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司馬遼太郎が会津を通して見ていたもの

2015-01-01 11:39:23 | 参考資料-平成

年末ということで家族と適当にだらだらテレビを見ていたら、BSのどこかで文学と風景についての番組をやっていた。それほど凝った仕立てではなかったが、旅と景色と文学という組み合わせはいつだって私の好みなので流し見をしていた。

滝廉太郎と岡城もいいし、川端康成と伊豆も、宮沢賢治と花巻ももちろん素敵だった。日本っていいなぁと改めて思う。

さてその最後に、司馬遼太郎の文章を基に会津を語っていた。大内宿と会津若松市内を説明し、鶴ヶ城の美しい景色を背景に、僕は幕末に会津藩というものがなかったら、日本民族を信用できなかったかもしれない、とかなんとか司馬は語っていたというエピソードを入れていた。

文言はこのままではないが、こんなことを語ったというのは前にも読んだことがあった。司馬が会津藩に思い入れがあるということも知っていたが、あまり深く考えたことはなかった。

おそらく多くの人は明治維新においてふとした成り行きから反政府軍となっていった会津藩に司馬は同情しているという意味でこの文章を受け取っているんだろうと思う。それはそれで間違いではないだろうと思う。

しかし、ふと今日、ああそういう意味かと別の意味を思った。

それは、明治維新という変革はつまるところ薩長勢力による外国勢力へのある種の降参のようなものだった、そこで、もし会津藩が踏ん張ってそれに対して抵抗しなかったとしたら、それはその民族のどこに誇りなどあるのだ、どこに守るべきものがあるのだ、という話だろうな、と。

司馬という人は、最近は右派が司馬史観はけしからんと言って叩くけど、私が思うにこのおじさんは様々なことを理解した上で、日本人が受け入れられる日本近代史を再構築した人なんじゃないのか、など最近思う。

つまり、日本人がそこに寄って立ってある程度自信を持てる近代の自画像を書きたかったのだろうと思う。坂の上の雲、坂本龍馬はその良い例で、これらは史実として考えた場合、誤りというのではなく作為的な解釈の上に存在している。

この人がこの再生日本の近代から徹底して省いたものは、外国勢との関係、経済思想的なものの重要性といったところだと思う。実のところ日本というのは明治維新という名で起った大変革においてかなりのところイギリス勢をはじめとする外国勢に、コントロールという言葉が強すぎるなら、指導されていたという政治ファクターを曖昧にし、あくまで日本人の側が主体となって必要なものを篩い分けて接種してきたかのような錯覚を呼び起こすことに積極的に加担していた、というところ。

実際には、ぶっちゃけ、明治維新という大変革は国籍を超えた金融資本っぽい人たちが世界規模で暗躍している中に起きた。グレート・ゲームの只中といってもいい。大変革は再々私たちが聞かされている通り国内の体制の変更ではあった。しかしその実質は西洋化であり、今にして思えば the Westへの入会のようなものだった。薩長の主だった人たちはその変革における主導者であり、今風にいうならきっちり仕込まれたグローバリストだったわけですね。

しかしそうして否定されていった旧勢力は別に力がないわけでも、能力がないわけでもない。むしろ上等な頭脳を持った人たち、上等な心根を持った人たちは旧勢力の方に多かったといっても過言ではないと私は思い続けている。

また、国家としてみても、武士階級を持ち、商人と農民の間の緩い行き来のある身分制秩序があって、人々は畳の上で暮らし、家畜を飼育せず、肉食を志向せず、木と紙と竹と土の家を守り、下駄を履き、着物を着て綿の布団で寝る生活がどうしようもないほど民衆に唾棄されていたかといえばそこまでのこともなく、また、価値論として「悪」であるわけもなく、これを捨てることが自然の成り行きのわけもない。(このへんは右派も左派も実は進歩主観なのが日本の一大特徴)

にもかかわらず、西洋人と伍して富める国となり、強い国とならねば生き残れないとの思いを定め、ただそれ一点のために、それら旧勢力の人々は「開国」という名の大変革を受け入れた。

現実的なファクターとして、徳川宗家が大政奉還を行い、雄藩5藩が朝廷を掌握してしまった以上、もはや戦いの大義はない。

しかし、もしそれで終わっていたのなら、日本というnationは、the Westの軍門になんの抵抗もせず下ることを含意する。西洋化の意味を具体的に知る人は実に少数だったと思うが、それにもかかわらずこの変革の大きさを肌身で感じる人々はいたということなんだろうと思う。旧勢力の抵抗は、nationの底力とでもいうべきものだったんだろうと私は理解する。

この人たちが、意地を見せて戦って死んでくれたおかげで、この大変革は格好がついたのであり、会津藩はその象徴というべきだろうと私は理解する。司馬遼太郎が会津を通して見ていたもの、それはnationの岩盤のことだっただろう。様々な思惑が交錯し、もはや誰が正統で、何が正しい、適切なのかわからなくなった中でも死をもって通すべき筋を通す人たちがいたということだ。

(明治政府は畢竟外国勢力が見え隠れする上で起ったクーデーター政権ですから、これに反攻する気概のある人たちがいないとしたら、それって何という話だ、と簡単に考えてみてもいい。)

そして、司馬遼太郎が会津を語りたいといいながら語れなかったのは、この整理をつけることは即ち彼が志したと思しき日本近代の物語の再構築からはみ出てしまうことを意味したからだっただろうと思う。

ノモンハンも書きたかったが書けなかった、それは思いが深すぎるからといった言い方がなされるが、この話もまた日本人が安心して信じていられる枠組みを超えてしまうからではなかったかと思ってみたりもする。

その意味で氏は実のところ、かなりthe Westのエージェント的な人のようにも見え、しかしながらそうである自己を引き受けながらも尚日本を誇りある国として存在させたいという意図は確かにあったと思う。

■ とはいえ、これは乗り越えるしかない

私は司馬さんというおじいさんの心情をそのように理解するし、最近までそのままでいいと思っていた。

しかし、私はこの頃それではやっぱりダメなんだろうと考え出している。つまり、もっとざっくばらんに、日本の近代はそもそも様々な好ましからぬファクターもあったし、好ましからぬ人物の野望やら馬鹿さ加減に引きづられたこともあったし、それが故に近隣諸国との関係に齟齬を来したこともあった、といった具合に忌憚なく語ることが、その方が長い目で見れば日本というnationにとって良いんだろうと思いだした。

なぜそうなのかといえば、それは日本の都合というよりも私たちはいやおうなしに世界史的なレベルでパラダイムが変わっていく中にいるから、ということだと思う。

つまり、過去200年かそこら、とりわけこの70年かそこらというのは、the West勃興期第二次隆盛期だった。だからその「側」にとって適切で妥当な解釈こそが正統だった。しかしそれはかなりのところの嘘やごまかしが含まれている。歴史を書くというのはまぁ実際いつでもそうなのだが。

しかし、もしこのフレームが崩れるのだとしたら、私たちが「それでいい、なぜなら私たちはthe Westだから」式に解釈してきたことは、もはや正しくも適切でもなくなるだろう。

2014年に聞いた日本人の発言のうちでこのことに最も気づいてた人は、中山恭子さんだったなぁと改めて思う。にもかかわらず、この聡明な方の御亭主もその周囲の人々も、ふってわいたような「冷戦復活!」というあだ花のような茶番劇に没頭して、大きな流れを見て見ぬふりをしていることが残念でならない。総じていえばこの人たちは保守派ではない。

参照:■ 西欧の文化だけで押す流れとは違う時代にいるんだ

日本の復活は、ひも付きでない、素直で気の長い、筋を通すことに誇りを感じ、不道徳を不道徳と言える保守派が多少でも勢力を作ること以外にはないだろう。 だから・・・まぁ、ないかもしれないですね(笑)。少なくとも短時日のうちには恐らくないわけで、それでもまぁ100年スケールで考えて日本が日本で なくなることのないよう、そのための寄与となるよう念じながら、今年もぐだぐだ書いていきたいと思う。

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