DEEPLY JAPAN

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どうやって一億総懺悔にもっていくかに腐心してた日本

2018-11-19 20:54:57 | 参考資料-昭和(前期)

昨日の宗純さんのところの記事は、

日本が降伏して5日後の玉音放送

https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/25149cfb2fd2df60dff2fcc3882f03f5#comment-list

だった。

皆さん、特に若い方はお読みになったらいいと思います。お奨めします。

日本が「終戦」したのは8月15日で、ここで全員、泣きの涙で耐えがたきを耐えることになりました、というのはある種のページェントなんですよ、というお話。

だって、日本政府はソ連参戦の後直ちに行動を起こして、8月10日には連合国側にポツダム宣言受託の通知をしてるから。

つまり、残りの5日間はページェントのための作戦を練ってたってことですね。その間死んだ人もいたわけですが。

敗戦という事態によって、多くの人間が通りに出て騒いでそれが後に体制の変革に繋がったら大変だ。どうにかしてみんなで悲しむイベントにしよう、って話。数カ月後に東久邇内閣が「一億総懺悔」を言い出したところまで既に基本線は出来てたと思う。

敗戦といわず「終戦」と呼んだり、日中戦争を意識している風でもあり、しかし4年たって戦況好転しないと明らかに対米戦を意識していたりと、話がごちゃごちゃなのがいわゆる玉音放送の中身の特徴。そして、このいい加減さ、自己都合のオンパレードによる産物が、後の日本を規定して、今に続いている。これは別に一人昭和天皇が考えて行ったものではなく、いうなれば敗戦処理チーム(含む英米)の産物なんじゃないですかね。

 

軽く書いてるけど、いやほんとに、あらためて、腸が煮え繰りかえる。大日本帝国の真髄は、とにかく日本国民を飼いならし、操作すること。この上手さは特筆すべきでしょう。我々は侮蔑のうちに生きてる!と、思わず白井聡になりたくなる。いやでも、そうなんですよ。

 

で、日本国内の国民には8月15日こそ、ということになってるけど外地では既に8月10日の通知からいくばくかの時間がたった主に8月11日にはみんな知ってた。ロンドンは日本より時差の関係で半日遅いから8月10日に、やった~、戦争は終わりだという話になってみんあして路上に出てた。

昨日の宗純さんのエントリーの下の方のコメントで、上海にいた堀田善衛が8月10日の通知の話を書いていると書かれてますが、大岡昇平はフィリピンでは11日に知っていたという話を書いていた。これは、明けて11日になったらみんな知ってた、という成り行きでしょうね。

しかし、その11日の新聞がこれ。よく考えれば、陸軍大臣が「死中に活あるを信ず」と言うというのは、もうダメポだがまだあきらめん、という状況なんだから、こりゃあかんやろ、と読む人がいても不思議ではない。

 

■ 練り込んだ作戦だったソ連の満洲侵攻

上の記事の中で、私としては「ソ連兵力、逐次増強」というところが興味深い。

ソ連の満洲侵攻は逐次増強といった、ちょっと出して出方をうかがうみたいな作戦ではなくて、明らかに、満洲、朝鮮から日本の将兵を掻き出すことを目的として組み立てられている。

東西から押して、時間的に若干遅らせて北から南へ兵力が降りてくる設計。

ここで書いた通り、

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

2018-01-06 19:34:03 | 参考資料-昭和(前期)

アメリカの大物軍事史家のグランツ氏によれば、

ソ連は満洲に入って来る時、難しい作戦になるだろうと考えそれ相当に準備し、それがこのような大胆な作戦の構築につながった。ソ連は関東軍の武勇を尊重した。前にも戦って勝っていたので、それと同様に個々の兵士が猛烈な戦いを挑んでくるだろうと考えた。ソ連は関東軍の配置や状況についてかなり良い知識を持っていた。

結果的に、ソ連は関東軍の、特に国境付近の戦力の強さを過大評価していた。もっとずっと強い抵抗にあうだろうと予測していたがそうはならず、そのためソ連の最初の攻撃は大攻撃になった。

というもの。ソ連はこれを1ヶ月程度を目途にしていたが、1週間でだいたい目鼻がついてしまった。

この本が有名。

The Soviet Strategic Offensive in Manchuria, 1945: 'August Storm' (Soviet (Russian) Study of War Book 7) (English Edition)
DAVID M. GLANTZ
Routledge

 

にもかかわらず、11日というまる1日経ってからの記事が「逐次増強」なのは、まるでわかってなかった or ソ連大攻勢、もうダメポと書きたくなかった、のどちらなんでしょう。わかりませんが後者の線ですかね。であれば、相当わかってて書いてることになるかも。

 

■ 見えてたくせに、としか思えない

で、それはそれとして、そもそもソ連の侵攻の規模を考えれば、誰の目にもつかずに物資を運び入れられるようなものではない。事実、シベリア鉄道を行き来していた日本の外交官やらなにやらの人々は次々に、ソ連は用意してます、ソ連は用意してますと報告をあげていたが日本の当局者は無視したと言われている。

日本の当局者が無視したって中国人や朝鮮人が従ういわれはないので、満洲に住んでいた人たちの後の回顧では、当時、現地の中国人たちが、ソ連が来たらお前は終わりだ的なことを言ったり、ビラ貼ってたという話だ。

いろいろあるけど、作家の澤地久枝さんの話はとてもシンプルで印象的。澤地さんは当時満洲に住んでいて、現地の中国人がソ連が来るって言ってることを聞いて不安になった。そこでそれを学校の先生に言ったら、謀略というものがある、みたいなことを言われて、澤地さんは、そうだわ、イケないわ、私ったら惑わされてる、と心を強くした、みたいな感じだったそうだ。

14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還 (集英社新書)
澤地 久枝
集英社

 

しかし、間違ってたのは先生の方なわけですよ。

 

■ ソ連に負けたと言いたくなかった日米

で、これらの経緯を日本国民はあまり知らされずに来た。特にソ連が参戦したから降伏だとなった経緯をあまり語らず、原爆で降伏したかのような言説が広まっていった。

それを宗純さんはこのようにお書きになる。

ソ連参戦で即座に日本は降伏するが、しかし『ソ連参戦とイコールだった日本降伏』(もしもソ連参戦が無いと、日本は予定していた一億玉砕の『本土決戦』に突入していた)との当時の常識は、ヒロシマナガサキの原爆が不必要だった事実が浮び上るのでアメリカにとっては都合が悪すぎる。

https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/25149cfb2fd2df60dff2fcc3882f03f5#comment-list


海ではアメリカに負けたが、陸の日本最強軍を倒したのは実はソ連で、それがなければ敗戦できていなかっただろう、しかし、そうするとソ連に負けたと言わないとならないので、アメリカは言わせたくなかった、というのはそうなんだと思います。

しかし、それは同時に日本の支配層、エリートサークルの同意するところでもあるでしょう。その意味で、日+英米合作だと思います(占領軍には、知らん顔して英がしゃしゃり出てきていることを多くの人が無視している)。

それはそれとして、ここにはもう一つ問題が残ると思う。それは、

ソ連が参戦したから、覚えず、不本意ながら降伏したのか、それとも、

よし来た!とかなり筋を読んでいて降伏したのか、という違い。

上で書いたように、ソ連が準備を整えていたのに無視していたことから見れば、おのずと後者の疑いを消せないことになる。


なんでこんな風に考えるのかといえば、前から言ってますが、満州にいる関東軍、シナ、朝鮮の軍をどうするのかが真っ先に来ない終戦プランなんてありえない、と思うから。

日本の場合、出先の軍が勝手に行動してしまって大陸の事態が悪化したのだから、関東軍、支那派遣軍、朝鮮派遣軍の意思と行動を確認しない限り、誰かと外交的に文書を交わしても無意味な可能性は特大にある。

戦後の日本人は、日本軍は玉音放送一発でおとなしくなる、秩序だった日本人みたいな妄想を語っているが、誰の言うことも聞かずに他国に侵略していったきり帰ってこなかったのが日本の軍です。

 

ということで、ソ連に不可逆的に叩かれたら降伏しようという考えを、本土にいる日本のエリート集団というか支配者層というかが考えていたとしても別に不思議ではない。

惨いことであるし、ばれたら立ち直れないほどの傷になるとも思うが、軍事覇権を狙う国というのは軍事的カタストロフがないと終われないのかもしれないとも思う。ナチスドイツだって、ソ連に木っ端みじんにやられるまで降伏してない。その途中にあるハンガリーなんかドイツ防衛のための時間稼ぎに使われたようなもの。

 

最終的にソ連軍に正式に降伏したのは8月20日。2015年の8月のスプートニクに何枚か写真があった。ここ

武器を置く日本兵が結構快活そうで、南方に行った兵と比べると圧倒的に元気そう。

 

 

■ まとめてみるに

まとめてみるに、戦後、ソ連に降伏したことを見たくなかったグループは複数あると思われる。

  • アメリカにだけ降伏したかった日本の支配層
  • ご主人は俺たちだけだとしたかったアメリカ
  • 上の成り行きを見せてしまうと面倒だなと思った戦後の支配層
  • 面目なさすぎだろ、と思った戦後の軍関係者(特に陸軍)

そして、朝鮮戦争からはもう一つ加わると思う

  • 朝鮮を解放したのは紛れもなくソ連軍だったと思い出したくない人々

 

■ オマケ

朝鮮がらみの話は、考えてみれば愚かな話なのだが、意外なほど強い原因であろうと思う。アメリカが韓国に向かって、俺たちは共産主義者からお前らを救ったという態度を持つので、そこから何かが始まったと思っているらしい人たちが大勢いる。

その前に、ソ連が関東軍を破ったからこそ朝鮮の独立の話が可能になったというのが抜けてる。別の言い方をすれば、アメリカは自分で陸軍出して関東軍を破ったわけでもないのに、なぜだか自分には満洲、朝鮮を支配する権利があると主張しだしたともいえる。このあたりは、また別途書くが、チャーチルが「Operation Unthinkable(想像を絶する作戦)」を言い出したのとパラレルだと思う。

すなわち、文官のディーン・ラスクなどが、要するにダレスあたりと同じ、ディープステート連中の子飼いの人たちということ。

ダレス兄弟の半世紀

 


 


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2 コメント

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天皇の敗戦責任を誤魔化す芝居がながかった。天皇の (ローレライ)
2018-11-20 00:40:57
天皇のヘボな戦争指揮日本人よる敗戦責任を誤魔化す芝居に時間か延びた敗戦劇だった。第二のロシア革命を恐れて天皇の敗戦責任を誤魔化す芝居をした。
返信する
重要情報は民草には知らされず (ローシャン)
2018-11-20 00:19:56
日本降伏の情報はいち早く関東軍の上層部に知らされ、その家族は8月15日前に日本に帰れました。

私の近所に「叔父さんが関東軍の軍属で、高級将校の軍刀の研ぎ師をしていた」という人がいます。彼の話では「叔父さんは終戦になる前に将校たちの家族を引率する役を命じられアッという間に飛行機で日本に帰ってきた」そうです。

母の勤める新京陸軍病院長(陸軍中将)もいち早く家族と日本に帰りました。看護婦仲間にその中将閣下の愛人と噂された人は大混乱の新京駅頭で母たちと少し離れたところでポツンと一人、いつ来るともしれぬ列車待っていたとのこと。母はよほど印象的だったのか死ぬまでこの光景を何度も私に話しました。

朝枝文書
ソ連崩壊後、モスクワで対ソ終戦工作「朝枝文書」が発見されました。

ー「関東軍2」(防衛庁防衛研究所刊)
関東軍の場合、終戦が単に軍事戦略の問題ばかりら取り上げられたのではなく根本となったのが全面降伏という政略上の絶対問題であったため、それは最後まで極秘のうちに議せられ、この点関東軍は最後まで未知の状態におかれていた。
その点、朝枝大本営参謀は国の対ソ政略を具現する密命を帯びて飛来していた。そして山田司令官、秦参謀総長を説得し、ソ連軍政治部フェデンコ中将と政治交渉を行い、関東軍をして対ソ協力の方向に転換させたー
月刊Asahi1993年第5巻第10号12月1日発行より

朝枝文書は敗戦後の大本営の政略が米ソ離反を策していることがよくわかります。戦後ソ連の悪行とされるシベリア抑留が大本営から「お使い願いたい、国籍離脱も可」とか提案されたことはスターリンにとって渡りに船でした。知らぬは一般兵士だけ。
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