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葵徳川三代 第10回 前哨戦

2012-03-18 20:49:29 | 葵徳川三代(2000)
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■冒頭解説

慶長5年の大名(知行1万石以上)の数は約240。これが東西に別れ、全国のあちこちで戦端が開かれた…。関ヶ原に至る概況。

岐阜城を落とした東軍は、大垣城を素通りして赤坂に陣を張る。石田三成(江守徹)は、東軍は佐和山に攻め込むつもりではないかと危惧する。琵琶湖の東岸の佐和山を落とせば京、大坂に入りこまれてしまう。三成は少数の供を連れて自身の居城佐和山に戻る。

一方、伊勢路では、安濃津城、松阪城陥落。これで援軍が美濃に来られると三成たち西軍は沸きかえり、勝利の暁には関白にするというオファーを持って小早川秀秋対策に乗り出す。しかし小早川秀秋(鈴木一真)は病と言って会おうとしない。三成、大谷は小早川の家康への内通を疑っているがいかんともしようがない。

美濃路では、赤坂に陣を構える東軍と大垣城の西軍はにらみ合ったまま膠着状態。
9月1日、家康は江戸城を出発。3万の大軍とはいえ実践で使えるのは6000程度といわれる(精強部隊は秀忠と共にある)。

大津城では、京極高次(小野寺昭)が東軍への寝返りを決意。 (京極高次の正室は淀の方の妹)

その頃、徳川精鋭部隊を率いる秀忠は中山道をひた走るが、信州上田の真田昌幸の挑発に乗り戦闘を開始。簡単に片付くつもりではじめたものの昌幸の術中に嵌り、一旦小諸に引き上げる。挑発に乗った家臣たちを軍令違反で処罰。

ちょうどその時、江戸からの使者が到着。使者は長雨、川止めなどで大幅に遅れて到着。書状によれば、家康は、秀忠軍に、9月10日頃までに美濃赤坂に着陣すべしと言っている。9月10日とは明日ではないか! 秀忠軍は急ぎ美濃に向かうが難所続きで思うにまかせない。

9月11日、家康、清洲城に到着。秀忠が到着していないことに愕然とする。美濃方面への進軍を病と称してとりやめ様子を見る。

家康は浜松。小早川方より内応の起請文届く。

西軍は、なぜ家康が来ないのかを不審がっている。小早川は日和見、毛利輝元は出馬をみあわせ、京極高次が寝返った大津城は手間取っている。

そこに、小早川が参陣するとの知らせが入る。三成は毛利輝元の代わりに松尾山に布陣させる。9月14日正午、家康が着陣。


■史実周り

タイムライン:秀吉没す~関ヶ原へ


●秀忠軍と上田の真田

信州上田の真田との(大きくはない)戦で手間取っている秀忠。どうも本当に嵌っぽい。

しかし、この話しはしばしば、わざと嵌ったのではないかといわれる。つまり、徳川本体をわざわざ中仙道に入れて、関ヶ原本戦に遅らせることで本体を守ろうとしたというもの。

関ヶ原の戦いは見れば見るほど家康にそんなに余裕があったとも思えないので、この説はだいたい拒否されているといっていいかと思う。

とはいえ、大河ドラマ『徳川家康』では、徳川本体をわざと中山道に入れ、遅らせて、万一の場合でも秀忠軍が残るようにするのさ、と滝田栄演じるところの徳川家康はうそぶいていた。



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