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青森県五所川原市 十三湊と安藤(安東・秋田)氏

2024年04月24日 10時14分59秒 | 青森県

市浦歴史民俗資料館。五所川原市十三土佐。中の島ブリッジパーク内。

2022年9月28日(水)。

市浦歴史民俗資料館では、中世港湾都市・十三湊(とさみなと)と十三湊を支配した安藤(安東・秋田)氏に関連する中世遺跡を主に紹介している。なお、十三湊関連の展示は撮影禁止であった。

高山稲荷神社を見学して、そのまま北進し、中世、安東氏の交易港・十三湊として繁栄した十三湖(じゅうさんこ)へ向かった。途中、「浜の明神」があり、中世はここが十三湖の入口だったという。

国史跡・十三湊の標識がある地点で駐車して周囲を歩いたが、史跡らしきものはなかった。

北進して橋を渡ると、西側に「十三の砂浜公園」があったので立ち寄ってみたが、石碑ぐらいがあった程度。ただ、南に岩木山がくっきりと見えるのが印象的だった。

十三湊の繁栄や郷土の歴史を展示する「市浦歴史民俗資料館」は、十三湖に浮かぶ小島「中の島」の「中の島ブリッジパーク」にある。

湖畔の駐車場から「中の島」へ遊歩道橋を渡ることになる。自動車が橋を渡って来るのをみたが、1車線しかないので、歩いて渡ることにした。岩木山がくうきりと見える。

その前に、十三湖名物のシジミ汁を駐車場にある売店で食べてみた。250円。美味かった。

国史跡・十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置している。

戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえる。

中世港湾都市・十三湊は13世紀から15世紀前半にかけて豪族・安藤氏が支配して、北海道に暮らすアイヌ民族との交易で栄えた。十三湊遺跡の解明は、日本列島の北方中世の交易史を解明する上で、極めて重要な意味を持つとされている。

十三湊遺跡で発掘調査が進められた結果、湊町の始まりから繁栄、廃絶に至る変遷課程が明らかとなったことから、平成17年7月に国史跡指定を受けた。 

かつては大津波によって一瞬にして壊滅したという伝説が信じられていたが、豊かな暮らしぶりや文化の高さが徐々に明らかになってきた。

また、周囲にある安藤氏の福島城跡や宗教施設の山王坊遺跡などの発掘調査も進められ、十三湊を取り巻く中世湊町の全体像も把握できるようになってきている。

中世北方世界の支配者安藤氏

安藤氏は鎌倉幕府執権の北条義時によって蝦夷沙汰代官(えぞさただいかん)に任命された、エミシ出身の在地豪族である。前九年の役で戦った北方の勇者安倍貞任(あべさだとう)の末裔を名乗り、室町時代には「日之本将軍(ひのもとしょうぐん)」の称号を与えられて、津軽海峡を挟んだ北方世界を支配した

最盛期を迎えるのは、14世紀前半に起こった一族内部の跡目相続、蝦夷沙汰代官職を巡る争い(「津軽の大乱」)に勝利した安藤季久(あんどうすえひさ)(宗季(むねすえ))が津軽西浜にある十三湊(とさみなと)に拠点を移してからと考えられている。

計画的に建設された港湾都市十三湊遺跡。

十三(じゅうさん)は、今は「ジュウサン」と読むが、江戸時代後期までは「とさ」と読んでいた。「とさ」の語源はアイヌ語の「ト・サム(湖沼のほとり)」であるという説が有力だが、定かではない。

十三湖は現在直接日本海に開口するが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていた。遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2km、東西最大500mに及ぶ

前潟(まえかた)に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、13世紀初頭の成立期の遺跡はこの中央付近で確認されている。

集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝檀林寺跡が位置している。

中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分される。

土塁北側は遺構及び遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と推定される。

大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側の遺構は14世紀前半にさかのぼる。

14世紀後半以降は、大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が20から30m間隔で規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割が見られる。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、遺跡の中心的な場であることを示唆する。

この地区では、15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在する。火災により多くの施設が焼失した後、一旦復興作業が行われたと推定される。この火災は永享4年(1432)の南部氏との抗争で安藤氏が敗れた際に伴うものとの指摘もある。

土塁南側は地割から町屋の存在が推測されている。側溝を備えた南北道路と、その両側には掘立柱建物及び井戸を伴う区画があり、南辺には墓跡や畑が見られる。

この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられる。ここから約300mおいた南側には伝檀林寺跡がある。土塁や溝等による一辺百数十mの方形区画が東西に二つ並ぶものと考えられる。

東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定される。

前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測される。汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土している。伝檀林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じである。

遺跡のほぼ中央、旧十三小学校の校庭沿いには東西方向に伸びる土塁と堀跡が現在も残されている。近年の研究では最盛期に都市領域の南限を区画する役割を果たしていたものと考えられている。なお、土塁北側にある旧十三小学校付近では領主、家臣クラスの屋敷跡も発見されている。

一方、土塁南側では、「古中道(ふるなかみち)」の小字名をもつ道路沿い(県道バイパス)に街区(町屋)の跡、十三湊南端の十三湖岸沿いに中世寺院跡(伝檀林寺(だんりんじ)跡)が広がっていた。

遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。主に出土品の分類などから現在では3つの地区に分けられており、荷揚げ場跡や丸太材、船着場と思われる礫層などが出てきた北部が「港湾施設地区」、出土量が多く中心地と思われる中部が「町屋・武家屋敷・領主館地区」、南部が「檀林寺跡地区」とされる。南部には奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる

中世十三湊の世界。

本州最北の十三湊は、南方からもたらされる陶磁器や米などとともに、北方の蝦夷ヶ島(えぞがしま)(北海道南部)からの海産物をも扱うターミナルとして栄えていた。室町時代までに成立した海商法規「廻船式目(かいせんしきもく)」には当時の全国の主要な湊が「三津七湊(さんしんしちそう)」として記載されているが、十三湊も博多などと並んでその一つに数えられている。こうした交易活動が、安藤氏の豊かな経済基盤となった。

十三湊の船の出入り(水戸口(みとぐち))は現在の水戸口から南へ4キロメートルの場所(明神沼(みょうじんぬま)南端)で行われ、付近には船の安全を祈願するための「浜の明神(はまのみょうじん)」(現湊神社(みなとじんじゃ))が建設されていた。湊神社は、今も「出船入船(でふねいりふね)の明神」として漁業関係者に信仰されている。

中世十三湊の衰退

十三湊の繁栄は、15世紀半ば、急速に台頭してきた南部氏との戦いに安藤氏が敗北したことによって終わりを告げた。南部氏に攻められた安藤氏は一時柴崎城(しばさきじょう)(中泊町)に逃れた後、蝦夷ヶ島へと落ち伸びていった。その後、何度も津軽奪回を試みるが叶わず、安藤氏はやがて、秋田檜山(ひやま)方面へと拠点を移していった。

安藤氏が去った後の十三湊を南部氏が顧みることはなかった。十三湖の砂州に再び人が住み始め現在の集落の基礎ができるのはそれから一世紀後のことであるが、その間十三湊は砂で埋まり、幻の都市になっていったのである。

室町時代中期、安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って夷島(えぞがしま。蝦夷地のこと)へ逃げると、担い手を無くした十三湊もまた急速に衰微し、和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は、野辺地湊(のへじみなと。野辺地湾に面する湊。盛岡藩の北の門戸として江戸時代に隆盛。現在の上北郡野辺地町域にあった)や大浜/大濱(現在の青森市油川地区にあった湊で、15世紀末~16世紀に隆盛)に奪われた。

その後、時代が下るにつれ飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。しかし16世紀後半から再び整備され、復興が図られている。江戸時代には岩木川を下ってきた米を十三湊から鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町域にあった湊)へと運ぶ「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊(現在の西津軽郡深浦町域にあった湊)、鯵ヶ沢湊、三厩湊(現在の東津軽郡外ヶ浜町域にあった湊)、青森湊などと共に弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えた。

縄文時代。円筒土器と亀ヶ岡式土器。

後氷期初頭(新生代第四紀完新世初頭) - 縄文海進の始まり。本州島北西端部の日本海に面した海岸部では、遠い未来に十三湖となる湾入「古十三湖」が形成され始める。

縄文時代前期 - 縄文海進が極限に達したこの頃、古十三湖(十三の湾入)が史上最も広大な水域(岩木川水系全域と推定される)となる。その湾入に面した台地の上では人々の活発な活動が見え始める(集落や貝塚が急増し、新潟産の翡翠や北海道産の黒曜石なども見られることから、すでに古十三湖─日本海経由の交易が行われていたことが分かる)。

縄文時代後期 - 岩木川水系のもたらす土砂の堆積により、古十三湖が大幅に縮小し始める。

福島城跡・内郭。五所川原市相内。

十三湖の北岸に面する標高約20mの台地上にある。面積は約62万5000㎡である。外郭とその中にある内郭で構成される。外郭は一辺が約1㎞の三角形をしており、土塁と外堀が残っている。内郭は一辺が約180mの四角形をしており、土塁と外堀・内堀で外郭から区切られている。外郭の東側および内郭の東側に門があった。

内郭は室町時代前期の14世紀後半から15世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3㎞の位置にある十三湊が最も栄えた時期にあたる。

これまで福島城は、いつ、どのような目的で作られた施設か分からず謎に包まれていたが、平成17年から21年にかけて青森県による発掘調査で内郭南東部から中世の武家屋敷が見つかり、安藤氏の居城であることが明らかになった。内郭では、門跡が復元され、土塁や堀跡が残る。一方、外郭では土塁や堀跡、門跡を巡る遊歩道が整備されている。

古代城柵にも似た構造を持つことから平安時代後期の10世紀後半に地域経営の拠点となる福島城が築城された。

平安時代末期にはアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏の支配下となり、一族の藤原秀栄が現地に土着し、後に十三氏を名乗ったが、1229年に安東氏によって、居城の福島城を攻め滅ぼされたという。

青森県周辺では、高屋敷館遺跡など、このころの城館ないし防御集落が多く発見されており、それらとの関係が注目される。10世紀後半から11世紀までの土師器が城域から出土するが、東北地方北部が北海道で9世紀に始まった擦文文化圏に合流していた時期にあたる。同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であるとも考えられる

道の駅「十三湖高原」の展望台から、南の十三湖と岩木山方向。

安東氏は元来、津軽地方の豪族であった。源頼朝は奥州平定後,安東氏を代官として津軽地方を管領させた。十三湊を本拠にして成長し、鎌倉末期ごろには藤崎城に拠る宗家上国家と、十三湊を本拠とした下国家とに分かれた

南北朝時代に盛季は津軽十三湊に拠って下国家を称し,その弟鹿季は秋田土崎湊に拠って上国家 (湊家) を興し秋田城介を称した。

室町期の南部氏の津軽侵入によって、下国家の十三湊安東氏は、十三湊から蝦夷地に逃れたが、出羽に戻って檜山(ひのやま)に城を築き、檜山安東氏とよばれた。

上国家湊安東氏は、蝦夷地に渡らず、津軽から南下して秋田郡を支配し、湊に城を築いて勢力をもち、両家は八郎潟北岸付近を境として、独自の領国制を展開していった。

上国家の友季に男子がなく,下国家より政季の曾孫舜季を迎え,その子愛季(ちかすえ)のとき両家は合体して近世大名の秋田氏となり、1602年常陸宍戸(ししど)藩に移封、1645年陸奥三春藩5万5000石に転封、幕末に至る。

 



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