手を組んで後に国連となる連合構想を育てつつ、自分のところの優位性を確保しようとした。逆にナチと大日本帝国は取り残されその新しい秩序の敵となって暴れるだけ暴れてみた、って感じでしょうか。
日本の側は、とにかく油田を強奪して、自分のすきーーーーに使える体制を念願している勢力がずっと粘り強く存在していて、ノモンハンで北進がダメになった時に、資源強奪で命運を握るのが本筋だ派が勢いを増し、いやそれは・・・とか言ってる人たちも最後はそれに乗っかるしかなくなって、イチかバチかになったという感じじゃなかろうか。
(一般人は、戦後もしばらくそもそもノモンハンで日本陸軍の北進の限界が見えちゃったという点を知らされていないので、なぜ北進しないのだ~とか言えてた。冷戦期にもぴったり。)
撫順炭鉱の石炭を液化しようというプロジェクトもうまくいかず、オイルシェールもダメだった、というのも大きな事情だと思う。満鉄を支え、鉄鋼生産の役にたった重要な資源なわけですが、石油対応はできなかった。まぁその、そもそも、言うまでもなく撫順は日本のものじゃないんですけどね。
■ 参考
講談社の絵本「ヒットラー」とナチの好印象残存問題
1941年12月にはソ連に勝ってる算段だった
■ 南方作戦関係
大陸大侵攻作戦&真珠湾攻撃&マレー海戦勝利
1941年12月:主目的は南方資源地帯の確保(強盗)
1941年6月オランダと手切れ、1942年1月油田略奪成功
そうなんですよ、そう。ポイントはイラン。ソ連ももちろん読めてる。
またそのうち書きますが、プーチンが去年発表した論文の中にさりげなく示されていたのはそこだったと思います。多くの人は欧州側の話ばかりみてましたが。
具体的な回避方法としては、これもまた例のコメントに書いたのですが、野田元首相の外交術が有効ではないだろうか。