平取町立二風谷アイヌ文化博物館。平取町二風谷。
2022年6月9日(木)。
苫小牧市美術博物館を11時50分ごろに出て、苫小牧東部の沼ノ端東ICから日高自動車道の無料区間を利用し、鵡川で下りて、12時50分ごろ平取町立二風谷アイヌ文化博物館手前の公園駐車場に着いた。3分ほど歩いてアイヌ文化博物館に入館。
平取がアイヌの代表的な居住地だということは数十年前から知っている。入口で全道のアイヌ文化博物館のパンフレットを入手した。51か所が紹介されており、約半数を見学することになったが、この博物館はウポポイと並び代表的な博物館であった。
ゲノム解析により縄文人とアイヌ人は最も近縁と分かっており、アイヌ文化は縄文文化の秘密を解く鍵である。また縄文人は北東古アジア人に近く、北南米のアジア人とも近縁なので、アラスカ・北米はもとよりアステカ文化、インカ文明に至る人類学的な文化の根源を解く鍵でもある。
平取町を貫流する日高一の長流、沙流川(さるがわ)の流域に暮らすアイヌの人たちはサルンクル(沙流の人)と称され、北海道内におけるアイヌ民族の中でも1つの有力な文化圏を形成してきた。
アイヌ民族にかかわる遺跡・史跡・伝説の地等が数多く分布し、古くからの風習を今に伝える人の多いアイヌコタンが集中している地域として有名で、海外からも含めたくさんの研究者が注目し訪れてきた。
二風谷および沙流川流域は、アイヌの生活文化を濃厚に保有する地域で、1890年頃まではアイヌの人々だけが居住していたという。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館で展示しているアイヌ民族の生活文化に関する資料は、民俗文化研究家の故・萱野茂氏によって収集されたコレクションを基礎としている。
自らもアイヌ民族の血を継ぐ萱野茂氏は、平取町・二風谷の地で生活しながら、1953年ごろから半世紀にわたる歳月をかけてアイヌ民族の伝統的な民具を収集した。
萱野氏の収集資料は、二風谷を中心とした沙流川流域のアイヌの古老たちによる生活文化に関する伝承や関連情報が豊富にともなっていることが特徴である。
収集が始められた1950年代初頭は、日本社会全体の高度経済成長とともにアイヌの生活文化の変容も急速に進む状況であった。とはいえ、伝統的な生活を深く知る明治生まれの古老たちが当時はまだ健在であった。萱野氏は彼らから直接伝承を受け継ぎながら、アイヌの生活用具を収集し、また製作した。そのため、萱野氏のコレクションには実際に使用できる日常の暮らしの道具がまとまりとして揃っている。
これらの資料は、1972年に北海道ウタリ協会が主体となって建設した二風谷アイヌ文化資料館で保管・展示され、その後、1992年に平取町立二風谷アイヌ文化博物館が建設されるに伴い収蔵資料の過半数が町に寄贈され、残りの資料が二風谷アイヌ文化資料館の旧施設を利用した私設の萱野茂二風谷アイヌ資料館に保管・展示されることとなった。
現在、資料は平取町立二風谷アイヌ文化博物館に約1400点、萱野茂二風谷アイヌ資料館に約1000点と二館に分かれて保管・公開されている。
両館が所蔵する資料のうち、二風谷を中心とする沙流川流域で使われ、製作法や使用法などの記録が明確な資料を整理したもの1,121点が2002年、国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。公式名称は「北海道二風谷及び周辺地域のアイヌ生活用具コレクション」である。そのうち、アイヌ文化博物館では919点を所蔵している。
採る
アイヌの人々は漁狩猟、山菜採取、簡単な農耕によって食糧を得ていた。漁狩猟は男性が、山菜採取、農耕は女性や子供が担っていた。狩猟は主に秋から翌年の初夏にかけて行われた。
シカ、クマ、ウサギ、タヌキ、キツネ、テンなどの獣類や、鳥類が対象であったが、シカを除くクマや小動物は、食糧獲得よりも毛皮獲得に重きが置かれていた。シカ猟は、シカの自由がきかなくなる積雪期に行われ、数人の男性が海や川、崖に追い込んで、一度に複数のシカを獲った。クマ猟には、冬眠中のクマを対象とした穴グマ猟と、主に夏から秋にかけてのワナ猟があった。その他の小動物のほとんどはワナ猟による捕獲であった。
川漁では、サケ、マス、ウグイ、イトウ、シシャモ、ヤマメ、イワナ、フナなどが対象となり、その捕獲には網や簗(やな)がもちいられたが、サケやマス、イトウなどの大型の魚は、マレク(マレプ)と呼ばれる鉤が用いられた。
アイヌの人々は、一年を通じてさまざまな動物を捕獲したが、そのなかで最も重要な食糧なのがシカとサケであった。シカとサケはともに「群れ」をなして行動しているので、一度に大量に獲ることができ、効率的な食糧であった。
山菜採取は春から秋にかけて行われた。アイヌの人々は植物に関する知識が豊かで、数百種類の山野草を食用のほかに薬用としても利用した。
農耕がいつから始まったかははっきりとは分かっていない。いまから800年以前からヒエ、アワ、キビなどが栽培されていたが、施肥、除草などは行わない、極めて初源的なものであった。
江戸時代の末期には、和人の影響を受けて蔬菜類の栽培が始まり、ジャガイモやカブ、ダイコン、カボチャなどがつくられるようになった。
アイヌの人々の農耕が本格化したのは明治以降である。アイヌの人々は計画的に食糧を獲得し、冬期間や飢饉に備えて食糧を加工して保存した。
アイヌの人々の保存法は塩を使わず、そのほとんどが乾燥・燻製であり、肉類は切って茹でて乾燥させたり、燻製にして保存した。魚は焼き干しや燻製にして長い間保存できるようにした。そのほか、穀物や豆類、山菜類も乾燥させた。食糧は「プ」と呼ばれる高床式の食糧保存庫に貯蔵した。プには常時、2~3年分の食料が保存されていたといわれている。
マキリmakiri。和名、小刀(採集用具、柄・鞘のみ)。サイズ(mm)長278、幅61。木製柄・鞘/彫刻あり。製作者:貝沢福次。収集(製作)時期:1972/昭和47年頃。収集(製作)地域:二風谷。
説明1(使用場所・方法)。「マキリというのは小刀の総称ですが、山行きのときにいちばんふつうに持っていくマキリもただマキリといいます。これはいわば標準型のマキリで、刃は少し反りがあり、両刃です。
「マキリは、この山行きのときのマキリに限らず、それ一丁で木を彫り、皮をはぎ、炊事にも使うというふうに、何にでも使える大切な道具でしたが、おもな用途によっていくつかの種類があり、使いわけられてもいました。
説明2(製作方法)。(クルミの木)。「マキリの刃を、ずっと古くはどのようにして手に入れていたのかは分かりませんが、私のおじいさんたちの時代(大正十三年ごろから昭和のはじめごろ)には二風谷に平村イホッカさんという鍛冶屋さんがいて、何でも打ってくれていました。マキリのさやは、トペニ(いたや)やネシコ(くるみ)などの木を削って作ります。直径十五センチくらいの太さの丸太を二つ割りにし、作るさやの大きさに合わせて切ります。それをさらに二つに割って木の芯をさけ、それを削ってタシロのさやと同じようにして作り、思い思いの彫刻をほどこし、腰に下げて大切に持ち歩いたものです。
レウケマキリ。曲がった小刀(木工用具)。サイズ(mm)、長208、刃渡り93。鉄刃・木製柄。収集(製作)地:二風谷。
メノコマキリmenoko-makiri。和名:女用の小刀(採集用具、鞘・柄のみ)。サイズ(mm):鞘・長179、幅33、柄・長103、幅25。材料・材質:鉄。1955年頃・二風谷・貝沢前太郎所有。製作者 鞘:川上ヤユッコレ、柄・根付け:萱野茂。収集(製作)時期:昭和二十九年。収集(製作)地域 二風谷。
説明1(使用場所・方法)。「昔は女も狩りについていくことがよくありましたし、鹿の皮をはいだり、それを裁ったり、あるいは山菜や木の皮をとりにいくときや護身用として、女にとってもマキリはぜひ必要な道具でした。それで女性もふつうのマキリの三分の二ほどの小型のメノコマキリ(女用小刀)を、うんと反りをつよくして美しく彫ったさやに入れて、腰にさげて歩きました。
説明2(製作方法)。「カエデ」。「若い男は好きな娘ができるとメノコマキリを作り、そのさやに美しい彫刻をほどこして贈ります。贈った女性がそのマキリを腰にさげてくれれば男の求愛を受けたことになり、もしさげてくれなければ拒否されたことになるわけです。そこで男たちは美しい娘をお嫁にもらえると思えば彫る手にもおのずから力が入り、丹念に彫りあげたものでしょう、現在残っている古い作品には、ほれぼれするような良いものがいくつもあります。また、古いメノコマキリのさやにはポネサヤ(骨製のさや)のものが多く、鹿の角や鯨の骨を削って作ってあります。木製のさやは多くはいたやが用いられています。