ウクライナの大統領選挙1ラウンド目はコメディアンが1位、ポロシェンコが2位となった模様。どちらも過半数を制していないので21日に決選投票で決まる。まぁまずコメディアンが勝つんでしょう。
コメディアンはオリガルヒのコモロフスキ―が支援してきたという話ではあるし、西側メディアもこき下ろしてはいないのでそういう候補ではあるんでしょう。が、しかし、ポロシェンコが取って来た、NATOに入る、これこそ追及されるべきという主張はこれで多少は知らん顔になるんではないかと思う。
その意味からいえば、オバマ・ヒラリーを倒すにはトランプでもいいか、というのと似たところがあるかもしれない。どっちも既に有名人で浸透しやすく、どっちも素人というのが共通してる。
そんな状況をよそに我が邦では、元号から新天皇へとうかれた報道が続くものと見える。
で、この意味って一体何なのだろう? もちろん安倍一派は保身を図ってるというのはその通りなんだが、いつまで保身するつもりなのだろうか? 真っ先に思いつくのはもちろん憲法改正なんだが、ここで憲法をあの戯けた自民党改正案にしたところで、それが一体何だろう?????という気がしてしまう。
日本国民が経済的に苦境に陥り、正規に予算組できることとなる日本軍という名の極東米軍に軍の予算が大幅に増える、それを糊塗するためにいつまでもアホな話とメディア上の言論統制、思考統制が行われる以外に、何にもないだろう。
もちろん、そうであることが見えているのにそれを防止できない集合的にいう私たちって一体どんな間抜けなの?というのも表裏ではある。
で、この令和なる語の並び。
私はマジでまる半日、りょうな、と呼ぶのかと思っていたら、れいわ なわけね。テレビを見てなかったので、菅がどう読んでいるのか知らなかった。
なんか、れいわ、って国語の答案だったらバッテンが付くような読み方って気がする。これはやっぱり和語としては「りょう」では?
「な」の方は、元和のな。家康の頃の年号ですね。
令を「れい」と読むとしたら、逮捕令状の令、戒厳令の令以外に思い浮かばない。戒厳令下に治安を求めたがるクーデーター政権ならではの元号と言うべきなんだろうか。恐ろしい。
ただ、こういう字列を生み出す思想的な背景は安倍と共に一貫して存在するとも思う。紅白の垂れ幕をつけて昔の陸軍そっくりの閲兵式を自衛隊にやらせちゃう安倍ならではだな、とも思う。負けた軍を再現してどうするつもりなんだ!!とどうして誰も怪しまないんだろうと不吉で仕方がなかったのだが、安倍周辺の、殊に靖国をカルト的に信仰している人たちは昔の軍は負けていない、大日本帝国は本当は勝っていたのだ、正しいのだ、と思ってるんだからああなると考えれば不思議はなかった。普通でない人たちと付き合うって大変。
でもまぁ、もうどっちでもいい。どのみちサブカルなんだもの(笑)。
そして、もう年号も終わりだなと思った。
どれだけ役所が書類という書類に書きまくろうとも、それはただの文字列。機能も魂もない。
年号というのは、なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる、的な心情をそこはかとなく持ち、漠然としたorder(秩序)を多少なりとも感じている集団に対して、どこからともなく上の方から降ってくるところに意味があるわけでしょ。吉祥とか理念とかをかかげて、それが天の下をしらしめる、時を刻む、という発想だと思う。ある意味、プラトン的。
元号を時々に変えたり、天文方を擁して独自の暦を作っていたことは日本集団が一つの独自の集団であることのrepresentation、現れ、だったんだろうと思うわけですよ、私は。
だから、こういうのを近代国家の管理下に入れないで持っておくことが望まれた、と私は思うわけだが、アホな人たちが元号を(統治権力者としての明示的存在としての)天皇に直接に結びつけ、一度はそれが緩んだというのに、再び元号法制化なんかして機能を抜いていったというところでしょうか。
ことこうなった最初は、結局のところ天皇というのを西欧、中国etc.における皇帝と同義にするという明治政権によるクーデーターが問題だったんだなとあらためて思う。だからこそ、元号というのをそれら諸外国におけるregnal yearに比定しちゃった。regnal yearは、~皇帝の3年の時、みたいな王の統治時間と一緒に記録するというやり方。日本も最初はそのつもりだったんだろうけど、日本の天皇は長いこと現実的に統治はしてないですから、次第次第に離れて行った。そこが面白かったのに、というのが私の考え。
サブカル猿の頭なんて、どうせこの程度。