共謀罪って、事の性質から考えて緊急性のある法案とは到底思えない(笑)。実行が間近、危険が迫っていると思うのだったら各種の準備罪で対応すべきだから。
って、要するに語るに落ちた法案なんですよね、最初っから。
でもって、なによりもまず国会を閉じたい、延期したくない、だからその前にまずこれ通す、というスケジュールなんでしょう。で、どうしてこれを通さないとならないかというと、多分もう現実には各種の監視スキームにゴーサインが出てたり、情報をどこかに流す仕組みが出来てたりするからじゃなかろうかと考える。いわゆる日米一体化ですからね。
というわけで、いやぁ、議会は既に安保法制で亀裂が入ったと思うけど、修復できない方向にぴしぴし言ってる感じ。こうやって冗談のような感じで憲法改正まで行くかもなぁとか思って、何といっていいかわからない感じ。
2015年に
安保法制を開けたら日本会議が見えた
を書いた頃には、さすがに一回止まるんじゃないかという思いがあったが、甘かったですね。壊れても壊れても突き進んでるっすよ。
野蛮人になったなぁ、みたいな。
■ 奇貨居くべし
で、こういうのを見て、リベラル勢の人たちが反対に熱心なのは心強いんだけど、でも、これをナチス化だというのには私は抵抗がある。
日本はこういうことを自分でやってきた国なんだし、今も底にあるスキームは同じってことなのだろうかと考えざるをえない。だから自前の例で語るべき。そうしないから、野蛮人を抜け出せないんだと思う。過去を顧みることができないから、すべきことと、すべきでないことを過去の体験から導出できないんだと思う。自分たちの歴史の中から自分たちで判断をすることを重ねていかないと、文明的な社会を作れないし、それを強くできない。
A国人がこういったから、B国政府がこうプッシュするからこうするんじゃない。私たちはこれを必要とするんだ、といえる価値の体系とその法制度こそ私たちの国の形ってもんでしょ。
そういえば、治安維持法は適正に運用されたとかいうびっくりするようなことを法務大臣が最近語っていたけど、こういうジャッジメントを許さないというのも大事なことだと思う。
これは、昭和の時代の政治家は、自民党でも言えなかった一言でしょうね。なんでかというと、議員さんたちの多くが、それぞれ戦前の体験を持っていて、若い頃に、考えること、知ること、判断することを制限されたことを苦々しく、あるいは苦痛に思っていたから。共謀罪、治安維持法みたいな法律というのは、個人の内面の自由を委縮させていくから、逮捕や監視された人以外にも影響する。そしてこのことが人々の考える幅を狭める。そうであれば、その集団は創造的に豊かな将来なんか望めなくなる。
まぁこういう感じが創造的だというのなら、それも一つの感性だろうが。
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で、こういう発想は、しかし、思いつきでやっているんじゃなくて、我々は何も悪くない、みたいな例の世迷い事日本会議の歴史観なんかと実は地続きでしょう。
それは、例えば、治安維持法は日本国民が自ら外したのではなくGHQが、戦争が終わったにもかかわらず哲学者の三木清が獄死していることを知ってあわてて人権司令でこの法律を廃止されたことが象徴的。我々は何も悪くない派からすれば、このことが既に許せないんだろうと思う。特高警察が事実上生き延びたのも同じ事情でしょう。
で、日本の一部の人権嫌いは、笑えないほど深刻だと思うわけです。100年越しで反・人権をほとんど思想のようにして持っている一群がいると思う。
ってことで、まぁ、なんてか日本は内部環境、外部環境ともに岐路に立ってるなぁって感じ。
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大日本帝国を呼び戻す共謀罪は治安維持法の再来だ!=保阪正康
https://mainichi.jp/sunday/articles/20170530/org/00m/010/002000d?inb=ys
略
昭和前期に特高警察に身を置いた刑事、治安維持法容疑で逮捕された宗教人、自由主義者、そしてごくふつうの市民(当時は臣民といったわけだが)など数十人に私は証言を求めてきた。それは結果的に社会が病むとはどういうことか、を知ることになったのだ。
まず初めに後藤田正晴、鈴木俊一などかつての内務省の官僚だった人物十人余に、大日本帝国下で内務省はどのような役割を果たしたのかを聞いていて、奇妙な言を何度か聞かされた。
それは「私は地方局育ちだから」という語である。内務省の地方局育ちは、ゆくゆくは官選知事になる。ありていにいうなら、ある県の県民の生活を守る、あるいはその環境を守ることを任務とする。しかし内務省育ちの人が、「地方局育ちだから」というときに、そこには警保局育ちで特高警察をフルに使って国民の弾圧に奔走した人たちとは肌が違う、との意味をこめていることに気づいたのだ。
いやほんと、これを伝統だの日本独自だのと言わせないようにせな、と私はかなりマジで思ってます。他のことは多少譲ってもどうでもいいけど、これはいかんという思いだす。
率直にいって私の世代やらジジババの世代はもういいんです、どうでも。でもこれからの子どもたちは私たちよりもずっと多くの、私たちとは様々な点で異なる人々と出会って暮らすんです。それでこれじゃ、困るの!