清洲に先着した東軍が、家康が来ないのを怪しんで大騒ぎすると、家康が村越直吉を出してうまく唆し、豊臣家子飼いの大名たちを進んで岐阜城を攻めさせる、というシーンは家康ものの定番。その中にあっては、福島正則らが反射的に、戦好だが智謀を持たぬものとして描かれる。
しかし、彼等にとって岐阜城攻めはそんなに戦意を高揚させるようなものだったのだろうか。なにしろ、岐阜城の城主は織田秀信、つまり織田信長の嫡孫だ。
織田信長の死去から18年もたっており、世はようするに戦国だとしても、ここで動揺はなかったのだろうか? 特に、池田輝政のように、豊臣恩顧の大名というより、そもそも織田家由来の人が、かつて自らも城主であった岐阜城で一族の旧主の嫡孫を討つといった行動を取るのに躊躇はなかったのだろうか。
あったとしてもせん無いことではあっただろう。しかし、そう簡単に事が流れていたとも思えない。そこで気づくのは上述した村越直吉のエピソード。この愚直というか誠実というか、の人物が家康の言を伝えたことで、福島以下が奮起する、という話しは、つまるところ合戦を後世に描く際に無理やりフォーカスをあてたエピソードでなかったのか…。
ひとつのエピソードをクリップして、そこだけ大きく見せて、毎日毎日テレビで流したりすると、背後にあった本質的に重要な流れ(だいたいにして複雑な)を消してしまい、結果として視聴者の関心が大事な背後には向かなくなる、というやつ。
三成を必要以上に悪者にしたて、君側の奸として糾弾することで、物語に筋を付けて人口に膾炙させたのは徳川時代なのだから、私たちはその故意の錯誤の上に解釈しがちだと考えていいんだろうと思うし、そう考えながら読んだり見たりすると、徳川時代が長らく続く鍵のひとつは、様々な情報操作がとても上手だったという点にあるのだろうなと思ってみたりもする(芝居を通して歴史解釈上の善悪をやんわりと浸透させるとかもそのひとつ)。
■参考ドラマ
徳川家康 第39回 関ヶ原前夜